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声優を引退したあと、翻訳と創作をかじってみました……。

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「ブレージング・スター」1  赤い星~前触れ

作・Lynne Markham     翻訳・崔 雅子
 

  赤い星

 
 秋の夜空には、星がいっぱいだ。土星(サターン)が見える。針の先のような極小(きょくしょう)の光を放つ。金星(ビーナス)や木星(ジュピター)も見える。木星(ジュピター)の小さくて明るい光は、たいまつの火が遠くでちかちか点滅するのに似ている。
 観測所には、僕とブライアンと、ブライアンの奥さんのモーリーン、そのほか何人かの仲間がいた。ブライアンが声をかけてきた。「ジェフリー、ちょっと観てごらん。今日のジュピターは一段ときれいだ。こんなに明るいのは初めてじゃないかな。今夜はきっと霜が降るぞ」
 僕は望遠鏡をのぞきこみ、ジュピターを見た。目が痛いほどまぶしい。目をしばたたかせて、もう一度望遠鏡をのぞく。白くさえ見えるほどの華やかな光。やがてそれが、ぐるぐる回り始めた。初めはゆっくり、そしてどんどん速くなる。回転花火みたいだ。回転の中心に、赤い色が現れた。炎より赤い、血よりも赤い色だ。燃えるようなその星を見ていると、まるで燃え立つ音まで聞こえてきそうだ。熱い炎はやがて周囲に無数の光の粉をまきちらし、さらにまぶしく光り輝いた。
 これは木星(ジュピター)じゃない。こんな星、いままで見たことがない。こんな星、ほかの誰にも見えやしない。僕は顔がこわばり、目の奥が涙で熱くなるのを感じた。僕は夢中で手を伸ばした。届くはずもないあの星に触れたいと思った。あの星と一緒に空に浮かびたい、あの星そのものになりたい。何光年も離れているのはわかっているのに。だからなんだ。このとき泣きたくなったのは。
「だいじょうぶかい? ジェフリー」ブライアンがやってきて、僕のうでに手をかけた。
 星の回転が止まり、赤い色も消えた。あとにはジュピターが、何ごともなかったかのように漆黒の夜空に光り輝いていた。
 僕はブライアンの手をそっとほどいた。「だいじょうぶ」
 望遠鏡の台から降りて、上着にうでを通した。頭の奥では、さっきの輝く(ブレージング・)星(スター)が、永遠に消えない炎のように燃えさかっていた。
 
 
 
  前触れ
 
 もしもアイビーが、おばあちゃんのウオノメの足を踏まなかったら、僕はジェフになることもなく、永遠にジェフリー・パーカーでいただろう。だけどそのほかにも、いろいろな「もしも」が重なり合った。もしも、父さんと母さんがアフリカに行かなかったら。もしも、おばあちゃんと一緒に住まなかったら。もしも、おばあちゃんがあの水曜日の午後、ダンスに出かけなかったら。そんなすべての「もしも」に導かれるように、僕はブレージング・スターに遭(あ)ったのだ。
 学校から帰ってくると、おばあちゃんが台所で、片方の足をもう一方に乗せるようにして、つま先をなでていた。
「ウオノメだよ」顔をしわくちゃにして、おばあちゃんが言った。まくれあがった花柄のスカートから、冬用の長パンツのすそが見える。「アイビーが金色の一番いい靴で、思いっきりおばあちゃんのウオノメを踏んだのさ。アイビーったら、自分が男役だって忘れてたみたい。とんでもなく痛かった。まったく、まいっちゃったよ。悪いけど、薬局に行ってウオノメ用のばんそうこうを買ってきてくれないかい。帰ってきたら、夕食にしましょ」
 僕は、テーブルの上にあったお金を取ると、家を出た。後ろから、おばあちゃんがつけたラジオの音が聞こえてきた。趣味の悪い音楽だったが、それでも、緊張がほぐれ、胸が楽になった。よかった。おばあちゃんは今日死んだりしない。僕がひとりで残されることはない。
 外はまだ明るかった。目の前に、赤い星が見えた。初めは、ベテルギウスが小さな赤い点のように空に浮かんでいるのかなと思った。次に、何かが僕の眼鏡についているのかなと思った。実は、それが前触れだったのだ。最初は輝く(ブレージング・)星(スター)、それからベテルギウス、空で一番赤いその星は、まるで僕のためだけにそこに存在するかのように光っていた。
 僕は近道をしてブーツ薬局に行った。咳止め薬を買い求める親子連れでいっぱいだったが、店員のジーンが声をかけてくれた。「こんにちは、ジェフリー。おばあちゃんは元気?」
「はい。おばあちゃんがウオノメ用のばんそうこうをくださいって」言うと僕は赤くなった。おばあちゃんがお通じで苦しんでいるとき、便秘薬を買いに来なきゃならなかったときと同じ気分だ。横にいた女の人がくすっと笑った。
「アイビーがまた、おばあちゃんの足踏んじゃったの? おばあちゃん、ちゃんとした男性のパートナー見つけなきゃね。そうしたらアイビーだって、もう男役をやらずにすむから」ジーンは女の人と一緒にくすくすと笑って、ばんそうこうをレジ袋に入れて渡してくれた。
 僕は足早に、家に帰るには遠回りになるホックリー通りを歩いていった。店が途絶えて、代わりに工場が並ぶ。編み機のカタカタいう音と、ときどき何やらどなる声がする。別に前方を注意して見ていたわけでも、ましてや何かを考えていたわけでもない。ただ、「惑星組曲」の中の「ジュピター」を口ずさんでいただけだ。
 角を曲がったら、目の前にインディアンがいた。堂々と舗道に立っていた。
 沈む夕日の光で錯覚をおこしたのか、インディアンは恐ろしく大きく見えた。三メートルくらいはあった。肌は荒々しいまでにつややかで赤と金色に輝いていた。投げ槍(やり)を右手にしっかりと握り、目は背後の太陽とともに鋭く赤い光を放ち、髪は真っ赤な血の川が流れているようだった。長い鳥の羽根が頭の後ろについていて、服には月と星が描かれていた。
 僕は、ばんそうこうの袋を握ったままその場に立ち尽くした。そしてインディアンを、燃えるようなその目を見た。顔には赤い縞模様が描かれ、ネックレスは動物の白いかぎつめでできているようだった。インディアンの体から何かがやってきた。においをかいだり触ったりできるものではない。それは、過去を見ているような、行ったこともない未来を見ているような気持ちにさせる、不思議な力という感じだった。目の前に確かにあるものが何を意味するのか、僕には全然分からなかった。
 首の後ろに鳥肌が立った。
 インディアンは鋭い目で僕を見返した。まるで僕のことを知っているみたいな目だった。ジェフリー・パーカー。おばあちゃんと二人暮し。セロテープを貼りつけて修理した眼鏡をかけ、おばあちゃんに編んでもらったごわごわのセーターを着ている。
 彼を見ていると、大声で叫びたい気持ちになった。恐いからだけじゃなかった。おごそかなものに出会った気持ち、待ち望んでいた何かに、やっと出会えた気持ちがしたのだ。
 太陽が視界から消えた。インディアンを包んでいた炎もゆっくりと見えなくなった。僕は、何がなんだか分からないまま、向きを変えて走って帰った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「ブレージング・スター」2    マジック・アイズ~不思議な目を持つ者

作・Lynne Markham  翻訳・崔 雅子

   マジック・アイズ~不思議な目を持つ者
 
 僕は、おばあちゃんが死ぬことをいつも恐れていた。おばあちゃんが、どこかが痛いと言ったり、消化不良を起こしたり(おばあちゃんはキャベツだかセロリだかが食べられなかった)、ときどき動悸がすると言うと、そのまま死んでしまうと思った。次の日の朝起きて、おばあちゃんが死んでいるのを発見するんじゃないかと思うと、夜ベッドに入るのが恐かった。僕の人生に欠けている、とても大事なもの。それは、「人」だった。父さんと母さんがアフリカに行ってしまって、僕とおばあちゃんだけが残された。いとこたちのことは、どうしても好きになれない。だから、おばあちゃんが死んでしまったら、本当にひとりぼっちになってしまう。
 父さんと母さんが行った後、おばあちゃんが言った。「二人っきりになってしまったね、ジェフリー。はりきっていきましょう」
 おばあちゃんはそんなことばかり言っていた。「がんばるんだよ、ジェフリー、いいね」「くよくよしてたってしょうがないだろ」
 父さんと母さんは急に行ってしまった。いつもアフリカに行きたがっていた。アフリカの話をよくしていたし、写真もよく見ていた。アフリカの砂漠で、古代人の骨や遺跡を発掘したいと言っていた。そしてある日、本当に急に旅立ってしまった。
「どうして僕を連れてってくれなかったの?」僕はおばあちゃんのひざのあたりに顔をうずめて泣いた。
 おばあちゃんはしばらく何も言わなかった。僕の髪をなでるおばあちゃんの服から、防虫剤とたまねぎのにおいがした。「何もかも自分の思い通りってわけにはいかないさ。お父さんとお母さんは今あそこで幸せなんだと思おうよ、ジェフリー。おまえもいつか、幸せだと思えるときがくる。そのうちわかるよ」
 僕は父さんと母さんからの手紙を待っていた。けど手紙は来なかった。ポストが近くにないのかな。それとも、今あまりにも仕事が忙しくて幸せで、僕のことなんか忘れてるんだろうか。最近父さんと母さんに会ったのは、頭の中に思い描く世界でだけだ。
 まぶしい太陽の下。サルたちがはしゃいでいる。月さえ大胆に雄たけびをあげる。僕は、ケンタウルス星を真ん中に配した南十字座を想像する。僕が思い浮かべるこの星を、父さんと母さんは実際に見ているんだろうか。ケンタウルス。幾光年も先にある、大きな翼を広げた星。
 ときどき、父さんと母さんに手紙を書いてみる。一度もポストに入れたことはないけれど。父さんたちが僕に手紙をくれないのなら、僕だって出さない。なんで僕がこんなに気をもまなきゃならないんだ。父さんたちはきっと、変な帽子をかぶって砂漠を歩き回り、泥だらけの骨やカップを掘り起こして喜んでるんだ。
 だからやっぱり、僕とおばあちゃん、二人っきりなんだ。
 朝起きてから、あのインディアンのことを考えていた。僕のことを知っているみたいな目だった。十秒間見つめただけで、僕以上に僕のことをわかったような感じだった。僕が夢の中で長い間空想し、長い間待ちこがれていた力強さを、あいつは持っているような気がした。
 朝ごはんのとき、おばあちゃんは、つま先がまだ痛むと言った。入れ歯のない顔は、ずっとふけて見えたから、また心配になってきた。
「今日はビンゴでもしとこうかね。そのほうが足も楽だし。ジェフリー、卵を食べなさい。強い男にならなきゃね」
 おばあちゃんはウオノメを傷めないように、つま先の部分があいたスリッパをはいている。ピンクのカーラーが一本、髪に巻きついたままになっている。
「ビンゴはギャンブルだよ」僕は冷ややかに言った。「まったく、考えなしなんだから。脳みそ腐っても知らないよ」
 紅茶を注いでいたおばあちゃんの手が止まった。やわらかそうなピンクのほほがだらりとたれて、溶けかけのアイスクリームみたいな顔になっている。そして今度は、そんな顔の次にくるとは信じられないような鋭くて人の心を計るような目をしてくる。まるで、『地獄の番人』のような目だ。
「まだまだお勉強しなきゃなんないことがいっぱいのようだね。少年」
 僕は、朝食を食べてから家を出たが、いつもよりぐずぐず歩いて遅刻した。まず事務局に行かなければならない。事務局の前の壁には、大きな赤い字で『ようこそ』と書いてある。その横に『通告』の紙が貼ってあった。
 
 受付係にはていねいに接すること。
受付で遅刻の報告書類に名前を書くこと。
 学校秘書に確認のサインをもらうこと。
 承認票を受け取り、それにもサインをもらうこと。
 承認票をクラスの教師に渡すこと。
 
 何人かの生徒が廊下の椅子に座らされて、校長の説教の順番を待っている。「何やらかしたんだ」ひとりが声をかけてきた。別のひとりが、弾丸のような一瞥を投げて低い声で言った。「消えろ、アホメガネ!」
 僕は一連の手続きをして教室に向かった。教室に入っても、生徒たちは僕に気づきもしない。
 ミス・ターナーが何人かの女子としゃべっていた。机につっぷして早々と寝ているやつもいた。僕は上着を脱いで席に着いたが、勉強などする気はなかった。ここで勉強することは何もないし、何かを得られるとも思っていなかった。
 教師たちには、僕らに何かを教えようという気持ちはないのだ。あるのは、どうやったらおとなしくさせていられるかということだけ。
 だから僕はまた、あのインディアンのことを考えた。まるでベテルギウスが、僕をあいつのところへ連れてってくれたみたいだと思った。
 あのインディアンを見ているだけで、不思議な気持ちになった。僕の心の中にあった想像の扉が、開いていく気がした。想像の中の僕は、本当の自分よりも大きくて勇気があってたくましいのだった。
 後ろの机がはねあがって、僕の椅子の背中にがつんと当たった。僕は小さく悲鳴をあげた。ミス・ターナーがこっちを見た。一瞬とまどい、顔色が変わる。僕の後ろの席のミシェルが言った。「先生、ちょっと、こっちに来て」
 小柄でやせっぽちなのに、みんなはいつもミシェルの言いなりだ。
こいつはただ、あざけるような顔に気味の悪い薄笑いを浮かべて人をじっと見
つめるだけで、人を操るのだ。ミス・ターナーが手に何か紙の束を持ってやってきた。
「さあ、これは、広告の紙です」そう言ってそれを手渡す。「どんな形容詞が使われているか、どの部分が語呂合わせになっているか、そういったものを見つけます。この広告のターゲットはどんな人たちでしょう。それを見つけたら、今度はターゲットを変えて、自分で書き直してみましょう。来週までに仕上げてください。わたしが席を回りますから、そのときに声に出して発表してもらいます。だから、きちんと書いてくるように」
 ミシェルのは、携帯電話の広告だった。シャロンのには、つやだしリップを持った女の子が載っていた。僕は自分のを腕で隠した。スリッパをはいた男が、ばか面でハワイアンダンスを踊っている絵だった。「老いるにまかせちゃいられない。プルーンジュースを飲みましょう」と書いてある。
 ミス・ターナーは、若年寄りと思われている僕に、わざとこれを渡したのだ。はやりのポップソングのグループは知らなくて、モーツァルトと星には詳しい僕に。
 教室の隅でケンカが始まった。ダレンが、電源も入っていないコンピューターを、酒場のピアノに見たててばんばん弾きだした。意味もなく体をくねらせながら目をくるくる回し、歌っているふりをしている。
 ミス・ターナーは、早々と寝ていた生徒を見て言った。「よろしい。なんにしろあなたは、自分の仕事をしてるわ」
 それから書類をまとめ、せき払いをひとつして、調子っぱずれな明るい声で言った。「さあ! いいですね。来週広告を忘れないで」
 その日はずっとそんなだった。生徒が何人か、途中からいなくなったが、僕は放課後まで学校にいた。帰ろうかとも思ったけど、別にどっちでもよかった。
 
