作・Susan Moody 翻訳・崔 雅子
(原題)POISONED TONGUES 《直訳・毒に汚れた(複数の)舌》
1
マーチン・フェンサムが、隣のコテージを買った時、すでにその名は売れていた。デビュー以来、出した二冊の本は好評で、三冊目も、その年の年間ベスト図書の一つとして注目され、三十二歳のこの新進ミステリー作家は、私にはとうてい望むべくもない地位を確立しつつあった。彼より十も年上でありながら、たった二冊を出しただけで、この先見通しもない私には。
とはいえ、彼を羨む気持ちは特になかった。名声とは、同情心と引き換えに得られるものだという思いが、私にはあったからだ。とりわけマーチンは、他人の欠点には寛容でないように見受けられた。
にもかかわらず小説のなかでは、登場人物の弱さを同情的に描いたりしている。しかしそれも実は、「目には目を」という彼の小説の普遍テーマをより明確に表現するための演出にすぎないのかもしれないと思う。
彼はまた、自分が選んだこの分野――ミステリーの世界――で成功するという、鋼のように固い意志を隠そうとはせず、そのためにはどんな手段も使った。それは多くの作家に欠けているところだ。作家は普通、仲間内の冷笑と反感の的になることを恐れて、持てる思いを押し隠すものだからだ。
「どうしてミステリーなの?」そう聞いてみたことがある。
「ミステリーじゃ駄目ですか?」マーチンは、自分のチャームポイントを十分意識した笑顔をつくった。彼の本の裏表紙に載っている写真とそっくり同じ笑顔だ。
私は肩をすくめた。「ミステリー作家が文学界で名を成すのは難しいわ。レンデルやル・カレだって、犯罪小説作家という枠を越えて、文壇で優れた作家として認められるまでにはずいぶんかかった」
「なるほど」彼は考え込むように顔をなでた。「……思うんだけどね、罪を犯すとはどういうことか、経験として知っていたほうが、面白いものが書けるかな」
「まあそうね。もし才能があれば。それをもとによりリアルな知識と感性で作品に向き合える」
「才能は関係ないさ。たとえばあなただ。あなたの作品は、僕なんかのよりずっと出来がいい。ストーリーも練り上げられているし文章も巧みだ。なのにあなたは……」
「売れてないって言いたいわけね?」
「まあ……そういうことです」暖炉の脇に座ったマーチンは、冷ややかな表情をちらつかせる。「あなただって、才能だけで作家がその地位を築けるなんて思ってないはずだ」
「ところが、そう思っているの」
マーチンは、声を上げて笑った。「もっと自分を売り込まなきゃ。編集者や読者と接する機会をつくるんです。自分が話題に上るように仕向ける。そして、もっと自分をアピールする」
「そんなこと……。自分でも、自分のこと掴み切れていないのに……」
2
マーチンのことも、掴み切れていなかった。
個性の異なる私たちだったが、どこか通じるものはあったし、マーチンの人間性も、一度は把握したと思っていた。彼のキャラクターの一部でも、いつか小説の登場人物として使わせてもらおうと、分析、査定して、ファイルに収めたつもりだった――実在する人物の一部を借りるのは、小説にリアリティーを与える。
ところが、ナタリー・ベンソンの登場によって、私がマーチンに下していた評価は、間違っていたかもしれないと感じるようになった。
ナタリーは、村はずれのランタンハウスにすむ夫婦の娘だった。父親は銀行業界の大物で、母親はアメリカ人。イギリスでの教育課程を終えたのち、母親の母校――たしかヴァッサー大学だった――に留学していたから、二人が出会ったのは、マーチンがこの村に来て一年半後だった。
ナタリーは、人目を引く娘だった。すらりと背が高く、色白の美しい顔は、ラファエロ前派の絵を思わせた。そして赤味がかったブロンドの髪……。BBCラジオに勤めていた彼女は、まさに、マーチンのような男を引きつける、アメリカ仕込みの洗練された魅力を備えていた。
