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「ヒステリックな女」
「愛の家」
慎太郎は、夕日のオレンジに染まる我が「愛の家」を見上げた。定年まであと数年を残し、営業の第一線から退いて早数ヶ月。夕飯前にはめったに帰れなかったスケジュールもずいぶん緩和されて、いささか淋しいような心持さえする昨今。我が家を見つめる慎太郎の心は沈んでいた。暖かな夕日の色と同化した家の顔とは対照的に。
「愛の家か……。よく言ったものだ」慎太郎は自嘲した。この家のローンは、定年を過ぎたあともずっと続く。回りと必死に足並みを合わせようと、三十八歳で無理して新築した家である。頭金もほとんど入れず、しかも「ゆとりローン」などと、実はあとでゆとりを奪う銀行の愚策に乗せられて、三十五年もの長期ローンを組んで買ったハコモノだった。
慎太郎は、背広のポケットから鍵を取り出し、暖黄色に染まった鉄製扉を開けた。すうっと中から冷たい空気が流れてきて、慎太郎の肩のあたりにまとわりつく。心なしか、少しかびのにおいがする。
この家には、今は慎太郎以外住む者はなかった。
家を買った時は、慎太郎にとって一番脂の乗った時期だった。家のこと一切を妻の藍子一人に任せ、連日連夜、仕事に接待に奔走しまくった。二歳になってようやく二語文を話し始めた娘・まりなの可愛らしさも、生まれたばかりの息子・勇聖の柔らかさも記憶に薄い。
これが幸せの代償だ、などと自分に言い訳しながら、酒のグラスを傾けていた。
数年後、転勤が決まったとき、家族はついてこなかった。あなたのいない間、この家は私がしっかり守っていきますから。藍子は言った。「これまでと同じように」
なんとなく言葉に棘を感じた。
自分が買った家なのに、当の慎太郎はほとんど暮らすこともないまま、家は古くなっていった。
運動会や文化祭はもちろん、まりなのピアノの発表会も、勇聖の野球の試合も、一度も見にいったことがない。
だって仕方がないだろう。俺にはあの時選択肢がなかった。時代だよ。そうだった。
慎太郎は無理やり自分を納得させようとした。
本当に選択肢はなかったのか?
あまり考えすぎると分が悪くなりそうで、慎太郎は思考回路を自分から止めてしまう。
「あなた聞いて、PTAの迫さん、モンスターペアレントなの。学校に苦情を訴えることで、自分のストレスを発散させてるのよ。学校も、彼女のけんか腰の態度には辟易しているんだけど、頭を下げるしかなくて。なんたって本人は正義の味方のつもりなんだから。私いやだわ、あんな人と役員一緒だなんて」
藍子は何度か、慎太郎に期待してくれたのかもしれない。解決策なんか要らないのよ、ただ話を聞いてくれるだけでいいの、そんなふうに訴えかける藍子の目の色に、慎太郎は気付かないふりをした。
「家の事は、君に任せたと言っただろう」
やがて「ゆとりローン」が首を絞め始め、毎月の返済額が倍に跳ね上がったくらいから、藍子はパートに出るようになった。
思春期になって難しくなったまりなも勇聖も、回りに合わせるように塾に行きたいと言い出し、「親の安心料」という高額な月謝も、生活を圧迫するようになっていった。
食事を与え、金銭を与え、教育を与え、待遇を与えてきた慎太郎・藍子夫婦だったが、何か大切なものを子供たちに与えるのを忘れていたのかもしれない。
それは「心」だったのか、「温かな時間」だ
ったのか。ゆとりローンを組んで家を買った
慎太郎なのに、大切な事を考えるゆとりはまったくなかった。
慎太郎の長い単身赴任が終わるや否や、子供たちは、まるで申し合わせたように遠くの大学に入学して家を出た。さらなる経済的負担を親に強いるのも厭わずに。勇聖がさらっと言ったものだ。「親の務めだろ」
いつだったか慎太郎がリストラの憂き目にあいそうになったとき、まりなが、しれっと言ったことがある。
「パパに役職があるうちに、いい男を見つけてゴールインしなきゃ。結婚式のとき、親が無職じゃカッコ悪いもの」
結局リストラは、その後回避されたのだったが。
それからしばらくした頃だった。藍子がパート先の店長と不倫に走って家を出た。みっともないから籍は抜きませんと書き置きをして。
慎太郎には、藍子を連れ戻す勇気も、別れる情熱もなかった。
俺は幸せになりたかった。だから馬車馬のように働いた。だから無理して家を買った。それのどこがいけないっていうんだ。それのどこが間違っていたっていうんだ。
いったい全体、「幸せ」ってなんなんだよ。どういうのが「幸せ」っていうんだ。
慎太郎自身、何かとても大切なものを身につけぬまま年を取ってしまったのだと自覚した。
「家」という容器のなかに、「愛」という中身を入れるのを忘れていた。
慎太郎はたった一人ダイニングテーブルにつくと、買ってきたコンビニ弁当のふたを開け、缶ビールのプルタブを抜いた。
慎太郎の「愛の家」は堂々と建っていた。柔らかな夕日のオレンジ色を反射して、まるで幸せの象徴のようなその家は、確かにそこに建っていた。
やがて迫り来る夕闇に飲み込まれるその瞬間まで、愛を歌うかように微笑みながら。
「ギャップ」
その人影には見覚えがあった。すっと背筋を伸ばしたまま、大またに歩く女の影。颯爽などと言えば聞こえはいいが、付き合っている頃は、その颯爽さが嫌だった。
灰谷夢二は、前方から歩いてくる昔の女、園部奈々子を避けようと、道路横の電信柱の影に、なにげなく身を隠した。すれ違いざま、奈々子はちらと夢二を見たような気がしたが、そのまま何事もなかったように通り過ぎた。夢二は振り返って奈々子を見た。あまりにもあっけなく遠ざかっていく後姿が、今度は逆に恨めしくさえ思えてくる。
少しは気づけよ。三年も付き合っていた男だぞ。半年間は一緒に暮らしもしたじゃないか。確かに、こんな平日の昼下がり、下町のラブホテル街で十年ぶりに見かけるとは思わなかったが、その態度はちょっと淡白すぎないか?
自分勝手な言い分を胸に飲み込んで、夢二は踵を返し、奈々子の後を追った。
「すみません、もしかして園部さんですか?」
後方からわざとらしく声をかける。驚いた横顔が振り向く。「まあっ……」
奈々子はあんぐりと口を開け、素直にびっくりしている様子だった。
「何年ぶりかしらね」
ラブホテル街をぬけてずいぶん行った先にある小洒落たカフェの革製椅子に、奈々子はその幾分ぽっちゃりした体を落ち着かせた。
「十年……。そう、十年ぶりだよ」夢二は、いま計算したふうを装った。
「私が振られてから十年か……」奈々子は茶目っ気を出してほほ笑んだ。「十年前はスリムだったのに、ずいぶん太っちゃったでしょ? 私」
「……そうかなあ」夢二は、奈々子の横幅の変化に気づかないような口調で返した。「ところで園部さん、結婚は?」
「ええ……」奈々子は目の前のコーヒーカップに、ゆっくりと口をつけた。「五年前に。恥ずかしいんだけど、いわゆるできちゃった婚で」とまたお茶目に笑う。
「そう」夢二は、どう答えていいものかとあいまいにほほ笑んだ。
「……子供でもできていれば良かった」
十年前。ほかに好きな人ができたからと別れを切り出した夢二の前で、奈々子は淋しげな笑顔をつくると、消え入るような声で言ったものだった。
「子供なんてできてなくて良かったな」別れて一年ほど経った時、夢二は、なんとなく奈々子の声が聞きたくなって昔の電話番号にかけてみたことがあった。奈々子はまだその番号を使っていた。よそよそしげに接する彼女に、夢二は自分勝手な苛立ちを覚え、皮肉を込めてそう告げた。
「本当に、できてなくて良かった」その時奈々子は、つくづくそう思うと言いたげな口調でそんなふうに返してきたのだった。
「旦那さんは何してる人?」夢二はさりげなく聞いた。
「吹けば飛ぶよな小さな設計事務所をやっているわ」
「へえ、社長さんなんだ」
「名ばかりよ。収入は普通のサラリーマンより低いくらい。だから私も働いてるの。ラブホテルのベッドメイキング」奈々子は悪びれる様子もなく言う。
「灰谷君は?」一応聞かないことには失礼になるだろうかというように、無邪気な様子で聞いてくる。
「僕も、会社を経営している。コンサルタント会社をね。まあ、結構順調にいってるほうかな」
「あれからすぐ、あの彼女と結婚したんだったよね」
「うん……」
結婚していたのに何故あんな電話をしてきたのだと責められれば、夢二は立つ瀬がなかったが、奈々子は、そのことには触れなかった。
「子供さんは?」
「ああ、年子で男二人。小学二年生と一年生さ」
「そう。うちは娘が一人。今幼稚園の年中さんよ」