 僕はまた、あのインディアンに会いにいった。あれは夕日のいたずらで、本物ではないだろうと思ってはいたけれど。あの日インディアンに遭ったホックリー通りに行ってみたが、彼はいなかった。
 そのまま帰ろうと思ったら、急にお腹が痛み出して、体を折り曲げた。あのときと同じだ。父さんと母さんが行ってしまった日。僕の前から姿を消した日。
再び体を起こしたとき、工場の中から聞こえていた音楽が「レディー・イン・レッド・スターリー」から、「スターリー・ナイト」に変わった。それと同時に、窓に赤と白の文字のライトが灯り、工場の名前が浮かび上がった。「スター・ニットウェア」文字のいくつかは赤く光り、星が燃えているみたいだ。
 急に音楽が止まった。とても静かで、工場のドアに近づく自分の足音がはっきり聞こえた。ドアはせまい通路の奥にあり、その通路のかべに、鮮やかな赤い星が描かれていた。銀色の光の尾が回りを囲んでいる。
 前にジュピターを観ていて出会った星と同じだった。見ていると、星の燃え立つ音が聞こえ、変な感じになって、目の前がぐるぐる回りだした。
 僕は目を閉じた。そしてもう一度目を開けたら、そこは工場ではなかった。そこはとてつもなく広い、緑の草原だった。太陽の光がまぶしくて、一瞬なにも見えなくなる。
 僕は目を細め、スクール・バッグを草の上に置いた。空気が澄んでいて、新鮮で、はじけていて、ごくごく飲めてしまえそうな感じがした。鳥が、青い空の高いところで鳴いている。草の一本一本さえ歌っているようだ。
 目の前に、少年が立っていた。僕と同い年くらいか、もう少し下かもしれない。やせた褐色の肌に、胴の回りにだけ布を巻いていた。つややかな髪の毛が肩にかかっている。そして僕を見て、まるで前からの友だちのように手を振ってきた。
「見てて、矢を放つから」少年は言った。「見ててよ、絶対勝つから!」
 少年は背中の矢筒から矢を一本抜くと、弓にあてがい、勢いよく引いた。矢は弧を描いて空を舞い、五十メートルぐらい先にあったもう一本の矢を越えて、荒々しく地面に突き刺さった。少年は飛び上がった。そばにいた何人かの男の子たちも、やったな、というように笑いながら少年に駆けより肩をたたく。少年がまた声をかけてきた。「こっちに来て、マジック・アイズ。君がおれにつきをくれたんだ!」
 僕は、ともかくスクール・バッグを拾い、わけも分からず、ぎこちなく少年に歩み寄った。軽装の少年たちの中で、僕だけが厚着していた。少年は歯を見せて笑った。「見て!」もう一度僕に語りかける。「あそこまで飛ばせるのはおれだけだ」
 そのとおりだった。最後の競技者の矢が放たれた後、誰かが叫んだ。「また今日も、ロングホーンが優勝だ!」
 ロングホーンは、高い澄み切った声で雄たけびをあげると、僕の手をすばやく取って草原を駆けめぐった。「今日は矢を十本取った! 明日もまた十本取るんだ!」そう言いながら、地面に突き刺さった矢を次々に抜いていく。僕も急いで矢を引き抜き、矢筒に入れていった。回りにいた子どもたちはロングホーンを取り囲み、笑いながら肩や背中をたたく。彼らに僕は見えていないのだ。僕は、ロングホーンの体の一部みたいなものなのか。
「マジック・アイズ、君はおれと一心同体だ」
 ロングホーンはそう言って、僕の肩に腕を回した。引き締まった筋肉が、針金のように固かった。
「でも、僕、君を知らない」思わずそう言ってしまった。
 ロングホーンは、はしゃぐのをやめた。そして僕の顔を穴の開くように見つめた。僕の中にある、僕にも分からない何かを見つめているようだった。それと、彼が内面に密かに抱えている淋しさをも。
 ロングホーンの顔が砕け散っていく。砕け散る前に静かに口を開く。「君はおれを知ってるさ」
それから景色がストップモーションになり、渦を巻いて逆回しになっていく。矢が再び宙を舞い、ロングホーンが笑う。スクール・バッグが、揺れる草むらの上に落ちる。それから、まぶしい光の中に引きこまれた。気が付くと、工場のドアの前にいた。
 
 
 
 
 

「ブレージング・スタ―」 3    きらめく星~いかれシェーン

作・Lynne Markham     翻訳・崔 雅子
 

きらめく星

 
 
 おばあちゃんには何も言わなかった。たぶん信じないだろうから。きっと、ときどき見せる、柔和な、切なそうな顔をするだろう。そしてこう言うのだ。「夢を見るのは悪いことじゃないさ」アイビーとダンスに行って男役をやらなきゃならないときも、こんなことを言ったりする。
 ロングホーンは僕だけのものだ。自分で僕にそう言った。頼りになる味方だ。強いし、野生児だし、信頼できる。ただ、僕にはやっぱり、バッハもモーツァルトも、星たちを眺められる望遠鏡も必要なのだ。
 僕が帰りついたとき、おばあちゃんのダンス靴が廊下に置いてあった。金色の編み上げハイヒール。シンデレラの靴みたいだけど、シンデレラの靴より大きくて、シンデレラの靴ほどにはきらきらしてない。カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」がかかっている。おばあちゃんが、男の人の首に手を回している振りをしながら、クイック・ステップを踏んでいる。もしかしたら、おじいちゃんと踊っているつもりかもしれない。おじいちゃんが亡くなったのは僕が生まれる前だけど、写真が暖炉の上に飾ってあった。
 「今日はラッキーだった」僕を見るとおばあちゃんは言った。「ビンゴで勝ったんだよ、ジェフリー」
台所から、シチューのにおいが漂ってくる。「モニカはパートナーを貸してくれるかもしれないけど、ドリスは貸さないわね。彼を自分の目の前にずっと置いておきたいタイプだからね。ジェフリー、ちょっとおばあちゃんのダンスの相手をしてくれるかい? 終わったら、シチューを食べましょ」
 家の中でなら、おばあちゃんとダンスをするのはいやじゃなかった。いや、むしろ、けっこう好きだった。おばあちゃんはやわらかで、ステップも軽やかだから。僕はジャンパーを脱いでブレザーを着、おばあちゃんの腰に手を回した。おばあちゃんは、僕のもう一方の手を取った。僕たちはクイック・ステップでソファと食器棚の間を行き来した。おばあちゃんは、曲をハミングしながら目を閉じている。「いい調子だわ、ジェフリー」おばあちゃんのウエストはやわらかくてつかみにくい。おばあちゃんの肌からは花のにおいが漂ってくる。でもカーラーはまだ髪に巻いたままだ。
 音楽が終わって、おばあちゃんは大きなため息をついた。「さあ、手を洗って、ジェフリー。シチューをいただきましょ」
 夕食の後、おばあちゃんはダンスシューズをビニール袋に入れて出かけていった。
「楽しんできてね」僕はおばあちゃんに言った。
おばあちゃんは声をあげて笑い、僕のほっぺたをぎゅっとつねって言った。「おばあちゃんが留守のあいだ、何をやるかちゃんと分かってるだろうね」
 僕はちゃんと宿題をすませて、早々とベッドに入った。ロングホーンの夢が見られるといいなと思った。ロングホーンは、僕の心の中で光っている小さな明るい星だった。もし触れたいと願えば触れられるかもしれない星だった。だけどその夜、夢の中に出てきたのはロングホーンではなく、父さんと母さんだった。ふたりはアフリカにいて、誰かがボートを作るのを手伝っている。ボートの材料は動物か何かの骨、鳥がついばんで、からからに乾いている骨だった。父さんと母さんは笑っているけど、僕は急に恐くなった。父さんと母さんはボートに乗って行ってしまうんだ、そしてもう二度と帰ってこないんだと思った。
 それから朝まで、もう夢は見なかった。
 
 次の朝、僕は普通に登校した。午後は美術の授業が二時間続いた。美術そのものは好きなのだが、この日の美術室は最悪だった。生徒たちは騒ぎ、席に着かずに暴れ回り、おまけにこの日は、あのイカれシェーンまでいる。シェーンはあぶない奴だ。こいつは人間じゃない。荒れ狂って叫びまくる嵐だ。「ぎょろ目のメガネ!」シェーンは叫んでずんずん僕に近づき、眼鏡を無理やりはずそうとする。ミス・カーターが、やめて席に着くように注意した。
 シェーンが席に着かないことは承知の上で、ミス・カーターはだるそうな声で言った。「これで二回目ですよ、シェーン。さあ、席に着いて」シェーンは席に着くどころか、教室の中の物をひっくり返し、生徒たちの悪口をわめきちらしながら教室を出て行った。廊下でもどなりながら、ドアというドアをばんばん叩いたりしている。
 シェーンに太刀打ちできるのは、ミシェルくらいのものだ。シェーンに何か叫んで、黒いアイラインの目で軽蔑のまなざしを送るだけでいい。ところがこの日は、ミス・カーターがシェーンに注意しているのを尻目に、ただ爪をいじくりながらあくびをしていた。
 シェーンと同じくらい厄介なのが、ダレンだ。こいつの顔は、まともに見られない。やつと目が合いでもしたら、「なに見てんだよ!」とばかりにゲンコツが飛んでくる。まるで、金色のピアスをつけたピストルの弾みたいなものだ。
 シェーンが叫びながらどこかに消えた後、ミス・カーターが、今日はユートピアについて勉強しましょうと言った。「誰か、ユートピアについて説明できる人」
 ダレンが、ミス・カーターの後ろにある長いすに乗り、ブラインドをガタガタ言わせている。
「ユートピアとは、楽園のようなものです。皆さんが想像できる最高の世界です。さあ、どんな場所だと思いますか?」
 教室のドアが開いて、校長が、大柄でごつごつした赤ら顔のミスター・ハンフリーと一緒に入ってきた。ふたりはダレンのほうにつかつか歩いていくと、ダレンをつまみあげ、教室の外に放り出した。ミス・カーターが何ごともなかったようにか細い声で「さあ、誰か」と促した。
「ヒップホップのコンサート!」
「違うよ、バッドストリートボーイズのコンサート!」ふたりの生徒が取っ組みあいのケンカを始めた。ミス・カーターはそれを無視して言った。「さあ、本当にきれいな場所を思い浮かべましょう。そしてそこに自分がいると想像してみましょう。どんな色や形が見えてきますか? 頭の中に浮かんだものを描いてみましょう。あとで私に見せてください」ミス・カーターがせつなそうな声で言った。おばあちゃんが、おじいちゃんの話をするときの声の調子に似ていた。
 僕はピーターとクレイグの後ろに座っていた。こいつらはほかの生徒に比べるとおとなしい。害はないが、友だちじゃない。この学校に友だちはいない。
 ふたりに話しかけることもなく、僕は自分の画用紙を見つめ、ユートピアを想像してみた。父さんと母さんは、アフリカがふたりのユートピアだと言っていた。僕は、焼けつく太陽と、ヤシの木々と、そのあいだを飛び回るオウムを思い浮かべようとした。ところが、昨日の夜の悪夢がよみがえってきた。父さんと母さんが、骨で作ったボートに乗って遠ざかっていく。代わりに僕は、おばあちゃんを思い浮かべることにした。パートナーの男性と一緒にダンスに行き、目を閉じて複雑なステップを踏みながら、ホールを自由自在に踊る。そう、おばあちゃんにとっては、それがユートピアだ。
 今度は星のことを思い浮かべた。星を観るということは、過去を観ているということだ。星の実態はそこにはない。何年もかけて漆黒の空を旅してきた輝きが、あの星の光なのだ。そう、僕にとってのユートピアは、絶対これだ。僕は、ケンタウルス座のa星を描き始め、その星を、まばゆい光を放つ馬にしていった。燃える銀色の翼を持つ星。観測所で観る、ぼやけてかすかに光る星じゃない。だが、星を描きながら僕は、自分を描いているような気分になっていた。
 画用紙には、巨大にきらめく星が現れた。これはケンタウルスじゃない。あの日、壁に見た星のほうに近い。星の光が僕の顔に反射し、星の中心には炎の輪があった。
 炎の輪など描かなかったはずなのに。その星を見ていると、自分を見ているような気がした。ただ、今の自分じゃなくて、なりたいと思っている自分を見ているような気がしていたのだ。
 ロングホーンは、僕のためにあの星を用意した。なぜ、どんなふうにかは分からなかったが。
 机の上に影が落ちた。ミス・カーターだった。「すばらしいわ、ジェフリー」例のだるそうな、ぼんやりした声で言った。
 その瞬間、絵をくしゃくしゃにしようと思ったが、そうする代わりに、画用紙をミス・カーターの腕に押しつけた。「はい、先生、描きました!」
 それからすぐ放課後になった。もう一度ロングホーンに会わなきゃと思った。
 
 昼間の光の中で見る工場は死んだように静かだった。なんだか僕は、自分がまともじゃないような気がしてきた。僕はときどき、いろいろなことをしている自分を想像する癖があったが、ロングホーンのことも、僕の妄想にすぎなかったのだろうかと思えてきたのだ。僕の想像癖は、父さんと母さんがアフリカに行ってしまった後始まった。それはほとんどの場合、とっぴょうしもないものだった。たとえばあるときはコンサートホールでトランペットを吹いていたし、あるときは宇宙船に乗って火星に向かっていた。誰にも知られないかぎり、僕はなりたいものにはなんでもなれた。ただ今まで、自分以外の人物になったことはない。ロングホーンのような、実在しない人物にも。
 工場の入り口は寒くて暗かった。中に入るとあの星が、壁の上で火が燃えるように光っていたが、僕が目にするとすぐに火も星も消え、代わりに、大きな太陽が燃えているのが見えた。夏のかわいた甘いにおいがする。
 僕は再び、あの大草原にいた。草は前のときよりも背が高く、お腹のあたりまである。風がざざーっと吹きすぎる音がする。ダイナミックな青い空に、雲が形を作ってはゆっくりと流れていく。
 ロングホーンの姿が見えないなと思ったら、笑い声がした。「こっちだよ、マジック・アイズ! 友よ、手伝ってくれ!」
 背の高い草をかき分けて進むのは、ぬかるみの中を行くような感じだった。草に足を取られながら、つまづきながら走っていく。ロングホーンが大声で叫んでいる。「昨日、君の夢を見た。だから今日は来ると思っていたよ!」それからまた、大きな笑いを響かせながら叫ぶ。「つま先を内側に入れるんだ。足を平らにして、腕を頭の上まで上げる!」
 僕は言われるまま、スクールバッグを頭の上に上げ、つま先を内側に入れて、カニのように横向きにゆっくりと草の海を進んでいった。やがて澄みきった川にたどりついた。ロングホーンは馬にまたがっていた。川岸にもうひとり少年がいる。二人は、もう一頭の馬の手綱を引いて水の中に入っていく。草の緑と空の青が、水けむり立つ水面に反射していた。僕は熱くて上着を脱いだ。
 水の中に進み、水が馬の胸の高さになったとき、ロングホーンがまた叫んだ。「友よ、急げ、こっちにきてくれ! こいつ、暴れる気だ!」
 ロングホーンはすべるように馬から降りると、暴れそうなほうの馬に飛び乗った。少年がロングホーンに手綱を渡した、と同時に馬は跳ね上がり、後ろ足で水を蹴る。ロングホーンの筋肉が隆起し、黒髪が顔を打つ。
「友よ、早く、手伝ってくれ!」
 僕はしりごみした。
 太陽の光が眼鏡のレンズに虹を作る。二本のうでに汗がしたたる。馬が恐くないわけがない。
 だが僕は、靴と靴下を脱ぎ、ズボンのすそをまくりあげ、セーターとシャツを脱いだ。太陽が、裸の白い背中に熱い。僕はしぶきを上げて澄みきった水の中に入っていった。水は氷のように冷たい。馬は頭をゆさぶり、暴れている。僕はそれでも馬に近づく。ロングホーンが手をさしのべた。僕は彼の手を取り、ぶかっこうに馬によじ登る。落ちそうになりながら、顔を水から出そうともがきながら、つるつるすべる馬の背にまたがった。と同時に、馬は僕たちを振り落とそうと大きく身をおどらせた。僕たちは冷たい水に浸かり、眼鏡に水しぶきがかかって前が見えなくなった。僕はロングホーンの体に必死でしがみついていた。馬が前足を上げると、僕たちは馬のお尻のほうまですべり落ちる。ロングホーンが笑いながら、大声で叫ぶ。「ハーッ」とか、「ヤーッ」とか。
 馬が後ろ足を上げると、今度は針金のようなたてがみの上にすべっていく。まるで怪物のように荒れ狂う馬が、身をよじり、後ろ足で立ち、跳ね回るたびに、ロングホーンの背中やわき腹の筋肉に力が入るのが皮膚の下から伝わってくる。馬の白目が見えた。僕は馬がかわいそうになった。それなのに、ふいに叫んでいた。「さあ、それでおしまいか! イャーハッ、ハッ、ハッ!」
 突然、馬の背中の緊張がほぐれ、馬は静かになった。水の中で身震いする馬の呼吸を、内ももの下に感じた。
 ロングホーンは顔にはりついていた黒髪をかきあげた。動物の骨で作った赤い半月型の耳飾りが揺れる。背中を濡らしていた水が乾いていく。つんつんと立った草が、斜めに刺さった矢のような影を作る。
「一緒だといい仕事ができるな、マジック・アイズ」ロングホーンは振り返って笑った。そして、かかとで馬の横腹を優しく蹴った。僕たちは川から上がった。「ちょっとこいつを走らせようか、マジック・アイズ。どうだ? 風に乗ってる気分になるぞ」
 ロングホーンは僕の返事を待たず、さっきよりもう少し強く馬のわき腹を蹴った。ロングホーンの髪が僕の顔にかかる。草原が緑や黄色に旋回する。僕たちはしばらく川べりの背の低い草の原を進み、やがて方向を変えてキャンプにたどり着いた。そこは大きな集落だった。テントがあちこちにたてられ、そこに犬や子どもがあふれている。男たちはたばこをふかし、赤ん坊ははいまわり、女たちは動物の革をなめし、小さな子どもたちはおもちゃの馬で遊んでいる。
 僕たちは、キャンプの中を回った。ロングホーンは雄たけびをあげ、馬は芝生を蹴って走る。みんなが僕たちを見る。ふいにロングホーンが手綱をぐいと引いた。馬は突然止まり、後ろ足で立ちあがる。僕はそのまますべり落ちそうだった。ひとりの男がテントから出てきて、僕たちを静かに見た。
 馬は前足を下ろして四本の足で立ち、みだれた息を整えていった。男は、威厳に満ちた態度でゆっくりを口を開いた。「息子よ。よくやった」男が馬に手を伸ばした。ロングホーンが、自分の手を男の手に重ねる。ふたりはしばらく、無言で見つめ合っていた。ほほ笑みも何もないが、ふたりの間に深い絆があるのがわかった。それから僕たちはキャンプを離れ、川に戻った。僕のセーターとシャツと靴と冬用の靴下が、まるで死んだ人間の服が散らばっているように、脱ぎ捨てられたままになっていた。
 僕はのろのろとそれらを拾って身につけていった。服を着終わったとき、太陽がかすんできた。ジェフリー・パーカーの世界に帰る時間なのだと思った。僕は振り返って、馬にまたがったロングホーンを見た。太陽の光が、ロングホーンの顔に反射していた。
 何か言おうとしたのだけど、急に目の前に霧がかかってきた。そして気がつくと、壁に描かれた星の前にいた。星はのっぺりして平面だった。僕はしかたなく家路についたが、なんとなく違和感があった。胸もからっぽで平面なのだ。僕の中で何か大事なものが失われ、それはロングホーンに会うことで取り戻せる。そんな気がした。
 