私は、マーチンは恋に溺れるタイプではないと思っていた。しかしその予想はみごとに裏切られた。他人の欠点には容赦なかった男が、ナタリーの欠点には、まるで盲目になった。
こうなると分かっていたら、私はマーチンに何か忠告できていただろうか。いや、たぶん何も言えなかっただろう。人の恋の道とはそういうもので、軌道修正は難しいと分かっていたからだ。当事者にはその先の危うさなど目に入らない。
私にどんな忠告ができたというのか。
ナタリーは大学に入ったその年に睡眠薬を飲みすぎたことがあったが、あれは自殺未遂ではなくストレスと疲れだったと言い張ったし、昼間見通しのいい道路で父親の車を運転していて木にぶつけたときは、ただブレーキとアクセルを踏み間違えただけだと言い張った。警察の調べで、ナタリーはたしかに酔ってはいなかったと立証されたが、ボーイフレンドに振られたばかりだったということは公表されなかった。
その話はのちに、村のうわさ好きの女たち――マギー・アンダーウッド、ジーン・ウォレス、ローラ・ぺティファー――によって、村中の知るところとなったのだが。
しかしマーチンにそんな話をしても無意味な気がした。マーチンはきっとこう言うだろう。「ナタリーが神経症? 言ってる意味が分からないんだけど」
私から見てナタリーは、情緒不安定で、人格の基盤がしっかりしていない印象を受けるというだけだ。理由をはっきり示して「マーチン、だから後で痛い目を見るわよ」とは言えなかった。
二人の結婚式には、村じゅうの人が招待された。
欠席したのは、マギー・アンダーウッドとウォレス夫妻だけだった。ケネス・ウォレスと妻のジーンは、こんな盛大な式に参加できないなんて本当に残念だと口では言っていたが、その実、招待状を受け取ったあとで、ロードス島への休暇旅行を決めたことを、私たちは皆知っていた。マギー・アンダーウッドは、父親のアンダーウッド将軍の回顧録を企画していて、その件でちょうどその日にロンドンに行かなければならないと、表面上は言っていた。
村の人々はお互い口をつぐんでいたが、皆内情を知っていた。
ジーンは、マーチンが村の緑地に車を止めることで一度ならず彼とやり合っていたし、マギーは、以前マーチンに保守党主催のバザーの寄付を申し込んだときに、あまりにもすげなく断られていた。
だから私は、そこにローラ・ペティファーの姿を見つけたときは、正直驚いた。彼女は以前マーチンから面と向かって「おせっかいババア」と言われたことがある。
ローラは、溺愛する息子・ティムを伴っていた。会計士見習いとして勉強を始めたばかりの息子だったが、ローラの目には、将来シティで名を上げている姿が見えているらしかった。
3
地元の来賓に挨拶するときの新郎の油断ない笑顔と、空港に向かう車に乗り込むときの花嫁の、まるでもう二度と戻ってこられないかのような派手な泣きじゃくり方はともかく、宴は滞りなく終わった。日本に三週間のハネムーン。おそらく費用は経費で落とし、税金対策にするはずだ。
次の日さっそく、ローラが通りを渡ってやってきた。
「ちょっと、あなた、気が付いてた? マーチンったら、花嫁の付き添いの人たちに、やたらちょっかい出してたじゃない?」
「あら、そうだったかしら。気が付かなかった。あなたの勘違いじゃないの?」
「そうかしら……」
「あなた、少しシャンパンを飲みすぎてたかもしれないわね」
私の言葉にローラは気を悪くして、肩をいからせて帰って行った。