そう言ってほほ笑んだ奈々子の口元のえくぼが、夢二には懐かしく、そしていとおしく感じられた。あの時もし子供ができていれば、俺はこの女と結婚していたかもしれないのだなと、ふと思う。
一緒に暮らしていた時は、その堅実さが嫌だった。野心を持っていろいろなことに手を出そうとしていた夢二の、いつも出鼻をくじくような説教をたれていた。勢いで買ってしまったアンティーク(古美術品)を、あきれたような目で見つめるその表情さえ憎たらしかった。その時自己啓発セミナーで知り合った、花のように美しく若い女性にすぐさま心を奪われ、奈々子のことは切り捨てた。
しかし半年も同棲し、いつでも女体が手の届くところにあった夢二にとって、デートだなんだと手間をかける回りくどい付き合いは、もう考えられなかった。だから、その女とはすぐ結婚した。アンティークを買ったときと同じような、一種の高揚感があった。
「私、もう帰らなきゃ。娘を幼稚園に迎えにいくの」奈々子がそそくさと席を立つ。
「ああ」と夢二も何かを思い出したように顔を上げた。
あとくされのないように、勘定は割り勘にした。
二人はそのまま、カフェの前で別れた。
夢二はしばし、帰途を急ぐ奈々子の後姿を目で追った。旦那の稼ぎが悪くてパートをしている割には、質のいい服を着ていたような気がした。
まさか、主婦売春なんかしていないだろうな。夢二はうつむいたまま苦笑した。そしてまたふらふらと、ラブホテル街に戻っていった。スタッフ募集の張り紙を、夢二は目を皿のようにして探す。
コンサルタント会社を経営する社長で、仕事の合間に息抜きと称し、愛人と情事を重ねるためにラブホテル街に出没する。本当はそうならどんなにいいかと、夢二は深いため息をついた。
家に帰れば、妻の小言と、舅や姑からの説教電話が待っている。生意気盛りで、父親を馬鹿にしている子供たちの悪態に付き合うのもおっくうだ。だいたい、無職の父親にだって、子供たちをなんとか言いくるめて尊敬の念を持たせるのが、良い母親の務めだろう。実家に頼るのもほどほどにして、もっと賢く節約すれば、舅や姑からも、夢二がいまほど無能扱いされることもなかったはずだ。
会社の立ち上げに失敗し、ほとんど利益を上げぬままぽしゃったのは確かにまずかったが、だからといって、援助した出資金を返せ返せとせっつかれるのもいい気はしない。男にはロマンってものが必要なんだ。生活に疲れて大志も抱けなくなるようではお先真っ暗じゃないか。濁った目で回りに視線を走らせながら、夢二は頭のなかでそんなことを反復していた。
電車に乗り込んだ奈々子は、空いている座席にゆっくりと腰を降ろすと、安堵したように息を漏らした。
まさかあんなところで昔の男に出くわすとは思わなかった。まったくもってあせってしまった。
しかし今日、奈々子は昔の男に嘘をついた。
できちゃった婚は本当である。夫が設計事務所を経営しているのも本当だ。しかしラブホテルでベッドメイキングのパートは嘘である。あそこにいたのは、たまたま傾聴ボランティアをしている人の家が近くにあったからだ。
奈々子の夫は設計業で成功を収め、会社は小さいながら結構な利益を上げていた。といっても夫は仕事人間ではなく、家族を大切にする理想的な亭主であり父親であった。一人娘を、大学まで一貫した教育を誇る私立の名門幼稚園に入れ、奈々子は空いた時間を、自分の好きなように使ってよかった。エステティックサロン、ホテルでランチ、観劇やショッピング、スポーツジムを一通り堪能すると、奈々子は何故かボランティアがしたくなった。人は自分自身が充実すると、社会のために何か奉仕をしたくなるものなのかもしれない。
幸せすぎて恐いから。
そんな気持ちも少しあった。免罪符が欲しかった、とでも表現したらいいのだろうか。傲慢といえば傲慢かもしれない。奈々子はそんな自分のずるさも自覚していた。
だから今日、別れてからは一度も思い出すことのなかった昔の男にばったり会い、その男が精一杯見栄を張っているのが透けて見えたとき、奈々子は思わず嘘をついてしまったのだ。
夢二には、なんとなく優越感を与えておいたほうが、変な逆恨みをされないですみそうだ。奈々子はほとんど動物的な勘でそう判断して、少し不幸な女を演出してみせたのだった。奈々子はシャネルのバッグから、フェイラーのタオルハンカチを取り出すと、額の汗をそっと拭った。
夢二は、ラブホテル街をうろうろしながら、しびれたような脳みその奥で奈々子の後姿を思い出していた。それから口元を緩めてふとつぶやいた。
「あの女、実はまだ俺に気があるかもな」
「羨ましい」(冒頭)
その傷害事件の第一報がS区北署に入ったのは、青空が爽やかな春の日の午後だった。通報してきたのは、区立病院に向かう救急車両の隊員だ。
被害者は木村静子、三十四歳、主婦。
当人からであろう一一九番通報を受け、隊員たちが現場の高層マンションの一室に駆けつけると、わき腹から血を流して電話台の横に倒れている木村静子の傍らで、放心状態のまま立ち尽くしている女性がいた。その女性、篠崎麗華の手には果物ナイフがしっかりと握られていた。いや、握られていたというより、彼女にしてみれば、手が硬直して振りほどきたいのに振りほどけないまま、そこにぼう然と立ち尽くすしかなかった、という状態だったのかもしれない。
とにかく被害者の木村静子を担架で救急車に運び、加害者と予想される篠崎麗華の身柄を確保し、隊員の一人が一一〇通報した。
都心にありながら落ち着いた街並みが評判の、ここS区の高級住宅街で、静かな平日の昼下がりに起きた傷害事件は、付近の住人を震撼とさせた。しかも加害者の篠崎麗華は、現場となったスタイリッシュマンションの住人で、美しく華やか、かつ淑やかだと評判の女性だった。それに対し被害者の木村静子は、A区下町の都営住宅に住む地味で平凡な主婦で、付近の住人はこの二人が知り合いで交流があったことさえ知らなかったという状況だった。
病院で適切な処置を受けた木村静子は、すぐに意識が回復し、二週間の入院で済むということになり安堵したあとで、篠崎麗華が警察に連行されたと聞き、顔をゆがめた。
そう、彼女は自分を刺した犯人の身を案じて泣いたのである。
S区北署刑事・田山は、スチールの机を挟んで座っている目の前の容疑者、篠崎麗華の黙秘権の行使に手を焼いていた。というより彼女は、放心状態でなにも喋れない、と解釈したほうが事実に近いのかもしれない。
「工藤君、彼女に温かいお茶……いや、コーヒーを出してやってくれ」田山は部下にそう言いつけて一旦取調室を出た。出際に小声で「インスタントじゃなく、ちゃんとしたのをな」と付け加えて。
そのコーヒーで喉を潤し、ぽつぽつと喋り始めた篠崎麗華の口からは、意外な言葉が飛び出した。
「私……、羨ましかった……。もしかしたら、木村さんが羨ましかったのかもしれません……」
田山と工藤は顔を見合わせた。
羨ましかった。
その響きはあまりにも、篠崎麗華の口から出てくる言葉としては違和感があった。彼女の持っている雰囲気とは、かけ離れているように思えた。
「羨ましい」と言われるほうなら合点がいくが、他人を羨ましいと言って、嫉妬心……かどうかは分からないが、とにかく、その気持ちを抑制できず、相手を傷つけてしまうなど、このタイプの女性からすれば、一番あり得ない行動パターンに思われた。しかも、羨ましいと言われた女性、木村静子の境遇も、とてもその言葉が似合うようなものではなかったからだ。
木村静子と篠崎麗華は、中学のときの同級生だった。といっても、お互い学生の時はそんなに親しい間柄でもなかったようだ。前の年に開かれた同窓会で再会し、それ以来、時々会うようになったらしい。
前述したが木村静子の住居は、A区の古い町中にあった。篠崎麗華の住む近代的な洒落た雰囲気の街並みとは正反対の、まるで時代に取り残されたような旧い下町の一角にある築四十年の都営住宅である。そこに一歳年下のフリーターの夫と、小学三年生の息子に続く年子の娘二人という家族構成で暮らしていた。
早朝からコンビニのアルバイトをこなし、子供たちが起きてくる時間に帰宅して朝ごはんを食べさせ学校に送り出し、それから近所の肉屋でパート。子供たちが学校から帰ってくる時間には家に戻り、それからはDMの宛名書きの内職をしてなんとか暮らしを立てていた。夫は自宅から二駅離れたところにあるパチンコ屋で朝から夕方まで働き、深夜は建設現場に赴いていた。
「腑に落ちないですね」聞き込みを続ける工藤が田山に耳打ちした。