 
 
 
 
 イカれシェーン
 
 僕が家に帰りついたとき、ちょうどおばあちゃんが、トレーを持って勝手口から入ってきた。「オキーフさんとこが大変なのよ。ジェフリー、ちょっとひとっ走り様子を見てきてくれるかい? そうしてくれれば、オキーフさんもすごく助かると思うんだけど」
 オキーフさんは、家を一軒はさんで隣に住んでいた。かなり年をとっていて、奥さんは数年前に亡くなっていた。おばあちゃんは、前にも僕に、様子を見にいくように言ったことがある。そのときは、行ってみると、オキーフさんはソファに座っていた。手が小刻みに震えていた。サイドテーブルには薬の箱がいくつも転がっていて、部屋は、かびのにおいと、洗っていない髪の毛のにおいと、年寄りの洋服のにおいがした。また行ってくれと言われて、一瞬、あのときの状況が頭をよぎった。
 おばあちゃんは、僕の気持ちを読んでいた。「人はね、ときには気が進まなくても、正しいことをしなくてはならないの。自分のしたいことばかりしているわけにはいかないんだよ」
 それから、表情が柔らかくなった。「夕食はミートパイだよ。フライドポテトもある」
 母さんの顔が思い浮かんだ。
 母さんは、自分の母親であるおばあちゃんに、顔はあまり似てなかったが、言うことがそっくりだった。昔近所に、僕の家で飼っている猫のことで文句を言う人がいた。猫が彼の庭のバラを荒らすと、わめきながら庭中を追いかけまわし、ものを投げつけ、死ぬほど恐がらせた。猫はあわてて道路に飛び出し、車に轢かれてしまったのだ。
 だけど、その人はそのあと急に老けこんだ。その人が店の前のベンチに腰かけていると、母さんはその人を車に乗せて家まで送ってあげたりしていた。そして言うのだ。「正しいことをしなくちゃね、ジェフリー。そうじゃなきゃ、世界は動いていかないでしょ」それから、おばあちゃんそっくりの厳しい目で見るのだ。
 僕は言った。「分かった。あとでオキーフさんとこに行ってみる」
 オーブンをのぞきこんでいたおばあちゃんは、腰に手をあてて体を起こした。「そうしてくれると思っていたよ。おまえは優しい子だね、ジェフリー」
 そのあと、僕は母さんのことを考えるのをやめた。何かいやなことを思い出しそうな気がしたからだ。
「おばあちゃん、今日は忙しかった?」
 おばあちゃんは、キッチンの椅子にどっかりと腰を下ろして言った。「わたしはいつも忙しいでしょ? いつもはつらつとしていなきゃね」大きな茶色のポットから紅茶を注ぎながら、横目でちらっと僕を見る。「ジェフリー、実はね、ダンスパーティーがあるんだよ。たしか、土曜日あたりだったと思うんだけど。アイビーと参加するつもりだけどね、ただ、アイビーじゃ相手できないスペシャルタイムがあってね」
「いやだよ」僕は言った。
「まだ何も言ってないじゃないか」
「おばあちゃんと一緒にダンスパーティーなんかに出るわけないだろ。かんべんしてよ。それに、土曜日は観測所に行く日だし」
「ああ、ジェフリー。なにも一晩中相手しろとは言ってないでしょ。スポットライトタイムがコンテストになっててね。曲が、カリビアン・フォックストロットなんだけど、ターンが続くから、小柄なアイビーじゃ厳しいのよ。おまえだったら……」
「いやだ」僕はもう一度言った。自分が思っているより大きな声を出してしまったらしい。ティースプーンをかちゃかちゃ動かしていたおばあちゃんが、思わず手を止めて眼鏡をかけ直し、上目づかいで僕を見た。
「無理強いはしないよ、ジェフリー。もし来たくなければそれでもいい。来てくれると嬉しいけどね。 午後のほんの一、二時間だけ、観測所にはそのあと行けばいいでしょ。女の子に会うチャンスだってできるし。どうしてもいやだっていうなら、それでもいいさ。おばあちゃんがアイビーとダンスして、方向転換のたびにウオノメを踏まれるだけの話だから」
 しゃべり終わる前に、おばあちゃんの勝ちは見えていた。
「考えとくよ」僕は言った。おばあちゃんはにっこり笑って嬉しそうに、僕の手をポンポンとたたいた。
 あのイカれシェーンだったら、自分のおばあちゃんとダンスに行ったりするだろうか。ロングホーンなら、どう思うだろうか。
 突然おばあちゃんが、びっくりするようなことを言った。「今日はズボンを濡らすようなことしたの?」
 僕は足元を見た。ズボンはすそがまくれあがり、しわくちゃで、じとっと湿っていた。
「覚えてないや」僕はそう言って肩をすくめた。おばあちゃんは、僕のうそを見抜いているようだったが、そのことには触れず、「もっと服を大事にしておくれ」とだけ言った。
 そのあと僕は二階に上がり、ワーグナーを大きな音で聴きながら手紙を書いた。
 
 お父さん、お母さん。
 元気にしてますか? たまには手紙をください。
 アフリカは遠すぎて、手紙も届かない感じですか? いま、そちらはどうですか?
 いつ帰ってきますか? 
 体に気をつけて。僕がいなくても淋しがらないで。
 愛をこめて。ジェフリーより。
 
 僕は手紙にひととおり目を通すと、自分の名前にアンダーラインを引いた。そして、一番下の引き出しの、切手帳の下に手紙を入れた。ほかのたくさんの手紙と一緒に。
 それから、音楽を止めてベッドに入った。目を閉じると、通りで見たあのインディアンが現れ、頭の奥でまばゆく光り続けた。そのうち、おばあちゃんが玄関の錠を閉める音がして、とんとんと階段を上ってくる足音がした。
 
 一時間目は数学だった。美術の授業と同じくらいいやだ。教師がびびり過ぎだからだ。生徒たちは教室の外で、押し合ったり突きあったり蹴りあったりしている。臭い足のにおいと風船ガムのにおいと、床洗剤のにおいが入りまじっている。
 僕はダレンと目を合わさないようにしていた。ダレンはカモを見つけては、頭突きを食らわせたり、「バカ面!」だの「イモ虫野郎!」などとわめいたりしている。やがて教室のドアが開き、僕たちは教室に入った。すると今日は、いつもと様子が違っていた。そこにはただ、金属製の机と注意書きがあるだけだった。
 
 数学の問題を解きましょう。
 ケンカをしないように。
 遊ばないように。
 わめかないように。
 いたずらをしないように。
 人の悪口は言わないように。
 ほかの生徒に迷惑をかけないように。
 コンパスや定規など、道具をちゃんと持ってきているか確認すること。
 
 教室に音楽が流れ始めた。特別な曲ではない。モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」だ。だけど、この曲を聴いていると落ち着く。なにか深いどろどろのぬかるみの中で身動きが取れないようなときに、透き通った水の音が耳を優しくなでていく感じだ。
 僕は席について音楽を聴いた。何人かはしかめっ面をしてお互い顔を見合わせてから、正面に不安そうな面持ちで立っているミス・シンクレアを見た。教室は静まり返った。小競り合いをしていたやつらもおとなしくなった。ダレンさえも、人の首根っこをつねるのをやめて静かに席に着き、胸の前で腕を組んで、怒ったような困ったような顔をしている。
 一、二分して音楽が止み、ミス・シンクレアが言った。「八組のみなさん、立派ですよ。今朝は声をはりあげずにすみました。みなさんがお行儀よくしているのを見るのは気持ちがいいです」
ミス・シンクレアがしゃべり終わると同時に、教室の後ろのほうからブツクサ言う声が聞こえた。ミシェル・モーガンが大声をあげた。「さっきの音楽はどういう意味だったの!」
 ミシェルは、この教師が何か気の利いた答えを言うのを待っていたようだが、ミス・シンクレアは黙ったままだった。ミシェルは肩をすくめて眉をよせた。「教師がちゃんと説明できないことに生徒が従うと思ってんの?」
 別の生徒が言った。「ただの茶番だったのさ!」そうして、にやにやしながら回りを見た。
 そこでミス・シンクレアは、またしくじってしまった。「発言するときは、先生と呼びなさい」
 ミシェルが言った。「はい、先生。かしこまりました」ほかの生徒もいっせいに笑って続けた。「はい、先生。かしこまりました」
 ミス・シンクレアの声はわずかに震え始め、必死で落ち着こうとしているようだった。生徒たちのざわめきを打ち消すように、定規で机をピシッと打ち、大声で言った。「さっきの曲を知っている人、いますか?」
 黙っていればよかったのに、僕はつい手をあげ、それに答えてしまった。「モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジーク」
 ミス・シンクレアは、僕が手品で鳩を出したみたいな顔で僕を見た。軽く受け流してくれればよかったのに、おおげさに驚いて言った。「すばらしい。ありがとう、ジェフリー、そのとおりです。クラッシックには詳しいの? それともただの偶然?」
 後ろで、ダレンがすっとんきょうな声を上げた。「すばらしい! ジェフリー、あなたはスターです!」
 ミス・シンクレアはにこにこしながら、期待して僕の答えを待っている様子だ。だけど僕は、この八組のやつらと一緒に過ごさなきゃならない生徒のひとりなのだ。僕は肩をすくめて、しかめっ面をしながら言った。「前に、なんか、ラジオで聞いたことがあったなあと思っただけで」
 ミス・シンクレアの顔が、曇っていくのが分かった。「そうだったの。それにしても、すばらしい記憶力だわ、ジェフリー」
 ふいに、ロングホーンの顔がはっきりと目の前に浮かんだ。笑って僕を友だちだと言ってくれた顔が。そのとき、僕の中でなにかが音を立ててくずれた。僕が友だちだなんて、ロングホーン。そんなの、ばかげているよ、悲しいよ。僕なんかより、人を軽蔑したような冷たい視線の、あのミシェル・モーガンのほうがまだ勇気がある。どこへ行こうと、僕は変われない。ほかの何者でもない、ただの、弱虫のジェフリー・パーカーでしかないのだ。
 授業の残りの時間は、ずっとうなだれたままで過ごした。幾何学の問題を解いていたとき、ミスター・ベイツが入ってきて、ミス・シンクレアに聞いた。「効果はあったかい?」「モーツァルトでもダメだったわ。効果なし。いつもと同じ、ひどいものだった」
 その日はそのあと、ずっとこんな調子だった。「よう、ジェフリー、どうだい、いい子ちゃんの気分は?」「まあ、ジェフリー、すばらしいわ!」こんなことばかり言われて過ごした。ミシェル・モーガンが最悪だった。「僕って、なんか、とってもおマヌケちゃん」何度も何度もそう言った。僕は顔をこわばらせたまま、前を直視していた。そのうちミシェルも飽きてきたようだ。だけど、そう言われているうちに、あの広告の宿題のことを思い出した。ばからしいプルーンジュースの広告だ。またクラスの笑いものになるのか。うんざりだ。
 家に帰ってからも、今アフリカにいたらどんなにいいだろう、とか、スペース・シャトルに乗って月に行きたい、とか思った。とにかく、ノッティンガムとダイム・ワトソン総合中等学校からのがれたかった。だからホックリー通りに向かい、壁の星を穴の開くほど見つめてみた。でもなにも起こらなかった。
 あのインディアンが僕の正体を見破って、もう永遠にロングホーンに会わせないようにしようと決めたのだと思った。

「ブレージング・スター」4 おばあちゃんとダンス~父さんを思い出す 

作・Lynne Markham       翻訳・崔 雅子


おばあちゃんとダンス
 
 次の日もうんざりだった。また父さんと母さんのことを思い出し、頭から離れなくなった。それはまるで、乾ききっていない傷口を押さえつけ、わざわざ痛みを広げるようなものだった。
 僕はふらふらと階段を下りていき、テーブルについた。「六文字で、『たいくつ』っていうような意味の言葉、思いつくかい?」おばあちゃんが顔を上げずに聞いた。クロスワードパズルか。
「さあ」僕はそう言って肩をすくめ、トーストを細かくちぎった。おばあちゃんがもどかしそうにもう一度聞いた。「考えてみておくれよ。これが分かんなきゃ、縦の四番も分からないじゃないか。暇なこと、とか、することがない、とか」
「手もちぶさた」僕は頭からっぽのまま言った。
「そうか、そうよ。当たったわ。おまえなら分ると思ってたよ。少し考えればね。ほら、昨日は間違えちゃっただろ。『ツンドラ』って書かなきゃいけないところを『ゴンドラ』って書いちゃったもんだから、『つらら』が『ごらら』なんて訳の分んない言葉になっちゃって。おや、ジェフリー。今日は本当に、どうかしたのかい?」
 おばあちゃんはめがねの上のほうから僕を見て、少しの間黙っていた。僕が答えずにいると、テーブルの上から手を伸ばして、僕の手の上にやさしく重ねた。おばあちゃんの手はあたたかくて気持ちよかった。
「またお父さんとお母さんのこと? それとも、昨日学校でなにかあったの?」
 一瞬、ミス・シンクレアのことを話そうかと思った。僕は、あんなふうに答えてよかったのだろうか、それとも、弱虫だったのだろうか。そして、父さんと母さんのことは? もし、僕が弱虫じゃなかったら、父さんと母さんはアフリカに旅立っていかなかっただろうか。それとも、僕を見限ってしまったから、父さんたちは行ってしまったのだろうか、あのインディアンみたいに。
「なんにもなかったよ」僕は不機嫌に答えた。
 おばあちゃんは優しく、僕の手をぎゅっと握ってくれた。暖かだった。「わかったよ。ジェフリー」そう言ってくれたけど、声の調子から、信じていないと分かった。
 そのあと、僕たちは買い物にいき、僕はおばあちゃんの重い買い物袋を持って歩いていた。すると、ミシェル・モーガンが家に帰るところにばったり会った。ミシェルは、一緒にいた友だちをひじで小突き、ふたりは振り返って僕を見て、声を上げて笑った。僕は顔が熱くなった。ふたりは目をそらして歩き始めた。あとでミシェルが、もう一度肩越しに振り返って僕を見た。その顔は、もう笑っていなかった。
 午後になって、僕たちは公民館にダンスに行った。僕はジーンズをはいていったが、おばあちゃんは何も言わなかった。おばあちゃんは、何かきらきら光るものが散りばめられたプリーツスカートをはいて、自分で編んだレースのブラウスを着ていた。公民館の前まで来たとき、おばあちゃんは僕の手をとって、おばあちゃんのお気に入りのグリーンのコートに寄り添わせた。「もう、おばあちゃんと背がかわらなくなったね、ジェフリー。今日は一緒に来てくれて嬉しいよ」
 ホールには、女の人がいっぱいいた。男の人と一緒の人もいる。
「あら、この若い男の子はあなたのお相手?」みんながおばあちゃんに聞いた。おばあちゃんはにこにこにしながら自慢げにうなずいている。みんなは椅子に腰を降ろして靴を脱ぎ、ダンスシューズのひもを結び始めた。
 僕は窓の外に目をやり、心臓が止まりそうになった。同じ学校の女生徒がいる。ゴールネットにシュートしようと、ジャンプしたりもみ合ったりしている。だけどすぐに、同じ学年の生徒ではないことに気づいた。たぶん、僕のことは知らないはずだ。
 僕は気を落ち着かせようと、壁の貼り紙に目を通した。『ここにほかの貼り紙をしないこと』。そこには、蘇生術の手順の図が掲示してあった。
 ダンス講師のベリルが、ホールにさぁっと入ってきた。満面の笑みがきらきらして、息がはずんでいた。
「皆さん、おそろいですね!」ベリル講師は大声で言った。そして、僕とおばあちゃんを見た。「あら、今日は女性からダンスの申し込みをしたくなりそうですよ」
 誰かが叫んだ。「君が申し込んでくれるなら、いつでも大歓迎さ!」ベリルは笑って冗談を飛ばしながら、すべるようにホールを回る。「ジョン、カーディガンを脱いじゃったら?」
ジョンが脱ぐと、ヒューッと口笛が聞こえた。「さあ皆さん、脱ぐものはみんな脱いじゃった?」ベリルが言った。冗談好きの誰かが、ラララーッと大声で「ストリッパー」のメロディーを口ずさむ。「あら、皆さん! ハロルドがいよいよネクタイを取るわよ!」とベリル。
 それから、ベリルが音楽をかけると、まるでマジックを見ているようだった。それまでざわざわしていた人たちがいっせいに背筋を伸ばして椅子に座り、静かになったのだ。誰もが、夢見るような目になった。まるで、現実を忘れ、若かりし日々に帰ったような。
 ベリルがデレクとダンスを始めた。「モネ・ワルツです」ハイヒールをはいた足がフロアを軽やかに舞う。ベリルが二周めに入ったとき、ほかのみんなもダンスに加わっていった。
 おばあちゃんは男役でアイビーと踊っていた。寸分の狂いもなく、みんなが音楽の同じリズムのところで同じように難しいステップを踏む。タイミングもばっちりだ。心地いい。ロングホーンと一緒にいるときみたいな気分だ。
 僕はほうっとため息をついた。ベリルがウインクを投げた。音楽が終わり、おばあちゃんが戻ってきた。「あとでスウィングタイムを一緒に踊らないかい。もしいやじゃなければ、だけど」
 このときまで、僕は足を組み、固く腕組みもしていた。たぶん表情も固かったに違いない。ところが、ふいにこう口にしてしまった。
「いいよ。もしおばあちゃんが踊りたいなら」
 次のダンスは、メイファイアのクイックステップ、それから、ゆっくりとしたリズムのソーンターだった。べリルが声を上げた。「ソーンターですよ。どうぞ、皆さん、ご一緒に、どうぞ!」
 ベリルは女性と踊っている。ターンをくり返し、優雅に手をしならせ、柔らかな、ゆっくりとしたメロディに合わせてハミングしている。その曲が終わるとベリルは、一緒に踊っていた女性を席に戻した。そして大きな声を上げた。「ベラはどこ? こないだみたいに体調不良じゃなきゃいいけど」
「今日は今日で血圧の具合がどうとか言ってたっけな」はげ頭の男性が言った。「来週はきっと大丈夫だよ、ベリル」
 そのあとティータイムになった。バーボンクッキーとカスタードクリームビスケットが出た。ベリルは扇子で顔を仰ぎながら、僕に話しかけてきた。「男性は途中でやめる人も多いけど、女性はよく続いてくれるわ。ここで友だちもできるし、積極的にもなれる。みんなが楽しんでいる様子を見ていると、私も幸せな気分になるの」ベリルはカスタードビスケットを一口食べて、僕のほうに少し体を近づけて言った。「おばあちゃんは、あなたのことが本当に自慢なのよ、ジェフリー」
 僕はもう一度窓の外を見た。ライトが消え、外は灰色の闇に包まれていた。ちょうど試合が終わり、帰途につく女学生たちの暗い影が上下している。ふいに口をついて出てきそうになった言葉がある。声が震えそうで、実際に言う勇気はなかったけど。「ベリル、君の家に行って、一緒に住むっていうのはどう?」
 ばか。どうしようもないな、ジェフリー。なに言おうとしてんだよ。
 ベリルほどの女性なら、本人がよほど強く望まない限り、ひとりになることはないだろう。男が放っておかないはずだ。
 僕はほかの言葉を思いつかず、黙っていた。ベリルが席を立った。「さあ、皆さん、十分休憩しましたね。それではそろそろ始めましょうか!」
 音楽が鳴り始めると、ベリルは楽しそうに笑い、手を打ち鳴らして言った。「トラブルの種はみんなどこかに置いてきちゃって!」
「私、連れてきちゃったわ!」ひとりの女性が自分の夫を指さして言い、みんなが声を上げて笑った。ヒョウ柄のブラウスを着た女性が続けた。「あら、じゃあ私が連れて帰ってあげてもいいわよ!」
 僕はおばあちゃんと踊った。シカモアのスウィングだった。足を踏み鳴らし、手を打ち鳴らし、「ホゥッ!」と声を上げる。おばあちゃんは輝く笑顔で頭を揺らし、ほほを赤く染め、曲に合わせて、「ハブ・ア・ドリンク・オン・ミー」を歌っている。それから、アイビーと踊った。アイビーは切なそうな顔で僕に言う。「あなたを見ていると、夫のスタンを思い出すわ」
 タンゴがかかったとき、おばあちゃんに、観測所に行くからと告げて、少し早めにホールを出た。ベリルの声が響いていた。「前にステップ。ウィスク。スロー。男性、ターン」ドアを出るとき、ベリルが手を振った。何人かの女性も投げキッスをくれた。
 ロングホーンに会うつもりだった。だけど、ホックリーに行き、星を見つめてもなにも起こらなかった。しばらく星を見つめ、待った。一度、ちかっと光ったけれど、すぐ暗くなった。僕は、観測所に向かった。
 ブライアンがテレビ室で映画を観ていた。
「やあ、ジェフリー。いまちょうど、星が生まれるところなんだ」ブライアンは僕に席を空けてくれた。画面には星が爆発する映像が流れていた。
 僕の目は、星にくぎづけになった。それからすぐ、ほかのものは見えなくなった。
 