新婚夫婦がハネムーンから帰ってきた。でも私は、呼ばれない限りは訪ねることはしなかった。ナタリーと私はそんなに気の合うほうでもなかったし、私は次の本の執筆にかかっていたからだ。だからマーチンとも、その後数か月は顔を合わせることもなかった。仕事の合間にふと、マーチンの辛口でとびきりシニカルな物言いを懐かしく思うことはあったが、彼の仕事の邪魔はしたくなかったから、こちらから訪ねていくことは控えていた。ナタリーは、仕事を変わってロンドンに出勤するようになっていたし、時々は泊りになることもあると聞いていたが。
そうこうしているうちに、マーチンから夕食に招待された。
「紹介したい男がいる。テレビ関係の人なんだ。会ってて損はないよ」
ガイ・ヘンダーソンは若いころ、多くの者たちにとって「会ってて損はない」人物だったようだ。特に女性に対しては、見返りを期待していろいろしてあげたように見受けられる。そう思ってしまうのは単純に、私がこういうルックスの男をあまり好きではないからか。大きながたい、あごひげ、ブロンドのはね毛の下には血の気の多そうな赤ら顔、そこに貪欲そうな青い目が居座っている。
ところがナタリーには、この男はかなり魅力的に映っていたようだ。ガイとナタリーは同じ業界ということもあり、共通する点も多いのは承知していたが、それにしても、この二人の意気投合の仕方は派手だった。
ガイは、BBCお得意の文学番組を担当していた。ブックエンドとか呼ばれている時間枠だ。時代をリードする若手作家の日常を、一か月間に渡り追って紹介する番組で、今回は、マーチン・フェンサムを取材するというのでここに来ていた。
ガイ・ヘンダーソンは、マーチンが作家仲間として私を紹介したとき、まったく興味を示さなかった。取材の席で、これから数か月間ちょくちょくお会いすることになりますからとのたまっていたが、視線は私にではなく、ナタリーに注がれたままだった。私としては、まったくお目にかからなくともちっとも構いませんよと言いたかったが、もちろん言えるはずもなかった。
それからいくらも経たないうちに、うわさが持ち上がった。
私が最初に耳にしたのは、ジーン・ウォレスからだ。教区の月例会の席だった。
「あの二人が一緒にいるのを見たのよ。ロンドンの《レスカルゴ》っていうレストランだった」
インスタントコーヒーをすすりながらジーンは言った。「親しげに寄り添って座ってたのよ!」彼女お得意の、悪戯っぽい無邪気な笑顔だ。
私たちは誰一人、そういう彼女はいったいそんな高級レストランで何をしていたのかと、勘ぐることさえ忘れていた。
続いたのが、ローラ・ペティファーだ。「私も、ガイ・ヘンダーソンの車を見たのよ、両親の家にティムを迎えに行った帰りだったわ。避難所に停めてあった」
「二人が中にいるのを見たの?」私は聞いてみた。
「実際に見たわけじゃないんだけど」ローラは言った。「でもティムが言ってた。助手席の背もたれに、ナタリーのスカーフがかかってたみたいだって。だって、ガイの車がそこにあったのよ。ほかにどんな理由があるの?」
ほかにどんな理由? この人はいったい何が言いたいのだろう。日ごろは人格者で通っている人たちが、他人の色事には目の色変えて、あれこれ言い募るのには辟易する。
私は、ガイ・ヘンダーソンは撮影のためにここに来ているのだと指摘した。撮影に適したロケ地を探していたに違いないと。作家が、自然からインスピレーションを得ようと野辺を歩き、それをBBCのカメラが追う趣向なのだと。
しかしいくら力説しても、彼女たちの耳には届いていない様子だった。
4
そして今度はマギー・アンダーウッドだ。彼女は二十五年ほど前、独身の意思を固めてこの村に来た。以来、ずっと独身を通している。結婚する機会を逸したのか、はたまた、この村でリーダー格として確固たるステイタスを築いていた彼女は、へたな結婚はその立場を損ないかねないと思ったのか。