「木村静子の夫・孝也は、ちょっといい男じゃないですか。俳優のなんとかっていうのに似てる。長身だしスマートだ。そんな男がなんで静子みたいなブスと……、いや、その、あまり美人とはいえない……というか、ほとんど美人にはほど遠い女と、所帯を持ってるんでしょうね」
「そっちか」田山は苦笑した。「俺はまた、静子が『羨ましい』と言われるのが腑に落ちないのかと思ったよ。まあ、それは、最初から分かっていたことだけどな」
もうすぐ銀婚式を迎える田山には、自分の三分の二ほどの年月しか生きていない工藤よりも少しは結婚の機微も分かっているつもりだった。それにしても、工藤の疑問にも一理ある。麗華が言っていた「羨ましい」とは、配偶者のことだったのだろうか。
しかしその疑問は、麗華の夫・誠司を知ると、別の疑問に取って代わった。というより、ますます腑に落ちない結果になった。
Copyright Masako Sai
『想い出バイヤー』(東洋出版刊)に収録
「息子~リフレイン」(冒頭)
「息子~リフレイン」 短編小説集『天上の涙』収録
「続・蜜柑」
《芥川龍之介作・蜜柑の続編を書いてみよとの課題に応えて》
心細げな身震いをひとつすると、汽車はぎこちなく前へ進み出した。後ずさりする殺風景な景色を一瞥してから、私は夕刊に目を落とした。相変わらず、心躍るような記事にはお目にかかれずにいた。また物憂げな気分と倦怠とが、私の眉間のあたりを突いてくる。
二等客車には、私のほかに客はいなかった。軋む車体の音だけが、私の周りに響いていた。
ふと、がたぴしと戸をこじ開けて、ひとりの女が入ってきた。小奇麗な光沢のある着物を着て、髪をきれいにまとめあげた若い女である。しかし恐ろしく背が高い。そしてその背の高さと同じくらい、その態度は高慢さに満ちあふれていた。どしどしと草履の音も荒く車内を闊歩し、二等切符をまるで見せびらかすようにひらめかせ、女は私の近くの席にどしりと腰を降ろした。
顔立ちは美しいほうであった。しかしその冷たそうな横顔と同様、心持ちは冷たくて醜そうであった。女の周りに漂う「気」のようなものが、私にそう思わせたのかもしれなかった。外側だけ着飾った下等な生物を見るように、私は女を軽蔑しながら観察した。
すると女はおもむろに、萌黄(もえぎ)色(いろ)の風呂敷包みから、一冊の本を取り出した。読み込まれたあとがあり、紙の端はめくれていた。その本の表紙には見覚えがあった。私が五年前に上梓したものである。
私は驚いて女の顔を見た。そしてもう少しで、あっと声を上げそうになった。女の顔には見覚えがあった。いや、実は見覚えがあるということに、ついさっきまで気づかずにいた。それもそのはずだった。女は五年前とは随分様相を違(たが)えていた。
日の色に染まった蜜柑。見送りにきた幼い弟たちの上に乱落(らんらく)した鮮やかな贈りもの。あのときの記憶が蘇ってきた。
女は五年前、奉公先に向かう途中であろうその道のりで、ちょうど今日と同じ路線で私と乗り合わせたあの娘だった。あのときは今日とは逆の、上り列車であったが。
五年前に下品と思われた顔立ちは、こうして垢抜けてみると、実は整っているといってもいいほどのものであった。あのころの、まるであかぎれのように醜くささくれだっていた頬は、今はつややかな白さを湛えている。女は五年前に同じ車両に乗り合わせた中年男のことなど記憶にないようであったが、私はこの娘が投げたいくつかの蜜柑に、明るい爽やかさを感じたものだった。
ふと女が顔を上げ、私たちは目が合った。あのときの清清しい気持ちをなぞるように、私は幾分親しみをこめて女に軽く会釈した。
すると、女の顔がみるみる曇った。そして次に、信じられないような視線を投げてきた。冷たい、暗い、射るような視線であった。
それは、私を、いや私ばかりか、まるで世の男すべてを憎むような、身も凍るほどの代物だった。あまりの意外さに、私はついぞ思いもしたことのない事態を頭の中に描いてしまった。
奉公に出されるような娘に文字など読めるはずもない。私の本を読めるほどの学をつけたこの娘は、奉公先でどのような目に遭い、どのような境遇に処されたのか。さては奉公先の主人か誰かに手篭めにされ、それと引き換えにそれなりの処遇を与えられはしたが、あの頃の純朴な心はもう持ち合わせていないということであろうかと。いや、いささか下品な想像か。
ともかく私は、女のその整った顔立ちと美しい肌の白さとは裏腹な、心に憎しみを抱くような冷ややかでどす黒い視線との落差に、また新たな倦怠感を覚えた。
私は再び夕刊に目を移し、退屈極まりない記事の、上面(うわつら)だけを目でなぞっていった。
汽車が隧(トン)道(ネル)に差し掛かった。索漠とした記事に注いでいた外光が電燈の光と入れ替わった。その明かりがわずかに温かさを感じさせる分、記事のほうは余計に索漠さを増すように感じられた。
まさに、私の心持ちを象徴するような状況であった。私のなかでは相変わらず、不可解で下等な人生に対する空虚感が頭をもたげ、時々襲ってくる、言いようのない将来へのぼんやりとした不安を、上手く振り払えずにいた。
隧(トン)道(ネル)を不安げに走る汽車の車内で、面白くもない新聞記事にため息をつきながら、計り知れない行動をとるおかしな女と乗り合わせたこの混沌が、まさに私の心持ちそのものを象徴しているようであった。
私はなにげに再び女のほうを見やった。そして思わず息を呑んだ。女がさきほどの風呂敷包みをそっとほどいて、その中身に視線を注ぎながら、柔らかな笑みを浮かべている。萌黄(もえぎ)色(いろ)の風呂敷包みの端から、わずかにのぞいているあの色は、忘れもしない、あのときと同じ暖かな日の光の色を呈した、蜜柑であった。
私は一切を了解した。奉公先から休暇をもらい家に帰るこの娘は、あのときの純朴な気持ちそのままに、弟たちへの土産をそっと確認していたのであった。
私は窓の外に目を移した。汽車は、青とも緑とも区別のつかぬ山の色を映し出す景色のなかを走っていた。そしてその山と山との間に挟まれた、藁(わら)屋根、瓦屋根が点在する貧しい町はずれに差し掛かるところであった。町はずれの風景は山の色を反射して、女の抱える風呂敷包みと同じ、淡い萌黄(もえぎ)色(いろ)に染まっていた。
私はこのとき、自分の心のなかで行き場を失っていた得たいのしれない想いの正体を、つと垣間見たような気がした。この女を今日初めて見たときの、女の周りに感じた「気」のようなものの正体が、実は私の思い込みであったということは否めない。
だとすれば、私が整理できずにいるこの不可解な人生観、倦怠と物憂げな日常も、思い込みであると言えなくはないだろうか。そう思った刹那、息苦しさから僅かの間逃げおおせることができたような気がしたのである。
ともかく女は、五年前のあのときと同様、再び私に、爽やかな一陣の風のごとく、ひとときの安らぎをもたらしてくれた。
私は女の、さっきとは印象の異なった横顔をちらと見て、軽く眠りにつこうと目を閉じた。
「二元・列車」
「傲慢な目、その後」
「ロスト・ノスタルジア」(プロット)
☆プロットとは、小説の構想・骨組み・あらすじのことです。
此(この)宮(みや)豊久は高校二年生・十七歳。
「ロスト・ノスタルジア」(書きかけ)
1
そうだよ、そんなこと、俺だって分かっている。咲人(さくと)は思った。彩音は俺のことを思って、こうしてくれているということぐらい。
「咲人が落ち込んでると、わたしもなんだか元気が出ないの」
彩音はそう言って、咲人の部屋にすべり込んできた。制服のブレザーの襟元が、不自然なくらい下のほうにある。まるで、すぐにでも脱がせてくれと言わんばかりだ。咲人は軽く咳ばらいをして、彩音を学習机の椅子に座らせた。彩音は、柔らかい上目遣いで咲人を見る。
「もうすぐ親が飲み物を持ってくるよ」
そう言いながらも、咲人も下腹のあたりがむずむずする。口のなかにも、甘酸っぱい唾が溜まってくる。高校二年、十七歳の俺と彩音。いつそうなってもおかしくないが、俺は彩音との関係をもっとずっと大切にしていたい。咲人は思った。
咲人は、幼なじみのこの恋人を、間近からじっくり見た。透き通るような白い肌。大きな二重の眼もとに、整った鼻筋。ぷっくりとした唇。さらさらの栗毛。大きくなだらかな胸のカーブに、不釣り合いなほど小さなウエスト。思わず唾を飲んでしまって、彩音に聞こえなかったかとどきっとする。
彩音は、なおも潤んだ目で見つめてくる。
「咲人、何考えてるの? T大学模試A判定が出るまでは、変なこと考えちゃだめよ」