 次の日の朝、僕は早くに目が覚めた。おばあちゃんは自分の部屋で「オンワード・クリスチャン・ソルジャーズ」を歌っている。日曜日はいつもそうだ。おばあちゃんの歌声が壁越しにふわふわと聞こえてくる。前にこうして歌っていたとき、偶然表(おもて)にいた伝道団体の楽団が伴奏をつけてくれたことがあった。おばあちゃんは「奇跡みたい」と、カーラーを巻いたまま、窓から身を乗り出して前よりも大きな声で歌いだした。
 今日は表は静かだった。僕はベッドを出て階段を降りていった。父さんと母さんがいたら、田舎のほうにドライブに行くのにな。僕たちはよくドライブに出た。父さんが「あそこに小高い丘があるだろう。昔の人のお墓の跡だよ、ジェフリー」と言うと、母さんが夢見るような声で「想像してみて、ジェフリー。私たちがこの世に生まれるずっと前にここに生を受けた人たちの軌跡なのよ。ロマンチックよね、そう思わない?」
 だけどいま、父さんと母さんはここにはいない。また手紙を書いてみようか。でもどうせ、返事もくれないんだ。それから僕は紅茶を入れ、おばあちゃんのお気に入りのバラの模様が入ったカップに注いだ。そしてカップを持っておばあちゃんの部屋に入った。
「ああ、おいしい。生き返ったよ、ジェフリー」おばあちゃんは、花柄のネグリジェを着たままゆっくりとベッドに腰を降ろし、カップの口から顔を上げて僕を見た。「ところで、今日はちょっと頼みがあるんだけど」
 入れ歯をはずしたおばあちゃんの顔はいつもよりふけて見えた。アイスクリームの笑顔が溶けてしまったみたいだ。僕は胸の奥に鈍い痛みを覚えた。恐れとか不安とかじゃなかった。家族の中で笑っている若くて健康的なベリルとおばあちゃんを比べてしまったことへの罪悪感だった。
「そう、どんなこと?」僕の声が、旋律をはずしたピアノの音のように大きく響いた。
「今日の午後、もしおまえがいやじゃなければ、カリビアン・フォックスフロットのタイミング合わせをしようと思ってね。踊りだしの雰囲気とか」
「いいよ」僕は向きを変えて一階に下りていき、紅茶を飲んだ。そして考えた。物事はなぜ、変化してしまうのだろう。僕は、物事がずっと同じ状態でいてくれるのが好きだ。自分がいまどこにいるのか、次に事がいつ起こるのか、だいたい分かるからだ。そりゃ、いつもいつも幸せを感じてばかりとはいかないだろうけど、少なくとも、自分の居場所みたいなものは感じていられる。天と地がひっくり返るようなことはそうそう起こらない。
 二階に上がり、プルーンジュースの宿題を取り出した。カーディガンを着た中年の男が二人いた。吹き出しにはこう書かれている。「体力がなくなってきた? 年を感じる? 一〇〇歳すぎたような気持ちは捨てよう。ふけてばかりはいられない。プルーンジュースを飲もう!」それから、同じ二人が今度は花を一輪口にくわえて、にっこりと笑う人たちがたくさんの部屋でタンゴを踊っている。「健康だ! 調子がいい! エネルギーがわいてくる! これが、ハーベストプルーンジュースの効果です! 一〇〇パーセント自然志向、お砂糖も入っていません。ハーベストプルーンジュースを飲んで、人生をもっと楽しもう!」
 まるでにきびで悩んでるやつにクレアラシルをあてがったみたいな広告だ。イカれシェーンがぼこぼこに殴ってくるに違いない。
 座ったまま、しばらくその広告をながめていると、ミス・ターナーにも八組のやつらにも腹が立ってきた。そして突然、まるで頭の中にかかっていた霧がぱっと晴れたように、ひとつの言葉が湧いてきた。あの、輝く(ブレージング)星(スター)を見る前は想像もしなかった言葉だ。
「やりたくないことは、やらなくていい!」
 僕は、違う広告を使おうと思った。マクドナルドやバーガーキングあたりにしよう。ミス・ターナーも僕に渡した広告をはっきりとは覚えていないだろう。もし覚えていたら、しらを切りとおしてうまくごまかせばいい。ほかのやつらもしていることだ。
 だけど、こんなことをうだうだ考えている自分がいやになる。ロングホーンの影響だろうか。はっきりと自分が変わってきたとは思わないが、なんとなく、皮膚の下で、なにか変な感覚がうずいていた。広告を破いてくずかごに捨て、今度はそのくずかごをかき回して破いた紙をまたテープで貼りあわせようとしたりして、そんな自分にうんざりする。このもやもやを断ち切ろうとホックリー通りに向かった。
 工場は閉まっていた。入り口の前には鉄の門扉がある。奥に星は見えるのに中に入れない。僕は門扉をがたがた鳴らしてそのまま帰った。
 おばあちゃんは夕食の支度をしていた。「ジェフリー、テーブルをセットして」おばあちゃんが言った。「そんな悲しそうな顔しなさんな。病気でもないのに」
 夕食をとりながら、おばあちゃんが言った。「教会に行こうと思ってたんだけど、新しい牧師がぶっ飛びすぎでね。先週はギターを弾いて、わたしたちに手拍子をさせるんだよ。教会であんな手拍子なんて、クリスチャンのすることじゃないよ」
 夕食のあと僕がお皿を洗っている間、おばあちゃんは、自分の部屋でベッドに横になっていた。「シング・サムシング・シンプル」の時間には起きて、紙とクシで作った笛で演奏している。しばらくして、今度は「ビューティフル・ドリーマー」と「アイ・オンリー・ハブ・アイズ・フォー・ユー」が聞こえてきた。おばあちゃんはため息をついて濡れた紙を置いた。「音階がうまく出せないよ。新しい入れ歯のせいだね。ちゃんと直ってなかった。まあ、こういうこともあるわね。さあそれじゃあ、例のフォックスフロットをやりましょうか。よろしくね。ジェフリー」
 リビングで、ソファを後ろにずらして場所を作った。おばあちゃんが言った。「音楽なしでやりましょう。段取りだけだから大丈夫ね」
 おばあちゃんは、まだエプロンをしていた。胸には、お皿とナイフの絵が「チーフ・ポット・ウォッシャー」という文字になっている。おばあちゃんの腰に右手を回すと、背中のエプロンの結び目に手が当たる。左手は、おばあちゃんにしっかり握られている。
「さあ、こうよ」おばあちゃんが言う。「スロー、スロー、クイッククイック、スロー、クイッククイック、一歩、ためて、ターン。フェザーフィニッシュ、そしてスリーステップ。そう。いいわ、ジェフリー。ここで私が三回ハミング、そして、あなたが出る」
 おばあちゃんがハミングしてから、僕はゆっくりと前に出た。そして、クイックステップを踏んでから、また一歩足を出した。ホバーのところでは、おばあちゃんの切れのいい声が飛ぶ。「ホバーよ、ジェフリー、ためて! 止まっちゃうんじゃないの! ダンスなのよ、機械を動かしてるんじゃないでしょ。さあ、最後のステップのところからもう一度」
 僕たちは、もう一度やり直した。僕はターンを間違えた。「しまいにおばあちゃんをぶっ倒す気? さあ、もう一度、集中して」
「おばあちゃんが靴をはいててくれたら、もう少しましにできるのにな」僕が言うと、おばあちゃんは鼻をならしてちょっと威圧的に言った。「ちゃんとおばあちゃんの言うことを聞いていればできるはずよ」
 三十分後、おばあちゃんはやっと僕の手を離してくれた。「なんとか形にはなってきたわね、ジェフリー。明日もう一度最初から通しましょう。こつこつ続けて、復習して。ここをちゃんとマスターしたら、次のステップに移りましょう。ああ、ジェフリー。ガーラ・ナイトが楽しみね。私たちがどんなペアに仕上がるか」 
 夕食のあと、僕は早々に二階に上がった。疲れてたし、うんざりしてたし、人生の終止点みたいな日って感じがしてたからだ。父さんがいたら、この気持ちを聞いてもらうのに。父さんは、話の上手な人だった。いろいろなことを、僕に分かりやすく説明してくれた。ブラックホールは、星の核が崩壊して死ぬときにできるもので、重力があまりに強大になるため、何もかもを飲み込んでしまう、たとえば、光のように抽象的なものでさえもブラックホールからは逃れられないんだ、とか、そんなことを教えてくれた。
 僕は音楽をかけた。ハイドンの「天地創造」から「カオス」を選び、ベッドに入った。音楽を流しっぱなしにして、窓の外のジュピターを見上げた。そして、ここじゃないどこか別の場所にいられたらと思った。父さんと母さんと一緒にアフリカにいて、南十字星を見上げていられたら。そう思った。
 

父さんを思い出す
 
 月曜日、数学の担任は休みだった。代理の教師は背が低くてやせていて、濃い色の髪をしていた。
「あなた、誰?」ミシェル・モーガンが聞いた。
「誰でもいいでしょ、あなたには関係ないわ」教師が答えた。「さあ、ワークブックを出して、静かに続きをやって」
「おーい、先生がなんか言ってるぜ!」誰かがふざけて叫んだ。教師は声のしたほうをしばらく冷たい目でにらんでいた。
 僕は代数の問題をしようと思ったけど集中できない。それで壁の表に目を移した。
 小さな子どもなら喜びそうな図表だ。タイトル欄に「シンクレア先生の、よくできましたスタンプ表」と書かれている。下に絵があって、どの絵がどういう意味を示すのかが説明されている。ネコが二匹の絵の横には、「完ぺきだニャン」。ハチの大群は、「もう少しがんばって働きバチ」。そして、親指を立てた絵は、「超グッドのグググ~!」
 教師は、女生徒から没収した雑誌をぱらぱらとめくっている。髪の長い女の子の写真と、見出しに「今日は初めてのデート。さあ、彼にはどこまで許しちゃう?」とあるのがちらっと見える。教師は雑誌をめくりながら、ときどき顔を上げて、「ちゃんと席について! 質問があるときは手を上げて!」などと叫んでいる。
 壁の図表の横に、もう一つ注意書きがあった。「条項・ほかの生徒のじゃまをしたり、迷惑をかけたりした者は、教室を出ていくこと」
 僕は、数学の問題をやっていた。だけど、ダレンが後ろからずっと椅子を蹴っている。変な顔をして小さな声で「ひけらかし野郎のクラッシックバカは……は~い、僕です、ジェフリーです」と言い続けていた。
 数学のあと、英語のレッスンが始まるまでのあいだ、シャロン・デーリーが仲間とたむろしてにやにやこっちを見ていたと思うと、中の一人がつかつかとやってきて、僕の眼鏡を指ではじいて言った。「何を隠そう、ぼくこそはクラッシックばかのジェフリーです」それが始まりの合図だった。たちまち、ほかのやつらもばか声をはりあげて歌いだした。「何を隠そう、ぼくこそは、クラッシックばかのジェフリーです、ラ・ラ・ラ~」
 英語の時間、紙切れが教室中を回っていた。「おばあちゃんのせいでジェフリーは、ふぬけのまぬけになっちゃった。あのごわごわセーター、お願いしたら僕にも編んでくれるかなあ」と書かれた紙切れが。
 四時になって、僕は工場に行き、星をにらんだ。
 今度はすっと行けた。集中するまでもなかった。
 僕は丘の上に立っていた。ひざ元まで雪が積もっている。ロングホーンが目の前にいた。
「マジック・アイズ! 会いたいと思ってたら、来てくれた!」ロングホーンは、前よりも厚着をしていた。すねの部分も布でくるんでいたし、ケープみたいなのもかぶっていた。だからだろうか、前にあったときよりまた大きくなったように見えた。
「おう」僕はぎくしゃくと返事をした。寒くて身が縮むようだ。空気も張って、寒さできーんと音がしそうな気がする。
 ロングホーンは笑って、雪の中をざくざくと僕に向かって歩いてきた。ケープには、月と星がかたどられた飾りがついている。ロングホーンは僕の肩に両手を回した。学校ではこんなこと、絶対誰もしない。
「来て! 見てもらいたいものがあるんだ。君のために作った。ちょうど作り終わったところだ。君を待ってた。一緒に乗ろう」
 僕の肩に回したロングホーンの腕に力が入る。雪の丘をぐいぐいと引っぱられていく。丘のてっぺんまで来た。モミの木々にも雪が積もり、枝がしなだれている。そこに雪の小山があった。ロングホーンが雪をはらうと、ソリのようなものが姿を現した。大きな動物のろっ骨でできている。バッファローだろうか。ソリの骨格は茶色の革で覆われていた。前面には生皮でできた手綱がかけられ、ソリの後ろには、動物の尻尾がそのまま突き出ている。
「どうだ! 今日はこれで思いっきり遊ぼう。おっと、その前に調子を見なきゃな」ロングホーンは生皮の手綱を取ると、ソリを雪の上でぐるぐる回し始めた。雪が舞い上がり雲のように浮かんで輪になる。笑い声を上げるロングホーンの息も、冷たい空気の中で白い煙になってもくもくと上がる。それからロングホーンはソリに飛び乗り、革のシートの上に足を投げ出してふんぞり返った。
「さあ、マジック・アイズ、君も乗れ!」
 僕は眼鏡を取って熱い息を吹きかけた。レンズの上に霜ができかかっていたのを取るためと、心の準備をするためだった。また臆病風に吹かれ始めたのだ。その上、寒くてほとんど息もできないほどだった。肺に入った冷気が中で凍っていくみたいだ。だけど、乗らないなんて言えば、今度こそ、ロングホーンに見捨てられる。
 僕はソリに乗り、僕たちは出発した。ソリが風を切って走る。雪で前も見えない。木々の輪郭が飛ぶように通り過ぎていく。ソリの骨格がビューッと冷気を切り裂く音を立てる。ロングホーンは大声で笑い、叫び声を上げている。突然、恐い気持ちが消えた。恐怖心が振り落とされてしまったのか。寒ささえ感じなくなった。僕は体をソリの背にもたせかけて足を突っ張った。力を入れて、手綱を握り直す。ソリはどんどん速くなり、まるで飛んでいるみたいだ。いきなり、太陽が顔を出す。雪原が山火事のように赤く染まる。木々も山頂も燃えるような深紅色になる。
 またものが見えるようになると、僕たちは、谷にいた。ふいに物音がしなくなる。ロングホーンも黙っている。背も急に伸びたように見える。太陽は再び沈み、木々の輪郭が薄暗闇の中で灰色にぼやけていく。行く手に立っているロングホーンのお父さんを見落とすところだった。お父さんの後ろで子どもたちが遊んでいる。動物の革を引きずり、代わりばんこに上に乗ったりしている。でも声は聞こえない。ロングホーンのお父さんも、自身の静けさを抱いている気がした。
 僕たちはお父さんの目の前でソリを止めた。お父さんはじっと立っている。静かな目で僕たちをしばらく見ていた。「父さん」ロングホーンが呼びかけた。笑顔はないが、敬意がこもっていた。周りで木々のきしむ音がする。ふわふわとやわらかそうな雪が静かに降り始める。ゆっくりと、お父さんが頭を傾けていった。すると、なんだか不思議なものがやってきた。力が、体の中に入ってきたような感じがした。今度はロングホーンが、おじぎのように頭を下げた。雪がどんどん降ってくる。雪は僕たちの周りで舞い上がり旋回し、吹雪いてきた。僕は再び斜面を疾走していった。僕はロングホーンにかじりついた。恐くて寒かった。
 