父親のアンダーウッド将軍は、なんでもその昔、インドで大きな力を持っていたらしく、彼女が時間を割くのは、その回顧録の編集作業と、彼女のボーンチャイナのティーカップを使うのにふさわしい〈上品な〉隣人たちとのお茶会だった。
「二人は手を取り合っていたわ」線の細い〈上品な〉声でマギーは言った。「私、見たのよ」念入りに化粧を施した顔に皺をよせて、嫌悪感をにじませた。
「どこで?」ローラが身を乗り出した。
マギーは、司教が例会用に用意した使い捨てのプラスチックカップを置いて言った。「それがあなた、列車の中よ!」
「軽はずみだわね」ジーンが言った。「ロンドンから誰が乗ってくるか分からないのに」
「それだけじゃないの」マギーは続けた。「その前に二人はステーションホテルから出てきたのよ」
「列車に乗る前に、ちょっと飲んでただけじゃないの?」私は言った。
「手に手を取って?」
「ショービジネスの仕事をしてるんだもの。ああいう業界の人たちは、表現が大げさなのよ」
私が何を言おうと無駄だった。皆、ナタリーとガイは間違いなく出来ていると思い込んだようだった。
だから数か月後、ナタリーが夏に子供が生まれると皆に報告したときは、村じゅうが意味ありげな視線を交し合った。
「そうなの?」村の売店で、ローラ・ペティファーは冷笑を浮かべた。「父親は誰かしらね」
「可哀そうなマーチン」ジーン・ウォレスが嘆くように首を振りながら口にした。
父親の回顧録のおかげですっかり文学者気取りになったマギー・アンダーウッドは、不貞の妻を持った夫を評して何やらぶつぶつ言っていたが、幸いなことに、私にはよく聞こえなかった。
誰がナタリーに伝えたのか。考えるまでもないということか。
ナタリーのお腹が目立ち始めるころには、父親はマーチンではなくてガイだというのが、村じゅうの人間の思うところとなっていた。ナタリーの耳に入らないはずがない。
やはりどうしても、マーチンに忠告しておくべきだった。
しかし彼にとって、ナタリーは自慢の妻だったし、子供の誕生も何よりも楽しみにしていた。 そのどちらの喜びも奪うようなことなど、私にはできなかった。
夜ふと目が覚めると、寝室いっぱいに青いライトが点滅していた。外を見ると、マーチンのコテージの前に救急車が停まっていて、ストレッチャーが運び込まれるところだった。
私はガウンをまとって隣に向かった。マーチンが取り乱していた。
「ナタリーが……」
「まさか、流産!?」
「違う」ストレッチャーがコテージの急な階段を降りていくのを見ながらマーチンが言った。「首を吊ろうとした」
「えっ!?」
「寝室で首を……さいわいロープが切れて……。でも床に落ちて、ひどく打ちつけられて……そ、そこらじゅう……血だらけで……」
唇が痛々しく震えていた。シニカルで、機知に溢れ、他人の不幸を分析していた男が、自身の不幸に見舞われてしまった。
このことが、彼の今後の作品にどんな影響を及ぼすのか。私は彼を慰めながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
5
それから、ナタリーの姿を見ることはなかった。
マーチンは、痛ましいまでに蒼白な顔で戻ってくると、そのまま家の中に引きこもってしまい、そして突然、夜中の二時、三時ごろ車で出かけて行った。夜明けまで野辺を彷徨い続けていたのかもしれない。
何週間もして、うちを訪ねてきた。ウイスキーのグラスを重ねながら、口を開いた。ナタリーは自分たちの子供を失っただけでなく、二度と妊娠できない体になったと宣告されたと。悲嘆と絶望に打ちひしがれて、マーチンの元を去ってしまったとも。
「彼女を愛しているんだ」マーチンは言う。「どうしてこんなことになったんだ。なぜ自殺なんかしようとしたんだ。僕が何かしたか?」
「何も聞いてなかったの?」
「僕を裏切るようなことはしてないってずっと言ってた。そんなこと、考えもしないのに」