自分で挑発しておきながら、彩音は平気で咲人の気持ちに釘をさしてくる。いや、もしかしたら彩音は、挑発しているつもりなどなかったのかもしれない。
「なんだよ。何も考えてないよ」
咲人も照れかくしにひねくれてみる。
「でも、今日の咲人の案、すごく良かったと思ったのにな……。何で謙太のヤツ、いつも咲人の意見に反対するかな。あいつ、咲人のこと、ひがんでるみたい……」
学園祭の催し物で、教室内ミステリーツアーをやろうという咲人の意見に、クラスメイトの一人である等々力謙太が反対してきて反故になった。
「俺は反対してるんじゃないぜ。学園祭だ、ミステリーツアーだってそんな夢を見てるひまがあるなら、もっとほかに考えることがあるんじゃないかって、おまえにメッセージを伝えてるだけさ」
謙太の不敵な笑顔が思い出された。
「どうしちゃったんだよ、咲人。子どものころは、そんなじゃなかっただろ? 何がおまえをそんなふうに変えた? 分かってるよ、分かってるけど、あえて俺は聞き続けるぜ」
何をわけの分からないことを言ってるんだと思った。
「人生哲学がどうとか、なんたらかんたら、そんなものはどうだっていいんだよ。まず、おまえが、どう生きたいかだ。おまえ、本当にいいのか? この生き方で」
……謙太はウザイ。
咲人のファイルに、そうインプットされた。
咲人は、自分のいままでの人生に満足していた。小学校高学年のころから、中学受験を見据えて彩音と一緒に塾通いを始めた。塾の講師は、各々の生徒に対して真摯に向き合ってくれる理想的な先生ばかりだった。そして、この中高一貫校である私立F学院に籍を置くことができた。ところがそこに、小学校時代から咲人のことをやたらライバル視している謙太がいたのだ。
この生き方で本当にいいのか、だと? 唯一のブラックボックスはおまえだよ。謙太。
結局学園祭の出し物はその後、咲人の案に、謙太の便乗案を乗せた形で実現することになった。具体的には、いくつもの迷路を作るようにして教室を仕切り、世界各国の大型写真や世界遺産の写真の一部をそれぞれの参加者に表示し、それに関する問題をクイズ形式で出題し、参加者たちはそれらを手掛かりにしながら、問題がどこの国のどこの地域のことを問うているのかを考え、迷路を進んでいく。迷路の途中にも、答えに結びつくいくつものヒントを散りばめておく。正しく判断して迷路の出口まで到達できたグループは賞品をゲットできる。そうでなければ迷路のなかで迷い、文字通り迷宮で帰り道を失う……という具合だ。もちろん、ある一定時間内に攻略できなかったグループには、最終的にヘルプが入り、出口までの道案内も付く。
「人生哲学がどうたらとか、そんなことどうだっていいんだよ。要は、おまえがどう生き、どう死にたいかだよ」
謙太の言葉が咲人の胸のなかで蘇る。人生哲学がどうたらとか、どうでもいい? 哲学っぽいこと言ってきてるのはそっちのほうだろうが。俺は、いまの生活が快適だから、それでいいんだよ。おまえがじゃまさえしてこなければ、俺はずっと、この快適な生活を続けてられるんだ。まったく、おまえ、死んでほしいぞ、謙太。
「じゃあ、殺しちゃおうか……?」
彩音が大きな目で咲人を見つめながら言った。
「わ~! 彩音。おまえ、いつ戻ってきた!」
咲人は飛び上がるほどびっくりした。
「ついさっき。部屋に入ったら咲人、一人でぶつぶつ謙太に死んでほしいとかつぶやいてんだもん。びっくりしたのはこっちのほうよ」
「まったく、安心してトイレにも行けないね。その間に咲人の心に、悪魔が根付いてるんだもん」彩音は涼しい顔して咲人の隣にちょこんと座る。甘いシャンプーの香りが咲人の鼻をくすぐる。ふわふわの腰が、咲人の腰に当たる。咲人はこのまま、彩音を押し倒したい気持ちに駆られ、ぶんぶんと頭を振る。
「なにやってんの咲人、課題やっつけちゃおうよ」
1. 彩音が咲人を促す。市のイベントの一環で、高校生による福祉のアイデアを募っていた。彩音の発案で、それに応募しようということになったのだ。
テーマは「発達障害児童における教育の問題」
受験勉強ばかりじゃ、頭のなかが「役に立たない知識」ばかりで溢れてしまう、地球のためにも、自分たちの精神衛生のためにも、たまには受験に関係ないことで悩んでみたい、彩音がそう言い出したのだ。
「なんで発達障害なんだ?」咲人が聞いた。
「友だちの知り合いにいるのよ。そのせいでみんなに嫌われて、生きにくそうにしてるんだって」
「なんだ、直接の友だちでもないのか」
「その子は自分がどうして嫌われるのか分からない……」
「直接会ってみたのか? その子に」
「ううん。会ったことない」
「なんだよ(笑)」
「でもその友だちは、その子のこと怒ってるの。でも……自分が怒ってること、その子に言えない……」
~~~ ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ ~~~ ~~~
「なんだってあの子はああいうことを言うのだろう。人がこれから読もうとしてる本の、結末を喋るなんて。しかもにこにこしながら。それを全然悪いことだと思っていないんだから」
「それで、あなたはどうしたの?」
「え?」
「その結末を言われたとき、どうした?」
「……あまりのことに、何が起こったか分からなくて、『へ~、そうなんだ』とか、おマヌケなこと言っちゃった……」
「そうだよね、面食らうよね。でも、そこでひるんじゃ、その子のためにならない」
「え?」
「嫌われてもいいから、それが悪いことだと教えてあげたほうがいいと思う」
「……」
「友だちは大事だよ。もしその友だちが発達障害だったら、教えてあげなくちゃ」
「発達障害?」
「そう、空気の読めない、発達障害」
「そんな。私あの子のこと、障がい者なんて思わない」
「発達障害や人格障害は、実はけっこうな頻度で出現してるのよ。軽いものを含めると、十人に一人とも言われている。いろんな要因で発症するから、本人のせいじゃない。ていうか、発達障害は、生まれつきの脳の障害だと言われている。実は私は、別の見解も持ってるんだけどね。まあ、それはここではいいわ。とにかく、あなたは彼女に、それが悪いことだと教えてあげるべきだった。少なくとも、あなたはそのせいで気分を害したと」
「そんなの……難しいわ」
「なぜ?」
「だって、そしたら、その子が気分を害すかもしれないから」
「その子が気分を害して何が悪い?」
◇
「ねえ、何であんなに可哀そうな子がいるんだろう。ブスなのは可哀そうじゃない。勉強ができないのも可哀そうじゃない。方向音痴なのも、無知なのも可哀そうじゃない。可哀そうなのは、その自覚がないこと」
彩音は心の底から同情するように言葉を紡いだ゛。
「しかし、不登校って、どうにかならないのかな……」
咲人がそうつぶやくと、彩音は咲人の横顔を見つめながら、ため息を漏らす。
「また友だちの心配? 咲人は本当に優しいね。あの子は弱いのよ。咲人が心配してあげることじゃない」
彩音はわりと冷たい。
「あいつは淋しいんだよ。何の才能もないことが。それが分かりすぎているから、生きるのが辛いんだよ」
「じゃあ人は、何のために生きるの? 才能をひけらかすため? 才能のない人間は、生きていちゃいけないの? じゃあ、その才能って何なの? 才能があるって、どういうことなの?」
彩音は、小さな鼻袋を膨らませながら言う。
◇
「しかし、自分も不登校なのに、RPGゲームのなかで不登校の子を心配する気持ちになるものなのかね」
教育者は冷たく言い放った。
「ゲームはゲーム、現実世界は現実世界。ていうか、結局当事者は、現実世界でなにが起こっているのか把握できてない場合もあるんだ。ほら、前に韓国で、子育てゲームに夢中になるあまり、自分の子供をほったらかしにして死なせちゃった例があるだろう。あれだよ」
「ゲームの子育てに夢中になって、現実の子育てを忘れるなんて、そんなバカなことやる人間が本当にいるんだな」
「いや、人間っていうより、サルに近いのかも。ほら、サルにマスターベーション教えると死ぬまでやるっていうだろう」
「サルに近い脳か……。それって、脳の発達障害ってことなのか?」
「どうだろう……。理性のあるのが人間なら、その理性がないのは、動物に近いってことだろう」
「人間だって動物だよ」
「理性のある動物ってか」
「なんだかややこしいな」
二人は笑いだした。
◇
咲人は、馬園先輩の表情を探ったが、その眼の色は読み取れなかった。先輩は、ひょうひょうとして言葉を続けた。