 僕は星の絵の前に立っていた。びしょ濡れの服が体にはりついている。おばあちゃんになんて言おう。だけど家に帰ったら、幸いおばあちゃんはいなかった。オキーフさんのところに夕食を運んで行ったのだ。僕は別の服に着替えて、学校のバッグや何かをヒーターに乗せた。
 おばあちゃんが帰ってきた。元気がない。「オキーフさんの娘さん、一度も来ないんだよ」そう言って首を振り、唇をとがらせる。「遠くに住んでるからっていうのは理由にならないよ。自分の親だもの、面倒見るのは当然。みんな、大事なことを忘れてるよ」
 おばあちゃんはポテトを火にかけて言った。「五分でできるからね、ジェフリー。さあ、気を取り直して、例のフォックスフロットをやってみないかい? ポテトができあがるまでの間」
 おばあちゃんは「ハロー・メアリー・ロー」をかけ、僕たちは、最初のステップを踊った。おばあちゃんが声を上げる「並んでスリーステップだよ、ジェフリー。それから忘れないで。あなたは女性をリードしてるのよ。元気のいい馬車馬を引っぱってるんじゃないんだから」
 そのあと僕はリビングを離れ、宿題をしに自分の部屋に戻った。
 「天地創造」の第三番をかけて、あの広告の宿題のことを考えた。やっぱりマクドナルドの広告を使うのはよそう。ミシェルたちなら、ビッグマックだってなにかの冗談の種にして、僕をからかいかねない。ミシェルはよくそんな冗談を言う。あいつが笑うのは、そういうときだけだ。だけど、笑ったあいつの顔は、いつもと違って見える。誰かが、あいつの両親は離婚して、あいつはほとんど一人で住んでいると言っていた。これは笑えることじゃないだろう。前に、あいつが笑うのを見たことがある。「天地創造」の一番いい場面で、アダムがこう歌いだしたときだ。「一番鮮やかに光る星よ。今日の日を美しく輝かせておくれ」
 
 次の日、おばあちゃんは病気になった。僕が下に降りていったときは起きていたが、少し咳をしていて、咳のあとにのどがゼイゼイ鳴っていた。その音を聞いたとき、胃に石が詰まったような気分になった。
「ジェフリー、オートミールがあるよ」
「寝てなきゃだめだよ、おばあちゃん。今日は僕、学校休んでおばあちゃんを看(み)るから」
「そんなことしなくていいよ」おばあちゃんはちょっと怒ったようにチッチッと舌打ちをして、ティーポットの保温カバーを取った。茶色のポットに手のひらをあてて温度を確かめている。おばあちゃんの手の指はいつもより細く、結婚指輪がゆるいような気がした。いつもは指輪が指に埋まって、ピンクの石けんカスが指輪のふちにたまっているのに。僕はまた心配になった。たった一晩で、人ってそんなにやせるものなのかな。もしそうなら、そのあとには、もっと悪いことが起こるかもしれない。おばあちゃんはどんどん具合が悪くなって、僕はここにいなくて、気づいてあげられなくて。もしも、もしもおばあちゃんが……。
「ジェフリー!」おばあちゃんがきつい一声を上げた。「さっさと朝ごはん食べちゃって、暗いこと考えるのやめなさい。今日は遅れてるんだよ。休むなんて言わないで。さあ、ポットのお茶はまだあったかいわよ。変なこと考えるのやめて急ぎなさい!」
 おばあちゃんは台所に入っていった。僕はオートミールを食べながら、おばあちゃんに申し訳ないなと思っていた。おばあちゃんは、平屋建ての住宅に住みたいんじゃないんだろうか。あの、コルウィック通りに整列しているみたいな新しい平屋建てに。全部の部屋に電話線が引いてあるから、手伝ってほしいときにはどの部屋からでも電話ができる。セントラルヒーティング完備で、暖炉には、プラスチックの石炭が、本当に燃えているように赤々と明かりを灯している。
「バスタブには、体を持ち上げてくれる装置もついてるんだよ。節々が痛いときやなんかには便利だねえ。それから、窓は二重ガラスになってるから、外の騒音も聞こえない。庭は広くてベンチも置ける。それに、トイレの便座だって高めなんだよ。アイビーは、順番待ちの表に名前を書いたわ」
 二、三週間前、その住宅を見てきたおばあちゃんが僕に話してくれた。それ以来僕は、おばあちゃんの足手まといになっているような気がしていた。もし僕がいなかったら、おばあちゃんも名前を書いたんじゃないんだろうか。管理人がいる平屋建て住宅に住んで、持ち上げ装置つきのバスタブにつかって、ダンス仲間とイーストボーンに遊びに行ったりできたんじゃないんだろうか。
 僕はため息をついた。おばあちゃんが言った。「しゃきっとなさい! それから、今日はまっすぐ帰ってくるんだよ。一つ二つ頼みたいことがあるからね。さあ、用意はできた? じゃあ行っておいで。走ったほうがいいよ」
 学校はあいかわらずだった。イカれシェーンがまた来ていたし、食品技術とかいう、サラダを作るだけの授業があった。
「葉っぱものを底に敷いてから、その上にほかの材料を乗せていこう。おいしそうに見えるように、きれいに盛りつけるんだよ。それから……」
 ミスター・ジョーンズがそこまで言ったとき、トマトがうなりを上げて飛んできて、彼の耳をかすめた。誰が投げたのか。ミシェルのようだ。例の笑い声を上げると、今度はシェーンに向かってトマトを投げた。シェーンは面白がって、いくつものトマトを回りに向かって投げていった。まもなく、いろいろなものが教室中をびゅんびゅん飛び交っていった。ミスター・ジョーンズは授業を中断した。「もう分かった。もうじゅうぶんだろ、やめなさい。シェーン、今日の態度は全然なってないぞ」
 問題なのは、ここでは何も学べないということだ。そのことに誰も気づいていないし、誰も気にしてもいない。僕は席についたまま、おばあちゃんのことを心配していた。放課後になるまでずっと、おばあちゃんのことを考えていた。
 家に帰ると、中はしーんとしていた。テーブルの上には、イワシのサンドイッチが半分と、全粒粉のビスケットが二つに割られたままのものが置きっぱなしになっていた。
「おばあちゃん?」
「二階だよ、ジェフリー」
 おばあちゃんは、緑色の布ケットをかぶって寝ていた。たぶん僕の顔色が変わったんだろう。おばあちゃんは少しいらいらした様子で言った。「ちょっと休んでいただけだよ。もうこんな時間だったなんて気がつかなかっただけさ。悪いけど、ブーツ薬局に行ってセキ止め薬を買ってきてくれるかい? 黄色のやつだよ。店の女の子が知ってると思うけど、そうそう、店がすすめるセキ止めを買うんじゃないよ。あれはタールみたいなにおいがするからね。あんなの、飲めたものじゃない」
 僕はさっそく家を出た。十月の夜はすぐにやってくる。肌寒い。北斗七星が見えた。目をこらせば左から二番目の星ミザルが見えるかもしれない。その隣に寄り添うようにもう一つ、アルコルという小さな星もある。二重星だ。僕は立ち止まって星たちのある方角を見上げた。ミザルは望遠鏡でなければ見えない。空の星を見上げていると、父さんのことを思い出す。
 しばらく星を見てから、僕はブーツ薬局に急いだ。店の女の人が言った。「おばあちゃんのこと、気をつけてあげてね。最近、インフルエンザが流行ってるから」
 家に帰ると、おばあちゃんは台所に立っていた。「今夜はサラダとベイクドポテトだけなんだけどね。オキーフさんのところには、おまえが持っていってくれるかい? 私の風邪をうつしちゃ悪いからね」
 おばあちゃんはオキーフさんの夕食をトレイに乗せ、それにチェック柄のふきんをかけて僕に手渡した。「私がよろしく言っといたって、忘れずに伝えておくれ。それから、薬が効いて具合がよくなったら、明日は私が持っていくからって」
 僕は路地を行き、オキーフさんちの勝手口のほうに回った。「ジェフリーです。今日はおばあちゃん具合がよくなくて、僕が来ました」
 僕は暗い台所に入っていった。ガスと、古い夕食のにおいがした。長いズボン下が、シンクの近くにぶらさがっている。
「こっちだよ、ジェフリー」
 オキーフさんは、僕が前に来たときに見たのと同じところに座っていた。あれから全然動いてないんじゃないかと思うくらいだ。服さえあのときと同じだった。古いツイードのズボンに、ジャケットにシャツで、えりまきをしている。僕がトレイを手渡すと、オキーフさんは震える手でそれを受け取った。手の甲には茶色のしみがいくつもあった。
「君のおばあちゃんは、すばらしい人だよ」オキーフさんが言った。「おばあちゃんをしっかり手伝ってあげておくれ」
 横のテーブルの上は、前に来たときと同じようにたくさんの瓶で埋まっていた。僕は夕食にかけていたふきんを取ると、急いで後ずさりした。
「おばあちゃんが、明日はたぶん来られるって言ってました」
「ありがとう。もし明日も具合が悪かったら、わしは一人でなんとかやれるから大丈夫だって伝えてもらえるかな」
 オキーフさんは、ナイフとフォークを手に取った。僕は暗い台所から表に出た。
 おばあちゃんも僕も、その日は早めに床についた。カリビアン・フォックスフロットの練習もしなかった。こんなことなら、おばあちゃんに檄を飛ばされながら練習したほうがいいなと思った。
 おばあちゃんの心配をしていると、どんどん不安になってくる。だから、ロングホーンのことを考えることにした。ロングホーンは、僕の中に何を見ているのだろうか。彼は僕の理想だった。僕がなりたくてもなれない理想そのものだった。それから、また父さんのことを思い出した。ミザルを一緒に観ているとき、父さんが言った。「覚えておきなさい、ジェフリー。おまえは輝く星だ。父さんと母さんにとっておまえは、あの二重星なんだよ」
 

「ブレージング・スター」 5  獲物~強い男

作・Lynne Markham       翻訳・崔 雅子

獲物
 
 次の日、学校で変なことが起こった。どうも僕は、何か曲をハミングしていたようだ。ダレンが廊下をやってきて、僕に頭突きを食らわそうとした。頭を突き出しながら、やつは「調子乗んな、まぬけ!」と言った。頭が当たる瞬間、僕はついこぶしを突き出して、やつを一発殴った。やつは後ろに飛んで、背中を壁に打ちつけた。ケガはなかった。ただ驚いていた。ところがミスター・ペータースに見つかってしまい、僕は授業中、廊下に立たされた。
 廊下にいるのは、そう悪くはなかった。教室の中よりましだった。静かだし、言いがかりをつけてくるやつもいない。そのうち、立たされているやつが四人になった。僕たちはチューインガムとクリスプ菓子をかけてポーカーをした。僕が勝った。まぬけのふりをしてだしぬいてやった。
 あとでダレンが言った。「今度はぶっつぶすからな!」よし、じゃあやってみろよ。僕も殴り返してやる。そしてまた捕まって廊下に出されてせいぜい楽しむよ。ところがダレンは、ふらふらしながらどこかへ行ってしまった。僕はクリスプを食べながら思った。僕の勝ちだな。あいつはバカだから、あんまり長くものを憶えていられないんだ。
 放課後、僕はおばあちゃんが心配でまっすぐに家に帰った。咳は残っていたけれど、昨日より少なくなっている。オキーフさんに夕食を届けて、自分たちの夕食までの時間、フォックスフロットのステップを少し踏んでみた。
「逆回りがよくなったよ、ジェフリー。でもフェザリングは、少しコースを外れてる」
 夕食のあと、電話がかかってきた。観測所のブライアンからだった。「大丈夫かい? ジェフリー。こないだの土曜日会えなかったからさ」
「僕は大丈夫。おばあちゃんが風邪だったんだ」
「今夜は昴(プレイアデス)がよく見えるよ。僕たちは行くけど、そっちに迎えに行こうか?」
僕が断ろうとしたら、おばあちゃんが割り込んできた。「誰から? ブライアンかい? 誘われたんなら、行くってお言い。家でつまらないことうだうだ心配してるよりずっといいさ」
七時にブライアンが車で迎えに来た。僕は車に乗り込んだ。二層の羊毛マフラーをぐるぐる巻きにし、去年の誕生日におばあちゃんが編んでくれた縞模様の帽子をかぶった。車の中でブライアンが言った。「久しぶり」ケネスがうなずいて、モーリーンもにこっと笑った。車は街をぬけ、林をぬけて丘を登り、観測ドームに近づいていった。
 観測ドームが見えたとき、胃がうずいた。不安になったときに起こるそれではなく、待ち遠しかったものがもうすぐ目の前に現れると思うときの、ときめきに近いものだった。車を降りると、遠くにノッティンガムの街明かりが、黄色や白に淡くきらめいていた。僕たちは黙ってドームまで歩き、かぎを開けた。
「コーヒーでいいかい?」ブライアンが聞いた。
 僕はうなずいた。ブライアンは、観測所に備えつけの小さなキッチンに入っていき、やがて湯気の立ったマグカップを四つ持って出てきた。それから音楽をかけた。僕は、みんながフードつきのプルオーバーと、僕と同じようなウールの帽子をかぶっているのを見て安心した。ブライアンがかけてくれたのは、バッハのチェロ組曲だった。モーリーンとケネスもうなずいて、笑って言った。「うん、いいね、雰囲気ぴったり。僕たちもこの曲好きだよ、ブライアン」
 ブライアンは、緑色のセーターをズボンの中に入れて着ていた。夕食のしみがついている。そではほつれて擦り切れていた。気にする様子もなく、音楽に耳を傾け、リズムに合わせて首を振っている。ブライアンと一緒のときは、余計な会話はいらなかった。
 僕たちは、巨大な白いゴルフボールを半分にしたようなドームに上がっていった。ブライアンがスイッチを押すと、ルーフが下がりだす。するとたちまち魔法のような世界が現れる。見えるのは、広がる夜空と満天の星。聞こえるのはバッハだけ。
「冬のさきがけだ」ケネスが、双眼鏡で空を見ながら言った。「プレアデス星団が全部見える。七つ全部」
 ケネスは僕に双眼鏡を手渡してくれた。僕は東の空を見た。プレイアデスの星々が、宝石箱を開けたようにきらめいていた。星を観ることは、過去を観ることだと言った。だから、宇宙は偉大だと感じるのだろう。一番思い出したい過去のひと時に帰ることができるから。
僕は、父さんと母さんが出ていった日のことは思い出さないようにしようと思った。一人でリビングにいたあのとき、家の中は、見たこともない家具であふれているような気がした。椅子は前にすわった記憶がない。絵も見たことがない。壁やドアでさえ、違う家のもののようだった。星を観ているときだけだった。星を観ているときだけ、いい思い出がちゃんと現れてくれた。
プレイアデスを観ていると、父さんたちと過ごした部屋が目の前に現れた。母さんは、頭の体操になるからとジグソーパズルをやっている。父さんは、骨を並べながらぶつぶつ独り言を言っている。ただそれだけだった。夏だった。日差しが少しずつ柔らかになるころだ。何をするわけでもなく、時間が優しく過ぎていく。
「ジェフリー、だいじょうぶかい?」
 ブライアンは大望遠鏡の角度を少し上向きに修正した。「照準を合わせたよ。素晴しい輝きだ。観てみるかい?」
 モーリーンは望遠鏡を覗き込み、ため息をついた。「こんなにきれいなの、初めてよ」
 モーリーンは少し長めに観てから台を降りた。次にケネスが上がった。「すばらしい」ケネスが言った。「七番目の星も見える。普通は六つしか見えないのに。すごいよ。ジェフリー、来てごらん。もうこんなプレイアデスは見られないよ」
 七番目の星が見えた。きらきらと銀色に輝いていた。青い光が後光のように星を取り巻いている。ほこりが光に反射しているだけだと分かっていても、涙で目の奥が熱くなる。
 階下ではバッハが響いている。青い後光は目の前で紫色に変わり、やがて赤に、そして深紅色に変わっていき、光の粉を散らしている。鳥肌が立った。
 そのときだ。インディアンが現れた。無垢な笑顔のロングホーンではなく、いつか舗道で見たインディアンだった。大きくて恐かった。赤い縞(しま)が描かれた顔とぎらぎら光る目で、空の上から僕を見おろしていた。一瞬、目が合った。
 後ろでブライアンの声がした。言葉は聞こえず、ただの音みたいにブライアンの声が耳に響いた。と同時に、インディアンの姿が空の闇に消えていく。深紅色の光が赤に、そして紫になり青に変わって、あとには七番目の星が光っていた。
「どうだった? 良かっただろう?」ブライアンが言った。僕は展望の台から降りた。みんなは満足げにマグカップを手の中で揺らしていた。
 