誰かがマーチンに伝えなければと思った。そして今、それができるのは私だけだ。
「マーチン……」彼の肩に手をかけた。「村の人たちは、子供の父親はあなたじゃないって噂してたわ」
マーチンが私を凝視した。その表情は、彼がナタリーに会ったときから見せなくなっていたものだ。目的のためには手段を選ばぬ冷徹な表情……。
「……父親は、ガイだと!?」
私はうなずいた。
「ばかな。二人は昔からの知り合いだよ」うんざりした様子でマーチンは続けた。「ナタリーがガイを説得したから、BBCは僕の番組を作ることになったんだ。この村のうわさ好きの女どもは、男と女の間にセックス抜きの友情なんてあり得ないと思ってる」
「たぶんね」
「あのくそババアどもは、自分たちが他人の人生をめちゃくゃにしたなんて、夢にも思ってないんだ」マーチンは怒りをあらわにした。「ペティファーのばあさんもそのなかにいただろ」
「ええ……まあ」
「それからあのペテン師のマギー・アンダーウッドも」
「ペテン師?」
「そのとおり。一目瞭然さ。あの女もいただろ」
私は小さくうなずいた。うなずく角度を小さくしても、起こったとんでもない出来事は、うやむやになるわけもないのに。
「やっぱりな。それからジーン・ウォレスだ。ナタリーが前に、ガイと一緒にいたときレストランで鉢合わせしたって言ってた」
分からないのは、何故ナタリーはそんなに、村の噂を気にしたかということだ。引っ越すという選択肢もあった。経済的な余裕はあるのだから、ガイと二人、どこにでも好きなところに行けたはずだ。それとも、彼女がもともと持っていたノイローゼ気質が、あんな芝居じみた大げさな行動を取らせたのだろうか。それとも――あの自殺騒ぎ以来、時々私の頭に去来したことだが――本当に、ガイとの間に何かあったか。
この村を出て行くだろうと思われていたマーチンは、何故か村に留まった。それどころか、以前はすげなくかわしていた村の役目まで引き受けるようになった。最近は、ティム・ペティファーがマーチン宅をよく訪ねている様子だ。私はといえば、次回作の執筆に加え、出版社がやっと力を入れてくれるようになり、宣伝プロモーションに時間を取られていた。時々ふと、マーチンはどうしているかと考えるときなど、やはりマーチンには友人が必要だと思われたから、たとえずっと年下であっても、ティムの訪問は私にとっても嬉しいことだった。それにティムにとっても、支配欲の強い母親よりも、マーチン・フェンサムのシニシズムのほうに、何か得るものがあるかもしれない。
やがて、平穏でゆったりとした村の日常が戻ってきた。クリスマスが近づき、キャロルサービス、教会の飾り付け、パーティー、プレゼントの買い出しの時期がきた。
6
小さな歯車が狂い始めていることに、しばらくは気付かなかった。ところが十二月の初めの週になって、ウォレス家のパーティーの招待状がまだ届いていないことに、ふと思い至った。 このパーティーは村の年中行事で、教区のピクニックや保守党後援会主催のバザーと同じように恒例になっているものだ。普通なら単純に、今年はパーティーをしないのだと考えたかもしれない。しかし私はほんの数ヶ月前、ジーンから直接、今年はケータリングを頼むことにしたと聞かされていたばかりだった。
私はもともと自分に自信がないほうだ。招待がないのはパーティーがないのではなくて、ただ私が村八分にされただけなのかもしれないと思った。こんなことで傷つくのは意に反するので、以前よりもウォレス家を気に掛けるようになった。
そういえば最近、ケンの車が家にない。夜も、まるで誰もいないかのように家に明かりが点いていないこともしばしばだ。ジーンの姿も見かけなくなった。
事情を教えてくれたのはマーチンだった。「え? あなたが聞いてないなんて意外だな」
「聞いてないって、何を?」