「読者は結論なんて求めてないの。作品を読んでる自分が好きなだけだから。自分はこの作品の価値が分かる知的な存在なんだという自己満足で持ってるようなものだから。だから、結末はこれでいいの。謎がいっぱい取り残されてても大丈夫なの。読者が勝手に深読みして、いろいろ解釈してくれちゃうの」
咲人は口をあんぐり開けたまま、先輩の不敵な笑顔を眺めていた。そうか。そんな小説の読み方もあるのか。咲人は素直に驚き、やや素直じゃなく納得した。
こんな悪文を見たのは初めてだった。まるで国語の不得意な女子高生が、辞書を一生懸命繰りながら、知的に見えるであろうと予想される言葉を拾い出して羅列して、不器用に並べただけな感じがした。そうしてそんな文を披露しておきながら、「どうよ、私の文章、カッコイイでしょ、素敵でしょ」と一人で悦に入っているような。だから、明治の文豪の文章を真似した表現や、コロケーションのおかしな文章や、視点がこっちなのかあっちなのか分からない文章が、何の脈略もなく混在している。
「つづら折りの山道の中、私は考えた。こんな考えに至るとは、我ながら思わなかった。堕落。自堕落。精神の矛盾。あたまの抽斗の中は何でもござれ。自分が引き起こした事件の詳細を、私は『刹那』と自称した。そして彼女は私の言葉を、有難く拝聴している」
……字面を追っているだけで、意味が頭に入ってこない。こんな文章が延々と続いている。読んでいるだけで疲れる。読んでいるだけで頭が変になりそうだ。これは、日本語だろうか。ただ日本語に見える別の国の言葉なのだろうか。文語体から口語体に移ってきたように、なにを言っているのか分からないこのヘンテコな文章もいつか、日本語として成立する日がくるのだろうか。咲人には、この文章は、読者を馬鹿にしているようにしか思えなかった。この文体のヘンテコさに、読者は気付けないと思っている。「引き出し」という単語も、あえて「抽斗」という分かりにくい文字を使い、それにルビが振られていないのにも、何か「上から目線」を感じる。「我ながら思わなかった」などという表現は、慣用語句的にあり得ない。読み進むのに、いちいち疲れる。ハンバーグだと思って食べてみたら、イワシの小骨がいっぱい突き刺さる魚ダンゴだった……みたいな文だ。
昔の翻訳小説のなかには、相当な悪文もあったと聞く。しかしそれは、翻訳技術が未熟なための不可抗力にすぎなかった。こんな、傲慢さを持った自己陶酔的なドヤ顔文など、存在しなかった、と咲人は思う。
「猿渡先輩」
咲人は意を決して口を切った。
「やっぱりこれは、まずいんじゃないでしょうか」
猿渡は、意外そうな顔をした。
「なにが?」
「この文は……えっと……日本語的に、おかしいです」
「え~っ、なに言ってるの咲人くん。カッコイイ訳文だと思わない? いままでにない斬新な訳文だって、けっこう評判いいんだけど」
「えっ、みんな、そんなふうに言ってるんですか?」
「そう。レベルが違うって」
「……」
「みんな『名訳』だって言ってくれるよ」
「はあ、そうですか……」
咲人は驚いた。こんな悪文を「名訳」だなんて言う人間は、本当に日本語を分かっているのだろうか。本当に、日本人なのだろうか。そしてふと、ある作家が昔なにかの雑誌に書いていたエッセイを思い出す。その作家は、自分の父親を見送ってくれた病院のスタッフに、感謝の意を込めて、高級洋菓子店のマドレーヌセットを送ったそうだ。そのお礼状が来たのはいいけれど、宛名が、作家の本名の「雅子」という名前ではなく、「邪子」になっているのを見て、気分が悪くなったという。
「邪」。邪悪の邪。
「邪」。よこしまの邪。
どう変換したら、「雅子」が「邪子」になるのだろうか。普通に「マサコ」とワードに打ち込んで変換すれば、「雅子」か「昌子」か「正子」か「政子」か、その手の漢字になるんじゃないだろうか。「邪子」という漢字に変換するためには、やはり「ジャ」と打つしかない。自分の子どもに「邪」という文字を使う親など、この世に存在するのだろうか。そういうことを考えることもなく、ここの事務員は、宛名を「邪子様」で郵送した。きっと日本人ではないのだろう。漢字圏ではない外国人に違いない。作家はそう思うことにして、怒りを抑えたという。咲人はそんなことを思い出しながら、そういう自分の日本語のセンスにも、自信がなくなってきた。
~~~ ~~~ ~~~ ~~~
「彩音なんて、どこにもいない。いまその女の子は、この世に存在しないんだ」
勇気が静かな口調で続けた。
咲人は、息が苦しくなった。
小学校一年生のとき、初めてのプールの授業で、六年生の先輩に手を引かれてプールの端から端まで泳ぐ、という試みがあった。信頼して先輩に体を預けていた咲人は、その先輩がふいに手を離したことで、いきなり、プールのなかに沈みこんだ。鼻から思い切り水を吸った。鼻の奥がきーんと痛くなった。透き通る水の合間から、友だちのはしゃぐ姿やばたつく足が見えた。世界の音が、一瞬、止まった。それから、スローモーションで、息苦しさがきた。死ぬと思った。プールの底を思い切り蹴とばして、水面に顔を出した。笑いながら謝る先輩に肘鉄をくらわせながら、必死でプールの端まで歩いて横切ったのを覚えている。いま、あのときの息苦しさが蘇ってきた。いや、あのとき以上に息苦しい。
だれか、だれか、だれか俺を助けてくれ。
俺の体が、俺の心が、壊れていく!
咲人は、目の前の勇気の体を突き飛ばした。勇気はあっけなくその場にひっくり返った。咲人は唖然とした。大きな壁だと思っていたものが、目の前に非力にも横たわっている。
咲人は、勇気の上に馬乗りになった。無我夢中で勇気の口を押える。殺したいのかどうしたいのか、自分でも分からなかった。ビンタしようとして手が滑った。手は勇気の頬の上を横切って、胸の前に滑り出た。無意識に手のひらで何かを掴んだ。柔らかくて弾力のある、勇気の胸だ。
「えっ……???」
咲人は飛び上がるほど驚いた。勇気には、乳房がある。
「おまえ……女だったのか?」
咲人は勇気に馬乗りになったまま放心した。すかさず勇気が咲人の体を押しのけた。咲人は人形のようにごろんと地面に投げ出された。
「彩音は死んだ。小学校二年生のときだ」勇気はゆっくりと立ち上がり、服の泥をはたきながら、口を切った。「覚えているだろう。いや、忘れるはずがない」
勇気は悲しそうな目を咲人に向けた。その眼の奥には、同情と共感の光が灯っている。
咲人は勇気の整った顔を凝視した。まだ半分放心したような面持ちで。
咲人の脳裏に、ひとつの光景が浮かび上がった。疾走するトラックの大きな車体。不意に轟くブレーキ音。その音をかき消すほどの衝撃音。目の前がぐらぐらと揺れる。轢かれたのは自分ではなかったのか。いまここにいるのは、自分の魂だけではないのか。体はとうの昔に灰になり、いま魂だけが、この世を彷徨っているのではないのか。
咲人は泣いていた。涙が頬を伝わっている。涙は温い。俺は、生きているのか……。
彩音と中学校の入学式に行った。ちゃんと覚えている。ジャケットの襟元がチェック柄の、私立F学院の制服は、彩音の柔らかい顔立ちによく合っていた。
「彩音。おまえ、このままフィギュアになりそうなくらい、キレイだぜ」
冗談でそう言った。彩音はピンク色に頬を染めて、嬉しそうに微笑んでいた。その彩音の頬の色をもっと濃くしたような桜の花が、二人の回りで咲き乱れていた。
「おまえは、心のなかだけで彩音を成長させて、いつでも自分の味方でいてくれる隠れ蓑にしていた」勇気のハスキーボイスが無情に告げる。
「中学校の修学旅行は、グァムだった」咲人は、勇気の無情に対抗するように、言葉を繋げた。
空の青が、とても濃かった。海の透明度が半端じゃなかった。沖から海岸にかけての、海の色のグラデーションが芸術的だった。どんな高級な絵の具を使っても、この海の色は再現できないだろうと、本気で思った。自由時間は、彩音と一緒に行動した。ショッピング・モールで、土産品を買った。金色の砂や虹色の貝殻を形のいい小瓶に詰めたものだ。彩音がパステルカラーのパレオを腰に巻いてふざけた。覚えている。覚えている。覚えているはずなのに……。彩音の輝くような笑顔がゆがんでいく。ぐにゃぐにゃと異常に、ゆがんでいく。涙か。涙で彩音との思い出がゆがめられていくのか。なぜ、なぜ、なぜ俺は泣いているのだ……。
勇気のくぐもった低い声が再び聞こえた。