 ベッドで横になっていたとき、またインディアンが現れた。頭の中に。
 それから、ロングホーンに初めて会ったときのことを思い出した。僕はあのとき、ロングホーンに「君のこと知らない」と言った。
 そしたら、ロングホーンが静かに言ったんだ。「いや、知ってるよ」
 
 朝、父さんと母さんに手紙を書いた。
 
 お父さん、お母さん
 そっちはどうですか? きっと暑いでしょうね。
でも、こっちはとても寒いです。もうすぐ、お父さんたちに会えますよね? お父さんが気に入りそうなレコードを買いました。
帰ってきたときに、一緒に聞きましょう。
 お元気で。
                                 ジェフリーより
 
 僕がその手紙を机の上に置いていたら、おばあちゃんがあとで部屋に来てそれを見つけた。「ジェフリーったら」そう言って困ったような顔をした。
「出さないから」僕は不機嫌にいった。「イラつかないでよ」
「イラつくな、だって? そんな言い方ないだろう? ジェフリー、もの言いっていうのは大事なんだよ」
 そんなふうに言っているうちに、おばあちゃんは持ち直してきたようだ。僕は手紙を引き出しに入れ、ピシャッと閉めた。
 学校では、ダレンが後ろから椅子を押してきたから、机ごと押し返してやった。
「わあ! いたたっ。先生!」ダレンが叫んだ。
「どうかしましたか?」ミス・ターナーが言った。
「ジェフリーが椅子を押し付けてきます!」
「そうなんですか? ジェフリー」
「ええ」僕は冷たく言い放った。「ダレンがまた椅子を押してきたら、もう一度やり返すかもしれません」
「おおー、 ジェフリー君」何人かが驚いたように声を上げた。
 ミシェルがこっちを見た。にこりと笑顔を見せかけたが、誰に笑いかけてるのかを思い出したようで、その笑顔はすぐに消えた。
 ミス・ターナーは、僕の態度にとまどったようだったが「行儀よくしてください」とだけ言った。
 四時。僕はまっすぐ家に帰った。おばあちゃんはちょうどオキーフさんの家から戻ったところだった。
「ミンチとマッシュポテトのパイを届けてきたよ」おばあちゃんは唇をすぼめて首を横に振った。「オキーフさん、前ほどよくなくて。いくらケアワーカーが来てくれたって、やっぱり、自分の家族が見てくれるのとは違うから」
 そのあと、僕たちは夕食を食べた。おばあちゃんが言う。「ガーラ・ナイトはブッフェだから、たくさんのごちそうが並ぶ。料理はスクリムショーのだよ。氷の彫刻だってある。素敵だろうね。テーブルの上にはキャンドルが飾られる。それからねジェフリー、ダンスが一つ一つ紹介されていって、それぞれに賞があるんだよ。きちんとした身なりの生バンドも入るし、パーティーの最後には、たくさんの風船が上から落ちてくる演出もある」
 夕食が終わると、おばあちゃんがまた言った。「さあ、ジェフリー。こないだの続きを稽古しよう」
 おばあちゃんはテープをかけ、金のヒモ付きのきらきら靴をはいた。すると急にイメージが変わる。背も高く見えるが、それだけじゃない。昔おじいちゃんが「愛しい僕のプリンセス」と言ったというのも、分かるような気がする。
 僕たちは「ハロー・メアリー・ルー」をもう一度練習した。「右よ。右足をバックさせる。中央に向けて斜めに……スロー・クイッククイック。ああ、ジェフリー、もっとシャープにできない?」
 だけど十分もすると、おばあちゃんは息切れしてきた。胸のあたりがぜいぜい言い始めたのが分かる。「薬を飲んだほうがよさそうだね。それからジェフリー、そんな顔はやめなさい。ただの咳だよ。死んじゃうわけじゃないんだから」
 おばあちゃんは座り、僕は食器を洗った。リビングに戻っても、座る気がしない。ヒーターのガスの火をもてあそんだり、端っこのすり切れた雑誌をぱらぱらめくったりしていた。目には見えないけれど、何か予感があった。トイレに何度も行った。手の指が膝の上で、ピアノを弾くようにリズムを取ってしまう。
 家にじっとしていられなくなり、工場に行こうと飛び出した。ホックリー通りで、ロングホーンのことを思い浮かべた。すると、突然、彼が現れた。
 
 ロングホーンは、馬の横に立っていた。馬には、渦巻きや線がいっぱい描かれている。回りには人がたくさんいた。ロングホーンのお父さんも、堂々とした様子で自分の馬の横に立っていた。頭には羽根が三枚飾られている。一枚は少し欠けている。お父さんは、丘の一部と見まごうほど、動かず、静かに立っていた。十数人の男たちが周りを囲んでいる。何やら熱心に目を凝らし、物音を聞いている。上半身は裸で、矢筒を背負っている。矢筒には、二十本ほどの矢が刺さっている。男たちの後ろには、女たちが何人かいた。控えの馬を引き、あまりしゃべらず、表情も少し固い。
 ロングホーンは、その切れ長の黒い瞳で僕を見たが、すぐにさっきまでと同じ、何かを待ち構えた状態に戻った。僕はいつのまにか、ロングホーンの横にいた。彼は背が高くなったなと思った。頭半分ほど、僕より高い気がする。最後に会ってからまだ、たった二、三日しか経っていないのに。筋肉が緊張して隆起し、皮膚の下から盛り上がって見える。背が高く思えたのはそのせいだろうか。初めて、ロングホーンを恐いと感じた。
 僕たちは小高い丘のふもとから、向こう側の様子をうかがっていた。空は晴れていたが、僕たちのいるところは日陰だった。丘の向こうは広野になっていた。ピンクや白の花が咲き、背の低い草の地が広がっている。誰一人口をきかなかった。馬たちは体をひくひくさせている。ハエが僕の頬に止まった。むずむずしてきたが、手で払いのけもしなかった。
 突然、ドドドッと音がした。待機していた男たちはさらに身を固くし、体をかがめる。ロングホーンの顔の筋肉が引き締まる。音は一度小さくなり、それからまた、だんだん大きく、大きくなっていき、うなりを上げ、地響きを立て、ついには頭を強く打たれたような痛みさえ伴なうほどの大音響になった。
 音が最大になったとき、ロングホーンのお父さんが無言のまま、手で合図した。と同時にロングホーンは、僕を馬の後ろに乗せたまま、周りにいた十二人の男たちの中心になって、丘を回って前方に突進していった。
 ロングホーンは、馬の手綱をズボンの中にねじり込んで固定させている。両手が自由に使える状態だ。ヒザだけで馬をコントロールしている。馬を疾走させ、広野を突き進んでいく。空の青と草の緑が風のように通り過ぎていくと、突然、目の前にバッファローの大群が現れた。
 群れはまるで灰色の海のように、波しぶきのような土ぼこりをもうもうとあげている。原始人が壁に描いたバッファローと同じだ。
 ロングホーンの雄たけびとともに僕たち二人は向きを変え、ほかの男たちから離れてバッファローの列に向かっていった。見えるのはただ、バッファローたちの光る目と、波打つ横腹と、ナイフのような角だけだった。恐怖が、鼻をつく強烈なにおいとともに頭に充満し、窒息しそうになり、むせ返る。
 僕はこの狩りから降りたかった。へなへなの人形のように振り落とされそうだった。地面を轟かせて突進する、巨大な頭(こうべ)をたれた獣の一群で広野がかすむ。僕たちは、中の一頭をしとめようとしているのだ。できることなら「殺さないで!」と叫びたかった。だって僕は、環境保護団体にも、ノッティンガムシア野生動物支援組織にも所属している。だけど僕にはどうすることもできない。今のロングホーンは、バッファローと同じくらい、野性的で獰猛(どうもう)だった。
 一頭に狙いを定めた。白灰色のメスだ。若い。全力で走り、口元には泡が吹き出ている。僕たちはそのメスに迫っていく。メスは、自分の命が僕たちの手中にあると悟っているようだった。
 ロングホーンは、走っているメスの後ろから、前足を狙って矢を放った。
 メスはよろめき、血がふき出す。ロングホーンは馬を後退させた。見逃してやるのか、いや、矢筒から二本めを取り出し、弓にかけた。
 疾駆する馬と突進するバッファローがふいに減速したときだった。矢が刺さったメスをめがけて、ロングホーンが大きく弓を引き、放つ。十分に狙いの定まった矢は、吸い込まれるように、ぬめって光る横腹に突き刺さった。メスは倒れこんだ。少しもがき、そのまま、草の上に頭を横たえた。
 群は地響きを鳴らして走り続け、ほかの男たちは大声を上げながらそれを追っている。僕たちのところだけは静かだった。
 僕たちは馬を下り、死んだメスのバッファローのそばに立った。僕はロングホーンが、雄たけびを上げるか、早速ナイフを取り出すかすると思った。だが彼はメスの前でひざまづき、敬意をこめて優しくメスの横腹に触れた。僕と同じようにロングホーンも泣いているのかと思った。だが泣いてはいなかった。ただ静かに死んだバッファローを見つめていた。そして、空をあおいだ。
 雲はまだじっとしていた。太陽は、円くて光る王冠みたいだった。
ロングホーンは両手を空に伸ばした。そしてゆっくりと、大きな声で言った。「神よ。獲物に感謝いたします。また一日、生きながらえさせていただきました」
 ロングホーンは、僕の手首を握った。「友よ。君のおかげで勇気が持てた。これでもう、行きたいときに狩りに行ける。もう、老人や女の子たちと留守番をしなくてもいい」
  僕はロングホーンの手首をつかんだ。彼の手はねばついていた。バッファローの血が、彼の腕の上に赤いすじになって流れていた。「マジック・アイズ、おれたちは兄弟だよな?」
 僕はゆっくりとうなずいた。僕の名前はジェフリーだよと言ったほうがいいだろうか。でも、今でなくてもいいか。時がきたら言おう。
 女の人が現れて、ロングホーンはそっちを向いた。女の人は別の馬を引いていた。ロングホーンはすぐにバッファローから二本の矢を抜き取った。そして一本を彼女に渡し、一本を自分の矢筒に戻した。それから馬に飛び乗り、僕を引き上げてくれた。この馬は、あの小川のときの馬だったんだと気がついた。あのときより、大きく、りっぱになって、きちんと調教されていた。
 振り返ると、広野には、死んだバッファローの肉に刺さった矢を抜いて、誰が放ったものか調べている女の人がたくさんいた。同じような光景を映画の中で観たことがある。戦闘の後、女の人たちが外に出て行って、身内の死体を探している光景だ。僕は、もう一度振り返ることはできなかった。
 丘に向かって馬で走っている途中、僕は滑った。馬の背中から、するりと、こげ茶色の横腹を滑り、地面めがけて、落ちた。
 
 おばあちゃんは椅子に座ったまま眠っていた。テレビは警察ドラマをやっていた。おばあちゃんは口を開けて寝ていた。僕が見ていると目を覚ました。
「あら」おばあちゃんが言った。「ほんの五分かそこら、寝ちゃったんだね。ジェフリー、おまえ、そんなに長く出掛けてなかっただろ?」
 それから二人でテレビを見て、ココアを飲んで床(とこ)についた。ベッドに寝そべって月を見た。月の表面をバッファローが走っているのを想像した。やがてバッファローの姿は薄くなっていった。ロングホーンが僕のそばにいるのを感じる。僕のすぐ近くで、一緒に旅に出ようと待っている。恐い旅だ。行きたくない旅だった。
 