「ケンが離婚したがってるってこと」
このときの驚きを、どう表現すればいいだろう。ウォレス家は、村にとってかけがえのない存在だ。村の象徴といってもいい。二人が別れることになれば、村は求心力を失い、まとまりがつかなくなる。
「あの人たちが別れるわけないわ」私は言った。
「なぜ?」マーチンは、彼独特の乾いた笑い声を上げた。「彼らだって、人の子さ」
こんなことを言ってみても始まらないが、あの二人は本当にゆるぎなく、品があり、満ち足りていて、人々の間で失われつつあるからこそ大事にされなければならない、イギリス人の美徳の象徴だった。
「……信じられない」私は言った。
「そんなこと言ったって。実際、家も売りに出てる」
「二人ともここを出ていくってこと?」
「そうするしかないみたいだよ。金銭的にね。二人とも、一緒に住んでたころよりずいぶんランクを下げないと暮らしていけないらしい。ジーンは今、ラートンで部屋を探してるそうだ」
「ラートン? いくらなんでもあんなところに」
「それで精一杯なんじゃないかな」
「だけど、ケンはどうして離婚なんて。ほかに女性がいるの?」
「いや、ほかに相手がいたのはジーンのほうらしい」
私は唖然としてマーチンを見た。「ジーンに?」
「そう聞いてる。ロンドンで男と一緒のところを見られているそうだ」
「誰に?」
マーチンは肩をすくめた。「さあ。彼女がナタリーとガイを見たとき、自分も男と一緒だったんだろう」
ジーンはもちろん否定した。――私はラートンに彼女を訪ねた。工場が並ぶ、小さくて汚い町だ。部屋は居心地が悪く冷え冷えとしている。彼女が持ってきた家具や持ち物が、かえって今をみじめなものにしていた。そのみすぼらしく狭い部屋に不釣り合いな大きなソファの隅に、たっぷりとした体のジーンが身を小さくして座り、嘆き悲しんでいる。
「まるで私が不貞を働いたみたいに」彼女はすすり泣いた。「ケネスを愛しているわ。どうして私が浮気なんか。それに……」
彼女は私から目をそらし、窓の外を見つめた。工場の煙突が汚い裏庭を見下ろすようにそびえたっている。
「それに、あれも好きじゃなかったんですもの……」消え入りそうな声で言う。
「なにが?」
「その……セックスが」
――私は言葉に窮した。ケンとジーンがベッドに一緒に寝ている図を思い描くのだけでも気が進まないのに、ましてや二人のセックスシーンなど、一瞬たりとも想像したくはなかった。
「ケンは、それを知ってるの?」
「どうかしら……」ジーンは気まずそうだった。
「ケンは本気で、あなたが浮気していたと思ってるの?」私はつとめてさりげなく尋ねた。
「そうみたい。それに、たとえ浮気の事実がないにしても、もう十分ダメージは受けてるって言うの。立場上、自分の妻が噂されること自体が許せないのよ。笑いものになるより、離婚したほうがましだと言われたわ」
7
そう言い放つケンの姿が目に見えるようだった。ユーモアのセンスもあまり持ち合わせていない彼だ。自分の妻へのあてこすりを笑い飛ばすだけの器量など当然ないだろう。
それにしても、噂の出所はどこなのか。
「私を見た人がいるのよ」
尋ねるとジーンはそう返した。「レスカルゴで私を見たって。私は一人だったのに。でも、ケンは信じようとしないの」
「何をしてたの?」
「食事をしてたのよ。本当に、ただ、食事をしてただけ」
私の当惑を見てとると、ジーンはあわてて言葉を継いだ。「ずっと人のために料理してきたわ。子供たちには魚のスティックフライやホットドッグ。ケンにはローストに二種類の野菜を添えたもの。それが今じゃ彼は健康のためだって、いつも小麦胚芽や生のニンジンばかり。たまには何か、いつもと違うもの、自分では作ったこともないような、豪華で美味しいものが食べたかったの。据え膳を味わってみたかったのよ。ただそれだけ」