「……みんな、インターネットで得た知識だ。おまえは、その海水の温度を覚えているか? 風の暖かさを覚えているか? 空気のにおいを覚えているか? その空気が含む、その土地の湿度を覚えているか? 人々の声は? 砂の手触りは? 食べ物の弾力は? 覚えているか。覚えているか。その土地の人々の息づかいは、自然の気配は、機械を通した情報だけでは伝わってこない。本物の、本当の世界に飛び込まなければ、本物の人生は生きれないのだ」
やはり、自分は魂だけか。じゃあ、この涙の温さは何なんだ。ここにある、この俺の手足は何なんだ。この手に触れる、この暖かさは何なんだ。咲人は、呆然と自分の体を見下ろした。
「おまえの体は本物だ。しかしお前の生きている世界は本物じゃない」
勇気はなぞかけのようなことを言う。
「ノスタルジック・アルカディアRPG」
「?」
「ノスタルジック・アルカディアRPGという」
「何のことだ?」咲人は鼻から荒い息を吐いた。
勇気は静かな眼差しで咲人を包み込み、大きく深呼吸をした。そして、ゆっくりと口を開いた。
「おまえがいままで生きてきた世界だ。ノスタルジック・アルカディアRPG。ロール・プレイ・ゲーム。SSRI社の新製品だ。いや、あの当時の新製品だった」
「彩音と高校の受験勉強をした。中高一貫校だったから、持ち上がりだったんだけど、俺たちの目標は、もっと高いところにあった。哲学部のないうちの大学に行かずにT大学を受験するために、高校のときから一番レベルの高いクラスに入っていようと、彩音と約束したんだ」
「おまえがひたっていたのは、そのRPGのなかのスピン・オフ空間。非日常性の高いRPG世界においても、比較的日常に近い世界観でエピソードを重ねられるパートだった」
「二人で毎日、図書館に通って勉強した。勉強なんか役に立たないなんていう大人もいるけれど、俺はそうは思わない。学校で得る知識は、基本的に役に立つ。科学は生活全般の役に立つし、数学で得る応用力は、仕事で企画を説明するときなどに役に立つ。歴史を知っていればこそ感動できる映画や音楽もある」
「そうさ。おまえは本当は勉強したかった。本当は勉強して社会に出て行きたかった。しかしお前の親の思惑が、おまえのそんな志を阻んだ。つまり、ゼロか一〇〇かだ。落ちこぼれのはんぱな人生を送るくらいなら、このまま引きこもっていてくれてたほうがいいという、親の無意識のプレッシャーに、おまえは抵抗できなかった」
勇気は、目を伏せたまま、言葉を続けた。声は、憂いに満ちていた。
「厳しい神がいる。その厳しい神を信じている宗教がある。その宗教は、その神は、神の意志に従った少数の者だけが楽園に行けると説く。神はこれでもかというほど、信者の暮らしを制限する。あれもやるな、これも駄目だ、それでも私をあがめ、私に従うのだ。そうできた者だけが、楽園に行けるのだから。信者はその教えに従う。ある種盲目的ともいえる恍惚感にさえさいなまれながらも、その教えに従うのだ。教えは親から子に、子から孫にと受け継がれる。しかし子のなかには、孫のなかには、その教えに従うことが生きる喜びに繋がらない者が出てくる。親と決別してでも自分の生を生きようとする者は、ちゃんと自分の人生を生きていける。しかしそうでないデリケートな魂は、狂うか、自らを殺めるか、自分がこの教えを裏切る前に世界の破滅を願うかしかできなくなる。世界の破滅を望む宗教とは、どんな宗教だという話になるだろう。素直で純粋な子ほど、苦しむのだ。おまえはその純粋で素直な子だ、咲人。だから迷ってきた。だから苦しんできた。おまえの両親はその宗教の信者ではないが、親の理想を子供に押し付けようとする行為はその宗教の者等とかわらない」
「……」
「また別の宗教で、こんな話がある。実家が○○教の末端の教会だという、ある女の子がいた。そうだな、その女の子の名は、とりあえず、A子としておこうか。A子は美人で、学校の成績も良かった。しかし実家は○○教の月々のノルマの御供さえ払えないほどの貧乏だった。だからA子は、小学校五年生のときにもう「私は上の学校には行けない」と悟ったそうだ。上の学校とは、大学のことだ。A子は三人姉妹の長女だった。だからゆくゆくは、養子を取ってこの教会を継いでくれと、無言のプレッシャーをかけられて育った。しかし彼女は、信者もほとんどいないその教会を存続させることに疑問を抱いていた。父も母も、怠惰のくせに名誉欲だけは旺盛な俗物で、反面教師の典型だった。○○教の幹部もほとんどが、貧乏な信者からむしり取った御供で贅沢三昧をしていた。信者は、不服を言わないことや、より多くの金銭をお供えすることが美徳と教えられていた。A子は○○教が大嫌いだった。あとを継ぐなんて考えられなかった。だから、普通に恋愛をして、普通に結婚し、子宝にも恵まれた。結婚相手は、たまたまエリートサラリーマンだった。郊外の高級マンションに住み、年に何度も家族で海外旅行をするような生活だった。もちろん実家に御供もした。総額は、田舎の一戸建てなら買えるくらいの金額だった。それでも親はA子を認めず、金の無心だけは果てしなく続いた。
彼女には、自分が幸せすぎることへの罪悪感があった。だから彼女は病気になった。母親が彼女に呪いをかけたのだ。もちろん母親は、それが呪いなどとは思っていない。しかし母親は娘への、無意識の嫉妬心があった。だから、彼女が「自分はこんなに幸せだ」と母親にいうたびに、「そんな余裕があるならもっとお供えしなさい」だの「どうせあんたは高卒じゃない。○○高校しか出てない」などと言って、彼女の気持ちを傷つけてきた。
だから彼女は、病気になった。幸せすぎることに罪悪感を持っていたことが、病気の引き金になった。その罪悪感を捨てない限り、彼女は何度も病気になるのだ。
咲人、親の呪縛を解け。毒親の毒を抜いてしまえ
「俺は……彩音と受験勉強をした。勉強して、知識を得るのが楽しかった。何のために勉強するかなんて、大人は本当の意味なんて教えてくれない。せいぜい、みんなに羨ましいと言われる学校を出ていると鼻が高いわよとか、人よりワンランク上の生活をするためよとか、そんな、低俗で下品な理由を上げるのか落ちだ」
「そのとおりだ。まったくこの国の大人なんで、全然たいしたものじゃない。そんな大人の思惑に乗るな。もっと高尚な理由のために勉強しろ。もっと学ぶことを楽しめ。子供は本来、勉強するのが好きなんだ。子供を勉強嫌いにさせているのは、勉強するのに下品で低俗な理由しか挙げられないアホで頭の悪い大人どもなんだ」
「俺は……勉強したかった? いや、俺は実際勉強してきたんじゃないのか?」
「おまえは勉強していない。勉強したいと思う意志があっただけだ。しかしな、咲人。意志だけではだめなのだ。意志なんてものはもちろん、ないよりはあったほうがずっといいが、それでもやはり……意志だけでは、駄目なのだよ、咲人」
「……」
「……」
「意志が……あっただけ?」
「そうだ。意志が、あっただけだ」
「……」
「しかし……これから、その意思を具現化すればいい」
「意志を……具現化」
「そうだ、意志を具現化、するのだ」
「……」
「まずは……。部屋を飛び出すのだ。咲人」
「部屋……?」
「そうだ。部屋だ。おまえのこの狭い部屋だ」
咲人は回りを見回した。ここは港ではなかったか。勇気が俺を呼び出して、決闘を挑んできた地元の湾ではなかったか。
「バーチャルメガネを外せ。咲人」
勇気が畳み込むように言葉を添えた。
「……」
咲人は、しばらく身じろぎもできなかった。いったい自分に何が起こっているのか、想像もつかなかった。咲人は何故かその場に正座していた。港のごつごつした固いコンクリートの上に、行儀よくちょこんと座っていた。その手で地面を触ってみた。たしかにごつごつとした地表が手に触れる。泥と砂の入り交じった粒がその地面を覆っている。咲人は砂を一粒拾ってみた。小さすぎて指で摘まむのも一苦労だが、咲人は器用に摘まんでみせた。その砂の一粒を、目の前に持ってきた。砂はその小さな体に夕日を受けて、黄金色に光って見えた。やがて咲人は、その手のなかに、奇妙な感覚を覚えた。砂が、ふわふわと、柔らかく変化していく。座っている地面も、なんだか感触が変わっていく。
「バーチャルメガネを外せ、咲人」
勇気がもう一度、さっきと同じ科白を言った。
咲人は、恐る恐る、自分の鼻のあたりに手を伸ばした。鼻に何かが乗っかっている。水中眼鏡のフレームのような、ゴム状の物体だ。その上部を覆う冷たいガラス状のものにも触れた。
「なんだ、これは」咲人は弾力のあるその物体を、ヒンヤリとしたそのガラスを、指の腹でなでた。跳ね返すゴムと、すべらかな別のものとの感触が、手から伝わり、咲人の脳は、ざわざわとした不安感を覚える。不安は足元を揺るがし、咲人が存在しているこの空間さえも、まるで咲人を責めるように、咲人の魂に迫ってくる。