 
 強い男
 
 次の日の国語の時間だった。ミス・ターナーが言った。「さあ皆さん、広告の宿題は持ってきましたね。これから読んでもらいますが、次の点を押さえてください。何の広告か、ターゲットはどんな人たちか、言葉がどんなものにたとえられているか、韻を踏んでいるところはどこか、どんな形容詞が使われているか。それから、ターゲットを変えて広告を書き直すように言いましたが、やってきてますよね。さあ、誰から発表してもらいましょうか。手を上げてください。どうせ全員やるんですよ、先延ばしにしても同じよ」
 僕は前かがみになって下を向いた。顔の表情を変えないやつもいたし、机をがたがたいわせてげらげら笑うやつもいた。ミシェルが僕のほうをちらりと見て「まいったね」というふうに変な顔をした。僕も同じ顔をして返した。ミシェルは鏡を取り出して髪を見つめ、垂れ下がってきていたつんつん髪を指で上に持ち上げた。
 ミス・ターナーがしびれを切らして言った。「分かりました。我こそはという人はいないようですね。じゃあ、ミシェル。あなたからやって」
「なんで私? いやよ」ミシェルは不服そうに唇をとがらせた。
「本当よねえ」ミス・ターナーが一本返した。「さあ、どんなふうになったか見せてちょうだい」
 ミシェルは顔をしかめて大きなため息をつき、ビニール袋の中をがさごそ手探りした。取り出した携帯電話の広告には「わたしに電話して!」と書いてある。
「それは何の広告ですか? 何を言おうとしてると思いますか?」
 ミシェルは肩をすくめて、垂れ下がった髪をもう一度上に持ち上げた。後ろから声が飛ぶ。「電話するわ! よくって? いつでも!」
 それを聞いてほかのやつらも大声で言い始めた。「バカって呼んでもいい? いつでも!」
「もう一回言ってみな。なぐり倒すよ」ミシェルはこぶしを作った。大きな指輪が光った。
 ミス・ターナーはいったんあきらめた。「まだ途中のようですね。じゃあ仕上げといてください。あとでまた聞きます」
 それからミス・ターナーはほかの生徒たちを回った。ほとんどの生徒がなんやかやとごまかして、ちゃんと発表したやつはいなかった。だから僕も安心していた。「忘れました、先生。来週持ってきます」と言って彼女をじっと見れば、ミス・ターナーは立ち去ると思っていた。そのはずだった。
 ところが、そうはいかなかった。ミス・ターナーは、僕を解放してはくれなかったのだ。歯をこつこつとたたいていらいらしたようなそぶりを見せると、自分の机に向かった。机に散乱していた書類をがさがさしていたかと思うと、その中から一枚、大きな紙を取り上げた。
「じゃあ、代わりにこれでやってみてください」
 紙には「パンでたくましい体づくり」と、大きな茶色の文字。その下には、分厚いパンで作ったサラダサンドウィッチがあり「味なパン、味な生活」と書いてある。横にパンくずがいっぱい散らばっていた。聞こえてきたのは、クラスのやつらがはやし立てる声だけだった。大声で笑い、小突き合い、叫ぶのだ。「見えないたくましさ!」「味な体・ジェフリー!」「ジェフリー・パーカー、味気ない男!」僕は、何かがつんと言い返してやろうと思った。だけど、何も思い浮かばなかった。頭が真っ白になった。
 すごく疲れた。ロングホーンが今ここに現れてくれればいいのにと思った。模様が描かれた馬に一緒に乗って、ほかのやつらがあっけに取られている中、堂々と馬を走らせるんだ。
 後ろで「隠し味はクラシック!」という声が聞こえた。ミシェルがそいつらに、黙れとかなんとか言っていた。ミス・ターナーはみんなを静かにさせようとしていた。僕は、回りの声が聞こえないように一生懸命集中していた。
 僕はロングホーンのことを考えた。でも、ロングホーンの世界には行けなかった。瞬きをすると、光がはじけた。あの星だ。あの赤い星が、銀色の火の粉を散らしている。血管の中の液体が熱くなる感じがして、心臓がどきどきいいだした。すると急に、疲れも、怒りも、悲しみも感じなくなった。突然なにかが吹き飛んだ。いろんなことが一度に起こった。父さんと母さんがアフリカに行ってしまって、僕はこのくだらない学校に転校しなければならなくなった。結局頼れるのは自分だけなんだ。そんな思いが突然ドカンと音を立てて爆発した。
「いいかげんにしろ、おれをこれ以上怒らせるな」僕は言った。
 誰も「ジェフリーがあんなこと言ってるぜ」とは言わなかった。
 ただ僕を見ながら、こいつ何か変だぞという顔をしていた。僕の目の端には、草原に立つロングホーンの姿が映っていた。
 ミス・ターナーは、咳払いをすると言った。「さあ、みなさん、授業に集中して」それを聞いて、僕は少し我に返った。まだ多少は興奮していたが。自分がほんの少しだけ変わった、ほんの少しだけ強くなったという感覚は、その日中続いた。帰り道で、女子が何人かよってきて言った。「ジェフリー、たくましいとこ見せてみなさいよ」するとミシェルがどこからともなくやってきて、その女子の腕をつかみ、押しのけた。
 僕は歩き始めた。ミシェルがあとから走ってついてきた。「ジェフリー、あんた、やばいよ。アタシが家まで送ってやるよ!」
 またミシェルの悪い冗談かと思って肩をすくめ、無視して歩き続けた。「そんなら、どうなっても知らないからね」
 それを聞いて、完ぺきに我に返った。あのうんざりする広告の宿題のことも思い出した。
 僕は、おばあちゃんの小さな花壇のある裏庭に回った。花壇には今でもキンレンカやマリーゴールドや、小ぶりの赤いオオバコみたいな植物がいっぱいだった。夏の間、おばあちゃんは腰痛にもめげず花たちの世話をしていた。「色があるほうがいいだろ」おばあちゃんは言っていた。「おまえもちょっとスコップを持って手伝ってくれないかい。まったく、草引きってのは本当に骨が折れるよ」
 霜が降り始め、黒くなっている植物もあった。家に入ると、おばあちゃんが浮かない顔をしていた。
「具合悪いの? おばあちゃん」僕は心配になって聞いた。
「私は大丈夫だよ」恐くなるくらい、静かな声だった。「ジェフリー、オキーフさんが、いってしまった」
「え?」訳が分からなくて僕は聞いた。「どこに行ったの? 家に帰ったの? 親戚がやっと迎えに来たとか?」
「そうじゃないんだよ。オキーフさんは、今日亡くなったの。気の毒にね。今度こそは、彼の子どもたちもやってくるだろうよ。家も片づけなきゃならないし、遺言のこととか、いろいろあるだろうから。ああ、ジェフリー。本当に悲しいことだね。でも、八十二歳だったからね」
 僕は何か言おうと口を開けたけれど、何も言えなかった。おばあちゃんだって七十三歳なのに、自分が年寄りだって意識してないのだ。ほかの人のことを「あのお年寄り」なんて呼ぶことがある。おばあちゃんだってあとどのくらい生きていられるか分からない。そう思うと不意に胸の奥が寒くなった。
「もう、夕食を運ぶこともなくなるんだね」僕は言った。おばあちゃんの足の負担が軽くなるということを言おうとしたんだ。とくにこのごろは、年のせいかずいぶん辛そうだった。
 おばあちゃんは取り乱した様子で僕をきっとにらんだ。「ジェフリー、なんてことを。そんなふうに言わないでおくれ」
 おばあちゃんはどたどたと台所に入っていき、お皿やなんかを乱暴に扱う音が聞こえた。その日の夕食は、真っ黒焦げのソーセージと、オーブンで焼いたポテトだった。
 おばあちゃんはその日の夜、ダンスをしようとしなかった。オキーフさんへの礼儀だと言った。それから椅子に座って、余った毛糸で僕に新しい帽子を編み始めた。少しして顔を上げると言った。「ジェフリー、ちょっと来て。サイズを測らせておくれ」
 僕は床に膝をついてかがんだ。おばあちゃんは毛糸を僕の頭に巻いてサイズを測った。しみのある両手で僕の頭を挟んだまま、おばあちゃんは言った。「私はどこにも行かないよ、ジェフリー。だから、心配しないでおくれ」
  
 次の日の朝、叫び声を上げて目を覚ました。父さんと母さんの顔を見たのだ。もう長いこと会ってないから変なふうにゆがんでしまった二人の顔が、目の前にあった。ほほ笑みもない顔がはっきりと見えた。そして消えた。
 不意にあのときのことが思い出された。おばあちゃんが、これからは二人で住むのだと言った。住み慣れた家を離れ、学校を替わり、見慣れた家具にまで別れを告げた。それなのに、日常があった。お茶を飲み、皿を洗い、テレビを見、散歩に行き……何もかもが恐ろしいほど淡々と、あたりまえに過ぎていった。
「ジェフリー、ジェフリー! 起きなさい。二度寝するんじゃないよ」
 降りていくと、おばあちゃんは電話で話していた。「ええ、ええ。あなたの言う通りだわ。キクじゃだめ。合わないもの。オキーフさんはアイリスが好きだった」 
 おばあちゃんは台所に入ってくると僕を見て言った。「またあの悪い夢を見たの? 声は聞こえたんだけど、電話してたものだから。どうしてみんな八時半前に電話してくるんだろうね」
 僕は肩をすくめて、おばあちゃんが焼いてくれたトーストをほおばった。今日は学校で体育がある。たとえ一番いい運動着を着てたって、どうせ笑われて、つまらない奴だと言われるんだ。僕は元気なく家を出た。見あげれば空は、あの広野の空と同じように広かった。どこまでも高く、澄んでいて、鮮やかな青だった。学校に行くつもりで歩いていたが、そのうち、足は違う方向に向かっていった。運河に寄り添うようにみすぼらしい引き船道がある。そこに、暇を持て余していそうな年寄りが何人か、緑色の傘をかざして座っていた。
 車の音と、水の音。聞こえるのはそれだけだった。何台ものバスがうなりを上げて陸橋を過ぎる。バスの中で人の頭が揺れる。なんのこともない風景だ。もうここらへんでいいだろうと思い、僕はベンチに腰かけた。心に思うことがあった。
 ベッドで叫んで跳ね起きたときのことを思い出した。あのとき、目の前に浮かんだ光景がある。母さんと父さんの背中がどんどん小さくなっていく。僕は一人で取り残されて立っていた。おばあちゃんの腕が僕を包んだ。おばあちゃんは泣いていた。ただ泣き声は聞こえなかった。頬を伝わる涙が二本の筋になって流れ、やがて細かく砕け散った。
「大丈夫よ、ジェフリー。父さんたちにはまたきっと会えるから」
 僕とおばあちゃんは、おばあちゃんの家で一緒に住むことになった。それから、父さんと母さんの顔がどんなだったか、ぼんやりとしか思い出せなくなった。時々、声を思い出した。「ジェフリー、ちょっと観てみるかい?」そう言って父さんたちは僕にオリオン座を見せてくれた。霧のような星雲は、まるで空にかかった白いカーテンみたいだった。父さんの腕が僕を優しく包む。四月だった。星を観るには少し明るすぎ、庭ではヒヤシンスが香っていた。星を観おわると、そのあとは何をするでもなく、ただ庭の花の香りを楽しんだ。父さんがいて、母さんがいて、僕がいて、それだけでよかった。それだけで幸せだった。昔のことで覚えていることが少ないのは、だからかもしれない。取り立てて何か大きなことや、ドラマチックなことをするわけではなかったから。ただ日常が、静かに平和に過ぎていった。
 でも、これは覚えている。母さんが言ったんだ。「もうすぐ弟ができるのよ、ジェフリー。どう? 嬉しい? それともやきもち焼いちゃう?」
 母さんはピンクのワンピースを着て、乾いた芝生の上でさらさらと音を立てる歩きやすいサンダルをはいていた。空を見上げて目元に手をかざした母さんの髪を、太陽の光がすり抜けて、髪の色を赤にも金色にも変えていく。母さんは幸せそうだった。
「たぶん、好きになれるんじゃないかな」僕は注意深く言った。
「まあ、ジェフリー!」母さんは僕の髪をくしゃくしゃにして大きな声で笑った。「相変わらず慎重ね」
 僕は母さんをがっかりさせたんだろうか。本当のことを言えばよかったかな。弟? すごいよ。やった。初めて十一月の流星を見たときと同じだ。あのときは、すごくきれいで感動した。僕は弟にいろいろ話をしてあげたかった。世話をやきたかった。だけど、それを口に出して言ったことはなかった。
 そして、僕は弟に会うことはなかった。父さんと母さんが行ってしまったあと、ずいぶん弟のことを考えた。どんな子だったんだろう。僕のことは知っていたのだろうか。だけど結局、何も知らされなかった。
 あとでおばあちゃんが言った。「ねえ、ジェフリー。父さんたちは行きたくなかったのよ。でも、行かなければならなかった。そうでしょ? 私の言ってること、分かるわね? おまえは大丈夫だよ。時間は必要だけど」
「時間、分かるかい?」
「十時半」
 男は僕の前で軽くうなずくと小道を行きかけた。そして足を止めると振り返って肩越しに言った。「若いの、気をつけな。さっきポリ公がいたぜ。おれならこんなとこ、早いとこズラかるがね」
 その日はずっと、ただ人目につかないようにした。油の浮いた水溜りの石を蹴ったり、灰色レンガのトンネルの下に身をひそめたりして。
 あとでおばあちゃんに嘘をつかなきゃならなかった。「学校は大丈夫だったよ。本当さ。乗り切った」
「まあ、少なくとも今日は、服は汚れてないみたいだね。こないだなんか、どんなことをしたらこんなに汚れるんだいってくらいだったものね。まったく、ほかのお母さんだったらどういう反応をしただろうって思うよ」
 夕食のあと、おばあちゃんは言った。「人生というのはね、続いていくものなんだよ。そうじゃなきゃ、私たちがいる意味がないだろう。違うかい? もし違うと思うんなら言ってみて」
 おばあちゃんは、もうダンスを再開してもいいと言っているのだった。オキーフさんへの礼儀は尽くした。おばあちゃんは、「ヘイ、ミスター・タンバリンマン」をかけ、僕たちは、ゆっくりめのクイック・ステップを踏んだ。「一番いいズボンを、一度はいてみといたほうがいいだろうね。ちゃんと合ってるか見とかないと。ガーラ・ナイトまでにきちんと準備しとかなきゃね」
 ダンスの練習のあとテレビを観た。野生のゾウの番組をやっていた。ゾウたちは、まるでアフリカのサバンナを行く灰色の船団だ。一頭が、空に向かってラッパのような鳴き声をあげた。とどろくような声が頭を突き抜ける。ソファに体をあずけたまま、まるで自分が泣き叫んでいるような気がした。番組が終わったとき、おばあちゃんが僕をちらりと見て言った。「大丈夫かい? ジェフリー」そして僕の膝小僧をなでた。僕が画面のゾウの中に父さんと母さんの姿を捜していたのを、おばあちゃんは知っていたのだ。
 二階に上がって窓の外の空を見上げた。出ているはずのないベテルギウスが空に浮かんでいた。小さな炎のようなその光を見ていると、ロングホーンのことが思い出された。もし彼がいなくなったら、僕はどうすればいいんだろう。ここだというときに僕に勇気を与えてくれるのはロングホーンなのだ。彼がいなければ、僕のそばにはおばあちゃんしかいない。そのおばあちゃんだって、いつまでそばにいてくれるか分からない。

「ブレージング・スター」6   待ち受けていた星~疑い

 待ちうけていた星
 
 
 次の日の朝起きて、不意に僕はある思いにとらわれた。ロングホーンはもう僕の前に現れてくれないんじゃないか。どんなに追いかけても追いつけないんじゃないか。学校に向かうときも、大切なものを失ってもう二度と取り戻せないかもしれないという思いが頭を離れなかった。
 弾丸頭のダレンさえも、今日は僕に向かってこない。別のやつを追いかけている。ピーター・ブライアントというおとなしい生徒に、おやつをよこせと言いながらしつこく頭突き攻撃をしている。
 僕はほかのやつらとそれを見ながら、的が僕じゃなくなったことにほっとしていた。僕はピーターの反応をうかがっていた。あいつが僕のほうを見たりなんかしなければ、変なことを口走ることもなかった。でもピーターは、ゆっくりと顔をこっちに向けて僕を見た。あっと思ったときはもう遅かった。ピーターと目が合ったとき、彼は少し前の僕自身だったのだと気づいた。
 僕は口を開いてしまった。「いいかげんにしろ。自分のおやつを食っとけ。もう開放してやれ」
 ダレンは何が起こったのか理解できずに、バカ面のまま一瞬固まった。女子が言った。「へえ、ジェフリー。ずいぶん勇ましいじゃない」すっとんきょうな、ふざけた声だった。
 ダレンが僕のほうに向き直って頭突きを一発食らわしてきた。ピーターが言った。「よけいなことするな。僕はダレンなんて平気だったんだ」大きな口をたたきながら消えた。ダレンが僕のほうにやってきて、また頭突きを食らわそうとする。僕は床にころんだまま、ダレンの攻撃を受けていた。ミシェルが来て、ダレンを僕から引き離した。
 そのあとは、歴史の授業だった。ミス・テーラーという教師は、まだましなほうだった。教室に入ると、またモーツァルトがかかっていた。フルートコンチェルトの中盤部分だ。曲はビロードのようになめらかでやわらかい。まるで子ネコをなでているような気分になる響きだ。ミス・テーラーの狙いはただ、教室を静かにさせることだろう。彼女は音楽などかかっていないかのようにふるまった。生徒たちは落ち着きだした。ダレンも静かに席についている。まるで、やつの両耳の間に存在する真っ黒いくぼみのような脳みそが、突然どこかに消えてなくなったかのようだった。
 だが休み時間になると、またやつは僕のところに突進してきた。「やい! まぬけヅラ。まだまだ殴られ足りないだろう!」そう言って一発殴ってきた。鼻血が出てくる。
 ミシェル・モーガンが言った。「やめな! イカれ頭!」そしてごつい黒ブーツでダレンを蹴った。それから僕に向き直って言った。「まだ分からないの? 学習しないやつだね」
 生徒の一人が言った。「なんだよ! ミシェルのやつ、眼鏡に恋しちゃってんじゃねえの?」
 ミシェルは指輪をぎらりと光らせて言った。「消えな!」うんざりしたような、バカにしたような声だった。休み時間中、ミシェルは僕の近くにいた。何をしゃべりかけることもなく。
 放課後になった。僕のシャツには、血のしたたったあとができていた。家には帰りたくなかった。またロングホーンに会いたかった。だが空を見上げて予兆を確認したりはしていなかった。その日は雨で、灰色の低い雲が空をおおっていたからだ。そのあと見上げてみると、雨の中、グリーンズミルの建物の向こうに、星が光っているのを見つけた。光の粉の輪みたいだった。ちらちらと点滅していた。だがたしかにそこにあった。僕に見つけられるのを待っていたかのように。それはベテルギウスでも、僕が知っているほかの星でもなかった。何かの合図みたいだと思った。ロングホーンが近くにいる。僕に伝えようとしている。姿はまだ見えないけれど、彼はそこにいて僕を待っていると。
 家に帰りついたとき、気分は悪くなかった。おばあちゃんは、会合用の一番いい服を着ていた。紺のブラウスにプリーツスカート。首元にはパールのブローチを付けている。
「今日はオキーフさんを見送ってきたの」おばあちゃんは帽子を脱いで髪を整えた。「いい式だった。静かで、おごそかで。オキーフさんの娘さんも来ていて、話もしたわ。もう会うこともないでしょうけどね」
 おばあちゃんは首を振った。悲しそうだ。僕はおばあちゃんに元気になってほしくて言った。「クイック・ダンスを踊ってみる? おばあちゃん。もうずいぶん仕上がってきてるでしょ」
 おばあちゃんは、返事はしなかったけど少しほほ笑んだ。それで僕は音楽をかけた。あとでおばあちゃんが言った。「おまえはいいセンスしているよ、ジェフリー。ダンスをやっている女性ならそう言うはずだよ。じゃあ今度は、あのナチュラル・ウィーブをやってみましょうか。並んですれ違うところ、ライト・ヒップ・トゥ・ライト・ヒップから。クイック・ステップまで私を引き寄せといて。それから、リヴァース。その場でターン、ターンバックしてウィーブに戻る」
僕たちは踊りながら部屋を離れて廊下に出る。その間もおばあちゃんの檄が飛ぶ。「フェザーステップよ、ジェフリー。ホップやスキップじゃないの。それから右足斜め、スロー、クイック・クイック」
廊下で踊っていると、ドアべルが鳴った。「おや、こんな時間に誰だろうねえ」予期しないことが起こるとおばあちゃんはいつも心配顔になる。
アイビーだった。「あら、おじゃましちゃったかしら。たまたま前を通ったんで、ちょっと寄ってみようと思ったの」
おばあちゃんは、たまたまというのは嘘だと分かっていたみたいだったが、安心したような顔つきになってほほ笑んだ。「アイビー、いらっしゃい。いまジェフリーと踊っていたのよ」
奥で音楽が鳴っている。アイビーは首を傾けて少し淋しそうにした。僕は口を開いた。「アイビーも一緒に踊らない? 僕ならかまわないよ」
アイビーはバッグを下ろして、大急ぎでコートをぬぎながらおばあちゃんの顔を見た。おばあちゃんはうなずいた。「さあどうぞ、アイビー。いま、お茶を入れるわ。ヤカンを火にかけてくるから」
アイビーとのダンスは、おばあちゃんのとはまた違っていた。まるで小さくて細い鳥と踊っているみたいだ。スミレのにおいもする。踊りながらアイビーはハミングし、ときどきそれに歌詞が加わる。
少しするとまたドアベルが鳴った。今度は近所のヒルダだった。「お客さんだとは知らなくて」彼女は言った。「おじゃまするつもりはないのよ」
アイビーが言った。「ちょっとダンスの稽古をしていたのよ、ヒルダ」
「ええ、そうみたいね。私もダンスは好きよ」とヒルダ。
 おばあちゃんが戻ってきた。「ジェフリーが、あなたの相手もしてくれるわよ。ちょっとレコードだけ替えさせておくれ」
 僕は、ヒルダとモネ・ワルツを、おばあちゃんとチャチャチャを、そしてアイビーともう一度フォックストロットを踊った。それから、みんなが相手を換えてそれぞれ踊った。おばあちゃんがお茶を注ぎ、顔をふきながら言った。「オキーフさんがここにいたら、楽しんでくれただろうねえ。彼も若い頃はすばらしくダンスが上手だったもの」
 悲しくなるのを避けるように、みんなはお茶を飲み、おばあちゃんが買ってきたホットケーキをほおばった。おばあちゃんは、ガーラ・ナイトのことを話し出した。
「ピンクのドレスを着ようと思っているの」アイビーが嬉しそうに言った。「銀色の靴と、ベルベットのバラの胸飾りで」
「私もドレスを持ってるわ。まだ着てないけど」ヒルダが言った。「こないだ七月にイーストボーンで買ったの。似合うのよ。なんていうの、それを着るとやせて見えるの。スカートには少しフレアが入ってる」
 夜、ベッドに腰かけてとろとろしていたら、突然また父さんと母さんの姿が思い浮かんだ。アフリカじゃない。昔住んでいた家の中だ。父さんはワインをたくさん飲んで歌っていた。「君は僕の人生で一番の宝物」母さんは照れくさそうにして、笑いをこらえていた。そして僕と父さんの手を取って言った。「私たちはお互いの人生で一番の宝物」
 それから、たしか父さんは酔いつぶれて寝てしまったんじゃなかったかな。どっちにしろ、僕がそこまで思い出したとき、二人の姿はぼやけていった。ゆっくりと。まるで本当に行ってしまいたくないかのように。
 そのあと、僕は窓の外を見た。星はなかった。でも僕には、ロングホーンがそこにいると分かっていた。ロングホーンは僕に会いたがっている。だけど会いたい気持ちを一生懸命押しとどめている。まるで全身全霊をかけてそうしなければならない秘密の理由があるかのように、僕を遠ざけているように思えた。
 