いとまを乞うたとき、ジーンは私の腕をつかんで言った。「何もかもが突然だったの」
むくんで前より大きくなり、化粧っ気のない彼女の顔は醜かった。そして何かに怯えていた。それがより気の毒だった。
「幸せだと思っていたわ。なのに今じゃ……」
彼女は、みすぼらしい廊下から、みすぼらしくて狭い居間を振り返った。「もう、あのころには戻れないのね」
「戻れるわ。そんなふうに言うものじゃないでしょ」
「いいえ」ジーンは首を振った。
「大丈夫だから」
「いいえ、もうだめ」ジーンはあきらめたように言うと、フルーティングガラスとベニヤ板でできた粗末な玄関戸を開けてくれた。「来てくれてありがとう。ローラやマギーにも、あれから会ってないのよ……」
マギー・アンダーウッドがあの汚らしい小さなフラットで革の長手袋を膝にのせてお茶を飲む姿は、あまりにもちぐはぐで現実味がなかった。ローラなら、少しは期待できそうな気がしていたのだが。
ところが今度は、そのローラがトラブルに見舞われた。
ウォレス夫婦の離婚は、まるで破滅の序曲に過ぎなかったかのように、私たちの平穏な生活に、さらに大きな亀裂が入り始めた。
ティム・ペティファーが突然会計士の仕事を辞めて、インドだかイスラエルだかに行くことを決めたのだという。
ティムはうちにやってくると、落ち着かない様子で暖炉の前に腰をおろした。「すべて無意味だと言いたいんです。ナンセンスだと。今まで三年間、がむしゃらにやってきた。これからまた三年か四年、見習いの仕事に明け暮れる。そしてその先に待っているのは、退屈な会計士か、エコノミストか、銀行員か……そんなものです。そんなもので、一生が終わるんだ」
「それが、あなたの望みじゃなかったの?」
「ええ、まあ……」ティムは立ち上がって、暖炉から突き出ている薪を蹴り入れた。「そう思っていたこともありました。だけど……もう前の僕じゃない。大人になったつもりです。経験も積まないうちに、目の前にある可能性の扉を閉ざしたくはない。そう思ったんです」
前にマーチンが同じようなことを言っていた。「マーチンとそんな話をしたことがある?」
「ええ、まあ」彼は若者がよくやるように、ぎこちない所作で肩をすくめてみせた。「マーチンが言ってた。つきつめて考えれば、そもそも人生とはどういうものなのか。机にかじりついて、給料をもらうだけでいいのか」
最後の言葉を言うときの冷笑は、自信に満ちていた。
「ほかにやりたいことがあるの?」
「ええ。まずは少し、世界を見てみたい。そしてとりあえず、母とはちょっと距離をおいて生きてみたい」
「お母さんが可哀そうだわ、ティム」
「マーチンが言ってた。母は今まで僕の人生を支配してきたんだと」ティムは堰を切ったように話し始めた。「僕は僕のやり方で生きてみたい。母のじゃない、僕の人生を生きてみたい。帰ってきても、つまらない仕事に就く気はないよ。母の老後の贅沢のためだけに働くのはいやなんだ」
「何てこと言うの」
「だって」ティムは不機嫌そうに言った。「本当のことでしょ」
「でもお母さんは、あなたにちゃんとした教育を受けさせたくて、あなたにあらゆるチャンスを与えたくて、節約して貯金してきたのよ」
「僕が望んだことじゃない」ティムは私の目を見ずに言った。
「とにかく、僕は自分でチャンスをつかみたいんだ。のるかそるか、やってみなければ分からないじゃないか」
8
気の毒なローラ。ティムが彼女の元を去ってから、生気というものか無くなってしまった。一夜にして髪が真っ白に……とまではいかなかったが、六か月後には確実に灰色になり、前かがみで歩くその姿は見る影もなかった。村の緑地を歩いている彼女を遠くから見かけたとき、私はすぐにローラとは気付かず、自分の知らない老人だと思ったほどだ。