「轟謙太は実在する。おまえの本当の友だちだ」勇気の声が柔らかくなった。
「あいつが? 俺の本当の友だち?」咲人は、目の前がぐらぐら揺れてきた。「嘘だ。あいつは、いつも俺のことを邪魔してきた。いやなことばかり言ってきた。誰が、友だちなもんか!」
「あいつは、友だちだ」
「違う!」
「本当の友だちだ」
「違う!」
「ただなれ合いでべたべたつるむ友だちじゃない。自分は憎まれても、おまえのことを本当に思ってくれる、本当の友だちだ」
天使の誘惑・プロット
実体を持たない想念としての姿のときと、人間のふりをして実体を持つときと、自在に自分を使い分けている。
彼の仕事は、多岐にわたる。
死んだ人間の魂を天界に運ぶことや、ときとして、自殺しようとする人間の思考に働きかけて自殺を思いとどまらせたり、結びつきそうにないカップル、しかし結びつくのが人の世のためにいい影響を及ぼすと思われるカップルを、思念的に結びつけて結婚させたり、いろいろだ。
しかし由宇人は、神の代行人である全人(ぜんと)の言うことを聞かず、ある男と結びつく運命の女性を誘惑して自分が寝取ってしまったり、電車のなかで地位のある中年女性を誘惑して自分に痴漢するよう仕向け、告発してその女性の家庭を奪い世間体を台無しにしたりと、とんでもないことばかりをしでかして、いつも全人を悩ませていた。
ある日由宇人は、坂上香織という女性と出会う。三十二歳、独身、派遣社員、中古アパートで淋しく一人暮らし。顔立ちは悪くないが、地味で、男心をそそる雰囲気は微塵もない。給料の大半を寄付し、休みの日もホスピスでボランティア。味気なさを絵に描いたような生活なのに、彼女は心から満足している様子で、穏やかな柔らかい笑顔を持っている。何故か由宇人は彼女のことが気になり、想念として彼女に付きまとう。
いつもの悪戯心で、超イケメンの男になりすまし、彼女にモーションをかけ、誘惑しようとするが、彼女は全然なびかない。
由宇人は、こんな仙人のような生活に満足している独身女性の心が分からない。何度もモーションをかけ、彼女のアパートに半ば強引に上がりこみ、「抱いてくれ」と色仕掛けで迫る。彼女は抱いてくれるが、それは体の関係ではなく、文字通り由宇人を幼児のように抱っこして、優しく頭をなでてくれただけだった。しかし由宇人はその抱擁に、自分でも意外なほど癒され、この上ない幸福感に包まれる。
善人面をしている大人が、実は煩悩を抱えていて、それを暴露するのを楽しんでいた由宇人だったが、自分のポリシーがぐらぐら揺れだすのを感じる。
様子を見ていた全人は、由宇人に驚愕の事実を伝える。
香織は、由宇人の前世の母だった。
五年前、二十七歳だった香織は、結婚を約束した恋人・池上康人の子供を身ごもっていた。それが由宇人だった。幸せの絶頂にいた香織だったが、康人の事故死で、奈落の底に突き落とされる。
親も友人も中絶をすすめるが、香織は、康人の忘れ形見として由宇人を産むことを決意する。
ところが、仕事で無理をしてしまい、妊娠五ヶ月のときに流産する。彼女はそれがもとで、二度と子供の産めない体になった。
彼女は、自分の不注意からお腹の子供を死なせてしまったことを嘆き、それからは、今のように贖罪の日々を送るようになったのだ。
五年前、水子になってしまった由宇人の魂は時空を越え、現在の世に天使として蘇った。
人間界の時間軸と天界の時間軸が違うため、天使としての由宇人の精神年齢は五歳ではないのである。
由宇人は以前同僚の天使から、自分は水子の生れ変わりだと聞かされていた。愛されずに終わったと思っていた前世の復讐心から、無意識に、人の心をもてあそぶようなことをしていたのかもしれない。
「由宇人、おまえは愛されていたのだ」
全人がおごそかに告げる。
由宇人は初めて、温かい涙を流す。
その後、彼は想念のまま町を彷徨う。
そして、長年のニート生活の末に集団練炭自殺した男を見つけ、その男性の死後の体に入り込む。集団自殺の生き残りとして、波乱の将来を背負うことになるその男性の運命ごと、由宇人は受け入れ、再び香織と出会うために生きようとする。 了
「ずっとあなたを見つめていた」(プロット)
豊島章介(三十四歳)は、東京都練馬区の下町に一人暮らし。手首に軽い障害を持ちながらも、木工職人(家具ではなく、木の食器、小物、置物等)としての修業を続け、フリーター(ビルの清掃業)としても働いていた。ボロアパートに住み、ずんぐりむっくりのさえないルックス。顔も、おせじにもハンサムとはいえない。当然女性にもてるはずもない。しかしその優しさから、近所のお年寄りや子供達には好かれていた。
ある日彼は、道端でうずくまる美女(佐伯マリア・二十八歳)を助ける。彼女の奇異な言動から、最初は知的障害者だと思うが、実は記憶喪失だと判る。警察に捜索願が出ていないか確かめようとする章介だが、マリアはそれを拒み、章介のアパートにおいてくれと頼む。実はマリアは、何かを思い出すのが恐いのだという。
章介は放っておけなくなり、マリアをしばらくアパートにおくことにする。
二人の奇妙な同棲生活が始まった。マリアは不器用な手つきながらも、一生懸命家事をこなそうとする。その一途な姿に、章介は心を奪われる。しかし、彼女への思いが大きくなればなるほど、いつか来る別れが辛くなると思い、必死で自分の気持ちを抑えようとする。
一方マリアも、障害を持ちながらも職人の仕事と修業を続ける章介の粘り強さやその包容力に、だんだん魅かれていく様子だ。章介は料理も得意。安い材料で愛のある美味しい手料理を作る。マリアは、章介の職人としての腕も買っているように見える。確かに章介は、いい腕を持ちながらも、人が良すぎることなどが災いして、チャンスをずるい人間に横取りされたりしていた。
そんな中、二人はやがてお互いの気持ちを確かめあい、結ばれる。三十四歳の章介は実は童貞だった。年下のマリアが、章介を優しく導く。
章介は二人の将来のため、自分の夢はあきらめて普通の会社員になるとマリアに告げ、就職活動をするようになる。マリアはそんな章介を少し寂しそうに見つめるのだった。
ところがそれからしばらくして、マリアの記憶がいきなり戻る。ある日章介が仕事から帰ってくると、アパートに知らない男がいた。それはマリアの実家の執事だった。アパートの部屋に一人でいるときにいきなり記憶が戻ったマリアは、びっくりして実家に電話し、執事を迎えに来させたという。彼女は良家の令嬢で、大企業の次期社長という婚約者もいた。以前の記憶を取り戻したマリアは、章介との暖かい愛の日々をすっかり忘れてしまっていた。章介は二人のことを説明するが、マリアは、「私がこんなさえない男と契りを結ぶわけがない」と言い放つ。ぼう然とする章介を置き去りにして、マリアはアパートを出て行く。
章介は失意の日々の中で、再び木工職人としての夢を追おうと決意する。その原動力となったものは、マリアへの憎しみなのか、忘れられない愛に対する悲しみなのか、自分でも分からなかった。とにかく彼は、憑かれたように作品を産みだしていく。
章介はときどき、自分のことを応援してくれる見知らぬ人(道で優しい声をかけてくれた老婆、章介の作品を褒めてくれた年配の女性など)に、マリアと同じオーラのようなものを感じる。ふっきれない奴だと自分を笑う章介。憎いと思いながらも、マリアのことを思い出すとき、将来や自分の才能に対する不安などを忘れ、章介の心は癒されるのだった。
やがて章介にスポンサーがついた。相手は顔も知らない篤志家・武藤民子。民子は、章介の個展をサポートする。さらに章介ブランドの工芸品を全国展開で宣伝し、章介の成功を後押ししてくれる。しかし、章介の前には一度も顔を出さない。
作品は徐々に売れるようになり、やがて章介は、練馬区内に、アトリエ兼住宅を構えるようになる。
そんなある日、マリアが落ちぶれた様子で章介を訪ねてくる。大企業の御曹司だった男と結婚したが、その男が社長に就任したとたん、経営手腕の無さから会社は営業不振に陥り、あえなく倒産したという。豪邸も家具調度品も全て差し押さえになり、マリアは泣く泣く離婚して、いまは行く当てもなく路頭に迷っているらしい。実家も実は、家名ばかりで財産はなかったというのだ。しかし彼女に、章介と過ごした日々の記憶は無いままだ。勝手とは知っているが少しここに置いてくれと、マリアは懇願する。
章介は、やはりマリアを放っておけず、家に置くことにする。スポンサー・武藤民子はそんな章介にあきれた様子で、そんな女は追い出せと、メールで何度も忠告する(相変わらず章介の前には一度も顔を出さない)。
しかし章介には、マリアを追い出すことなどできなかった。憎い憎いと思いながらも、やはり自分は、マリアへの恋心は捨てきれていなかったのだと自覚する。章介は、マリアの記憶を取り戻そうと、二人の愛の日々のことを彼女に何度も話して聞かせるのだが、効果はないように見える。
しかし真夜中。熟睡している章介の顔を、愛しそうに見つめるマリアの姿があった。章介はそれに気付かない。
ある日章介は、見覚えのある男とこっそり会っているマリアを見かける。その男は、章介のスポンサー・武藤民子の会社のスタッフの一人だった。混乱する章介。腑に落ちない章介は、後日その男を呼び出し、真実を打ち明けてくれと懇願する。章介の熱意に負け、男は真実を打ち明けるが……。
実は、マリアと武藤民子は同一人物だった。マリアの実家はもともと財産家。二十歳の時に両親を亡くした彼女は、その頃よりずっと一人で遺産管理をしていた。マリアが章介と暮らした日々の記憶を失くしたというのは嘘で、彼女は章介のアパートを出てからもずっと、彼を想っていた。そして、武藤民子という篤志家になりすまし、彼を影でずっとサポートしてきたのだ。マリアを追い出せとメールで何度も進言したのも、章介の気持ちを確かめようとしたからだ。
章介は、あることを思い出す。マリアがアパートを出てしばらく経った頃、失意の中で木工職人としての修業を再開しようと誓ったとき、たまたま道で重そうな荷物を持った老婆とすれ違い、少し持ってあげたことがあった。老婆は章介を暖かい目で見ると、「ありがとう。あなたにはこれから、いい星の巡り合わせがきっとある。自分の夢を信じて頑張りなさい」と、意味深なことを言ったのだ。章介はそのとき何故か、その老婆にマリアと同じオーラのようなものを感じた。それからしばらくして、練馬区内の小さな雑貨屋に置いてあった自分の作品を見つけて眺めていた時、恰幅のいい年配の女性が「この作品には、人を癒す力が宿っている」と、褒めてくれたことがあった。章介はそのときも、その女性にマリアと同じオーラを感じたのだ。
「わたしね、実は女優になりたかったの。才能ないのが分かってすぐにあきらめたけどね」初めて結ばれた夜、マリアがはにかみながら告白してくれたことを思い出す。
「あれはやっぱり、マリアだったんだ。完ぺきに変装して、見事な演技力で、僕を騙してくれたんだ……」
ある日章介は、マリアを映画に誘う。映画は、記憶を失くした男の元婚約者が、その男の記憶が戻るのを辛抱強く待ち、優しく見守る、という内容だった。
マリアは、章介の思惑を感じ取る。映画が終わり、観客が引き、二人きりになった客席で、二人はしばらく無言で座り続けた。
「君だったんだ」章介は言う。「あのとき、僕に勇気をくれたお婆さんは……あのとき、僕を励ましてくれたあのふくよかな女性は……」
「気づいてたのね……」マリアは幸せの涙を流す。
映画館を出、家に戻った二人。
マリアは、自分の荷物の中から、古びた小さな木彫りのコーヒーカップとソーサー、スプーンのセットを出し、章介の前に置く。
章介は息を呑んだ。それは、章介の第一作だった。稚拙な線は、今から見ると恥ずかしいほどだ。
「父と母が相次いで亡くなり、一人になった私に、親戚やほかの大人や、恋人や友人たちまでも、私に入った遺産を取り上げようといろいろ仕掛けてきた。私は人間不信に陥り、孤独だった。そんなとき、小さな雑貨屋でこれを見つけたの。不思議な力で私を惹きつけた。見ているだけで癒された。これでお茶やコーヒーを飲むと、それだけで一瞬、幸せな気持ちになれた。そのときから、作者の名前が私のお守りになった。あなたが私を知るずっと前から、私はあなたを見つめていた……」
初めての出会いも、偶然ではなかった。マリアは最初から、記憶喪失などではなかった。婚約者の話も嘘だった。章介に夢を捨てて欲しくなくて、一芝居うったのだ。
「もしあなたが気づかなければ、私は一生、あなたを騙し続けていたかもしれない。こんな嘘つきな女、恐い? もう、一緒に暮らしていけない?」マリアは震えながら章介に問う。
「こんなに一人の女性に何度も騙された男もそういないだろうな」章介は照れたようにつぶやく。「でも、一生騙されてもいいと思った。男と女はそうやって、生涯騙し騙され続けていくものなのかもしれない」
章介は、二度とマリアを離さないと誓った。
了
「シリコン・ボディ」(プロット)
金城エリカ(三十一歳)は、専業主婦。子供はいない。美人でスタイルも良く、夫は輸入家具の店を経営していて裕福だ。エリカは、ボランティア活動もしているし寄付もしているが、純粋な貢献心からではなく、ただ単に優越感に浸りたいためと、自己顕示欲の象徴としての活動だった。だから、生活に余裕がなくてボランティア活動や寄付を行なえない知り合いらを、影でさげすむような言動をしていた。
ある日、エリカのマンションの隣に建っている老朽化した古いアパートに、美しくもなく、地味で性格も暗そうな越谷早苗が引っ越してくる。生活も困窮している様子だ。エリカは早苗に同情したふりをして、いろいろ世話を焼く。 しかしエリカは、早苗の欲のなさや、真摯な態度が気に入らない。ちょっとしたことで幸せそうに笑う早苗が、だんだん疎ましくなってくる。エリカは、自分より下だと思われる女性には、人生の不幸を感じながら卑屈に生きていてほしいのだった。
そうこうしているうちにエリカは、どうも早苗が自分の夫と怪しいような気がしてくる。 自治会の行事の時や、道で偶然会ったときなど、なんとなくいわくありげだ。夫に問い詰めても、気のせいだと言われるばかり。
しかしある日エリカは、夫が早苗とホテルに入るのを偶然目撃してしまう。 怒り心頭のエリカは、日を改めて早苗の家に乗り込み、早苗に怒りをぶつける。「自分を何様だと思ってんの? あんたみたいな醜い女、誰も本気で相手にしないわよ。私の夫をどうやってたぶらかしたか知らないけど、よくも恩をあだで返すような真似してくれたわね。私が今まで、どれだけあなたに親切にしてあげたと思ってんの!」
「そう、それがあなたの本心ね」早苗は悲しみと冷たさの入りまじったような目をしてエリカを見る。「あなたが私に親切なふりをしていたのは、自分のためね。あなたは、親切で慈悲深い人間だという偽りのヨロイを着て、日々を過ごしている。優越感というチンケなエサを食らいながらじゃないと幸せを感じられない、実は誰よりも不幸な女」
自分でも気が付かなかった心の闇を目の前に提示されて、エリカは二の句が継げない。 そこに早苗がさらに追い討ちをかける。 「実は私もヨロイを着ているの」そう言って早苗は、シリコンでできたマスクと、シリコンでできたボディウェアを脱ぎ始めた。中から出てきたのは、絶世の美女。スタイルもきらめくような黄金率の女性だった。
早苗は言う。自分が本当の姿をさらけだしていたころは、他人の本心は見えてこなかった。だから手段として、わざと醜いヨロイを着ているのだと。
「人は皆誰でも、シリコンのボディをまとっているのかもしれないわね。時にそれは『偽善』だったり『粉飾』だったりするんでしょうけど……」 さらに彼女は、エリカの夫の会社の影のオーナーだということが分かる。エリカは知らなかったのだが、夫は雇われ社長でしかなかったのだ。早苗は、エリカの夫の不正を見つけ、クビにするかどうか迷っているところで、夫との密会も、その話し合いのためだった。しかし早苗は、今回だけは夫の不正に目をつぶるという。その条件は、早苗の正体を黙っていることだった。エリカは、口惜しさにさいなまれながらも頷くしかなかった。
エリカの優雅な日常が戻ってきたように見えた。しかしエリカは知っていた。このセレブ生活は、早苗の気持ち次第でいつ崩れ落ちるとも分からない砂上の楼閣だということを。
そんなとき、また新参者が引っ越してくる。 藤堂亜由美、三十一歳。どこから見ても、セレブな美人奥様だ。 彼女もまた、エリカと同じように、ゆがんだ優越感を糧にして、他人の不幸をむさぼることで幸せを感じる偽善者だった。 エリカと親しくなった亜由美が、早苗を見ながらエリカにささやく。 「可哀相ね、あの人。あんなに醜くて、しかも貧乏。可哀相だからいたわってあげましょう。それが、私たち恵まれた者の使命よ」
自分の言葉に酔いしれる亜由美を、エリカは黙って横目で見ていた。 かつての自分の姿を思い出しながら。