けれどもそのころ、村人たちの関心は、マギー・アンダーウッドに関する意外な新事実に集中していた。
将軍の回顧録など、存在しなかったのだ。
彼女はよくロンドンに、出版社との打ち合わせと称して出掛けていたが、それらがすべて、彼女の想像上の産物だったということが明らかになった。
そればかりではない。父親と言われていたアンダーウッド将軍も実は存在せず、マギーの人生という薄っぺらな本の架空のキャラクターに過ぎなかったことまで判明した。彼女自身の出自も、高位の陸軍将校の娘などには程遠く、ボールトンのどこかの裏通りで、助産婦の私生児としてこの世に生を受けたらしかった。この母親はのちに、近くにある陸軍兵站部で倉庫係をしていた男と結婚したという。
そのことを知って間もないある晩、私とマーチンはウイスキーグラスを傾けながら語り合った。マーチンの言うとおり、マギーがわざわざ嘘を吹聴したという事実に比べれば、その中身は大したものではなかった。
「どうして気にするかな」彼は言った。「私生児のどこが悪い? 母親が助産婦だっていいじゃないか」
そう言って笑った声には悪意があった。「まあ、ボールトン出身だってのは、僕も隠しておきたいかもしれないけど」
「可哀そうに、マギー。もう立ち直れないわ」
「当然の報い、とでも言うしかないだろうな。気取ったお茶会を開き、将軍についての際限ない嘘に、人を付き合わせていたんだから。笑いものになって当然だ」
「少し脚色したのが、そんなに罪なことかしら」
「それはそうさ」マーチンは断固とした口調だ。「それが他人を傷つけるものであれば」
「マギーの小さな作り話で傷ついた人なんかいないわ」
「将軍に関する作り話ではね」
意地の悪い言い方だった。
それから三日かそこらのある日、マギー・アンダーウッドは、村の店で買ったプラスチックボトル入りの漂白剤を飲み干した。
その話を聞いてからというもの私は、とくに眠れない夜には、いくら振り払おうとしても彼女のことが頭から離れなかった。キッチンの床に横たわり、薬剤が自分の内臓を溶かしていく痛みを感じながら死を迎えるとは、どれほど辛いものだったか……。
ほどなくして、「売り家」の看板が隣のコテージに立った。買ったのは、もうすぐ出産を迎える若い夫婦だった。見たところ、感じのいい人たちだ。イギリスを代表する作家が所有していた家に住めるとあって、とても嬉しそうだった。
イギリスを代表する作家――そう、マーチンの今のステイタスは、ガイ・ヘンダーソンのテレビ番組によるところもあるだろう。
業者がマーチンの家具を運び出し終わったころ――彼の近著を原作にした映画が制作されることになり、彼はその著作料でケンジントンに広いフラットを買っていた――私は庭に出てマーチン宅に向かった。
マーチンは窓辺の椅子に座って、鍵を渡すために新しいオーナーの到着を待っていた。
「さよならを言いに行こうと思ってたんだ」
「ええ」
「いろいろあったけど……いざ出て行くとなると寂しいよ」
「そうね」
作家の目は洞察力があって鋭い。私は自分のなかで、埋め合わせのきかない何かが崩れる感覚を悟られないように努めた。「この村は、あなたが来たころとはずいぶん変わってしまったわ」
私を見るマーチンの表情は鋭かった。「そうだね」
マーチンは、失ったものの大きさをどう見ているのか。ただ容赦のない裁きが下っただけだと思っているのか。
「これで、あなたがより面白いミステリーを書けるかどうかが楽しみになったわ」
「どういう意味?」
「罪を犯すとはどういうことなのか、今度は自分の経験を生かして書けるようになったじゃない」
マーチンの答えを待たずに私は背を向け、庭をつっきり門を抜けて自分の家に歩いた。
そしてそのまま中に入って、後ろ手にドアを閉めた。
CRIME WAVES SUSAN MOODY POISONED TONGUES