 翌朝目が覚めたとき、あまり眠っていないような感じがした。ちゃんと眠ったはずなのだけど。国語の宿題に目がいった。「パンでたくましい体づくり。味なパン、味な生活」誰のための広告に書き直せっていうんだ。
 弾丸頭のダレンの顔が頭に浮かんだ。するとすぐに答えが出た。僕は広告を書き直した。「大きいだけのパン」という文字を書き、その下に、髪の毛ぼうぼうの原始人が両手にパンを一枚ずつ持っている絵を描いた。その絵の下に「パンでたくましい体づくり。でも脳みそはつくれません」と書いた。これはいいぞ、と思った。僕は色鉛筆を取り出して原始人に色をぬった。飛び散る汗を描き、あごひげを描き、すきまだらけの歯を描き加えた。
 下に降りていくと、また変な感覚に襲われた。腹ペコのはずなのに食事が喉を通らない。食べ物を口に運ぶたびに何か見えない力が働くみたいに、食べられなかった。
「そんなんじゃ、たくましくなれないよ、ジェフリー。どうしたんだい? また何か心配事? それとも気まぐれ?」
 おばあちゃんは電気ストーブでパンを焼いていた。トースターがまた動かなくなったのだ。おばあちゃんの顔は汗でてかてかしていた。タイツの上に赤い縞模様の靴下というのどかな格好をしていながら、目はナイフのようにきらきらしていた。
「今日は食べる気がしないんだ」
「お腹がからっぽじゃ学校に行けないだろ。トーストを食べたくないんなら、これだけでも飲んでいきなさい」
 おばあちゃんは牛乳に卵を入れてかき回したものを手渡した。僕がそれを飲み干すまで、僕の前で仁王立ちになっていた。飲んでいる間も変だった。頭のなかで、聞き取れないほどの声が「やめろ、やめろ」と叫んでいた。
 学校に行ったら、ミス・ターナーがなにやら言っていた。
「こないだはどうしたの? 連絡も手紙ももらってないわよ。まる一日いなかったでしょう? ジェフリー、どういうことか説明してちょうだい」
 僕は肩をすくめて黙っていた。何も言うことがなかったから、眼鏡をふいていた。ミス・ターナーは、指でこつこつ机をたたきながら僕の言葉を待っていたが、しびれを切らして口を開いた。「そう、分かりました。あとで校長先生の所においきなさい。すぐ朝礼よ」
 朝礼では、ネットボールの試合で得点を上げた女子生徒たちに拍手をした。そのあと、マーズデン校長の話を聞いた。「トイレでタバコが見つかりました。便器をつまらせていたのです。タバコは皆さんの健康を害し、死にいたらしめることもあるのです。学校でタバコなど、絶対にいけません!」
 僕たちがうんざりしながら座っているのにもかまわず、ミスター・マーズデンは続けた。そのあと、ボランティア活動をした生徒に表彰状が渡された。そのあと、僕は校長室に行き、説教を受けにきたほかの生徒たちと一緒に廊下に立って順番を待った。中の一人が僕を見て、タバコの煙の輪っかを吐いて言った。「どうだ。こんなの見たことあるか? すごいだろ」次はそいつの番だった。タバコをもみ消して、そいつは校長室に入っていった。次が僕だった。マーズデン校長は忙しそうに書類にサインをしていて、すぐには僕を見なかった。しばらくして彼はペンを置き、ため息をついて椅子を少し後ろに傾けた。
「ジェフリーだね」校長は言った。「何か言いたいことはあるかね?」
 僕は口を開こうとした。学校をさぼるつもりはなかった。あの日は自分を見つめたかった。僕の周りに起こったいろいろな出来事の意味を考えてみたかった。おばあちゃんのこと。ロングホーンのこと。父さんと母さんのこと。マーズデン校長は椅子に反り返って僕の言葉を待っている。さっきの生徒が残していったタバコのにおいがする。書類が机からずり落ちて床の上に束になっている。説明しようと思えば、する時間は無くはなかった。
 ただ、マーズデン校長のうんざりした顔を見ていると、言葉をつむぐ気がうせた。「君はここへ来るのは初めてだね。言い訳する気がないのなら、私のほうから言わせてもらうよ」
 そのあと、校長はお決まりどおりの説教をした。いまさら校長に言われるまでもなく、分かっていることばかりだった。脱力感を覚えながら、僕は校長室を出た。何か大切なものをもう少しで手にしながら、それを手放してしまった感じがした。
 学校が終わると、また雨が降っていた。もう一度やってみよう。失敗してもいい。ロングホーンにもう一度会えるか試してみたい。工場に着くと、入り口は暗かった。工場の中にはこうこうと明かりが灯っているのに。星はぼんやりしていた。輪郭がかすかに見えるだけだった。
とりあえず、僕は近づいて星を見た。目に神経を集中させて瞬きをした。
するとすぐに、違う場所に行けた。
暗い。風が吹いている。どこか寒くて高い場所に、僕は一人で立っていた。
 
僕はがらんとした丘の上にいた。突然光がやってきた。そびえ立ついくつもの峰が遠くに見える。峰は雲の中に溶け込んでいく。そこにロングホーンはいなかった。だけど、誰かが僕に気づいて、見ているような気がした。
動くものは何もない。峰はだんだん明るさを増してくる。やがてピンクに光り始め、世界も大きく広がった。突然、ロングホーンの叫ぶ声が聞こえた。いや、僕か? 叫んでいるのはロングホーンなのか僕なのか。頭の中に響いてくるのは、前から知っている何かの、何者かの声のようだった。
「太陽よ。古(いにしえ)の人々よ。天上の人々よ。海に眠る人々よ。私の声をお聞きください。あなた方の息子に力をお貸しください。太陽よ。月よ。古の人々よ。共に祈りを」
 声は高く細く山の頂に広がっていき、そしてゆっくりと消えていった。静寂のなか、僕はダンスを始める。最初は小刻みに、それから、大きく、すり足とジャンプを繰り返す。やがて僕の足は、さらに地面を力強く蹴り始める。両手を空に伸ばし、もう一度叫ぶ。「古の人々よ。あなた方の息子の声をお聞きください」
 体がくたくたになっても、僕はダンスを止めない。さらに叫び続ける。「私の声をお聞きください。私に力をお与えください」
 だが答える者はない。頭の中に声が響く。声は軽々と浮き上がり、冷たい風に運ばれ山々まで舞っていく。空腹が胃袋を引っかくようだ。手も足も、痛みで震えてくる。僕は裸の丘に体を投げ出し、仰向けになって空を見た。恐れはない。穏やかな気持ちだ。いままで経験したことのないほど穏やかだ。父さんと母さんが行ってしまってからは経験したことのないほど。僕は大きなため息をついた。すると聞きなれない声が頭の上で響いた。
「息子よ。何故横たわる。力が欲しくはないのか」
 声の主は、僕を見守るために部族がよこした者だった。背が高くて細身で、灰色の長い髪をしている。バッファローのマントをはおり、杖を持っている。しわのある首に、熊の歯でできた黄色い首飾りを巻いている。かぶっている冠には、長く伸びた鳥の羽が三枚ついている。
 彼の声を聞くと、考える間もなく僕は跳ね起きた。ダンスを続け、さらに叫ぶ。「太陽よ。力を。海に眠る人々よ。力を。天上の人々よ。私の声をお聞きください。私にいまこそ、力をお与えください」
 だがさっきと同じように、何も起こらない。さまざまな思いが浮かんでは消えた。太陽が沈み始め、冷たい空気のなか、僕は地面にくずれ落ちた。
 星が一つ出てきた。暗い空に、弾むように現れて、だんだん近づいてくる。火の粉が音を立てて飛び散っている。揺らめく銀色の光は顔に触れるほどだ。まるで光の王冠のようなその星は、中心に赤い色がきらめいていた。まさに僕が待っていたあの星だった。
「息子よ。なぜそのように地面に横たわるのだ?」
 星のなかにインディアンの勇士が見える。いや、勇士そのものが星なのか。腕組みをした彼の筋肉は隆起し、まるでとぐろを巻いたバネがつややかな皮膚の下から浮き上がっているみたいだ。僕が口を開く前に、勇士はその場に座った。右手でパイプをくゆらせ、ゆっくりと吸って煙を吐いた。煙をくゆらせながら彼は言った。「おまえが私を呼び寄せた。いまこそ力を授けよう。これよりおまえは、勇気と力を身につける。そして、私の名前を受け継ぐのだ。そののち、もう名前を変えることは許されない。私に祈るとき、このことを忘れるな。その祈りを聞いたとき、私はおまえに力を貸そう」
 彼はまた煙の雲を吐き出した。ゆらめく煙が輪になって空に昇っていった。やがて煙の輪が消えたとき、勇士もいなくなっていた。
そして僕は、僕自身の体、ジェフリーの体に戻った。力が、自分の中に生まれたのを感じた。望むことは何でもできそうな気さえする。
 僕はまだ地面に寝ころがっていた。ロングホーンの声がした。「マジック・アイズ! マジック・アイズ! 聞こえるか?」
 ロングホーンが目の前にいた。疲れているように見える。少しやせたか。だが、彼はすっくと地面に立ち、目には光をたたえていた。バッファローの革で作ったシャツを着ている。前に二人で倒したやつだ。シャツには月と星の模様が描かれている。ロングホーンの顔は、その月と星より輝いていた。
「友よ、君が幸運を運んできてくれた。俺は今日、大きな力を得た。君が訓示を持ってきてくれたんだ。いまこのときより、俺はブレージング・スターと名乗ることになった。新しい名前を与えられたんだ。これが、真の男としての名前なんだ、友よ」
 僕はゆっくりと立ち上がった。あわい色の星星が、アーチ型になって僕の頭上に光っていた。ブレージング・スターを見上げながら思った。僕はもう、彼のようにはなれない。千年経っても、絶対になれはしない。
「僕はどうしてここにいるの」などとくだらないことを聞いてみた。
 ブレージング・スターが僕のほうに歩いてくる。彼の体がほのかな光の中でかすかにゆらめく。答える前に、彼は消えてしまうのではないかと思った。だが彼は、僕の手首をつかんだ。鼓動が伝わってくる。単純な力っていうんじゃない。僕がいままで経験したことのない、強さのようなものが伝わってくるのだ。
「君が望んだからさ」彼が言った。
 それから、彼は手の力を緩めた。星たちが空に戻った。そして僕のほうに舞い降りてくる。星の巣の中で、僕は手足を動かす。再びあの、バッファローのマントをはおった老勇士が僕の前に現れた。僕はダンスを繰り返す。体が止まらない。お腹がすいた。寒い。食べ物がほしい。
 いきなり、僕はホックリー通りにいた。重い足を引きずって、家に向かっていた。
 
 
 
疑い
 
「ひっとひとくんだよ。まち針をはしていくから(じっとしとくんだよ。まち針をさしていくから)」
 次の日の夜だった。おばあちゃんは、ガーラ・ナイトに向けて僕の一番いいズボンを直そうと、まち針を口にくわえながら、ズボンにさしていった。
「服をね」前におばあちゃんは言っていた。「服をちゃんとしとくのは、本当に大変だよ。子どもときたら、知らないうちに大きくなってるものだから。それに、靴! おまえの靴ったら、おばあちゃんの二足分だね」
 おばあちゃんは足が自慢だった。どんなにウオノメやマメがあろうとも。「この曲線を見てごらん、ジェフリー」おばあちゃんは、足を突き出してそう言う。「これが、ダンサーの足ってもんだよ。ようく、覚えておおき」
 今おばあちゃんは僕の足をぴしゃりとたたき、ぶつくさ言っている。僕がじっとしていられないからだ。「制服のシャツはどうしたんだい? 血がついてたじゃないか。鼻血でも出したのかい? 鍵(かぎ)を首の後ろに当てると鼻血が止まるって言うから、鍵を持っときなさい。私もよく鼻血を出したもんさ。血筋なのかね」
「鼻血じゃないよ。ケンカしたんだ」
「え? なんだって?」おばあちゃんは待ち針を吐き出すと、身を低くして僕を見た。
 僕は、もう一度言った。落ち着いた低い声で。「ケンカしたんだ。あのバカな学校じゃ、みんなケンカするんだ」
「まあ」おばあちゃんの頬が赤くなった。「そんな話、聞いたことないよ」
「そうなんだよ」僕は、そんなに気にもとめてないふうに肩をすくめた。実際、そんなに気にもとめてなかった。
「どうしてケンカなんかしたんだい?」おばあちゃんが聞いた。
 僕は全部話そうかと思ったけど、おばあちゃんを困らせたくなくて、言えなかった。
「たいしたことじゃないんだ」僕は言った。「ただのケンカさ。理由なんて忘れたよ。とにかくもう終わったことだよ。もういいだろ」
「いいや、よくないよ、ジェフリー」おばあちゃんはぎくしゃくと立ち上がった。「教えて。誰かがおまえをいじめたのかい? あの学校はちゃんと方針を持っているはずだよ。パンフレットに書いてあるのを読んだもの。『いじめは絶対許しません』って。たしかにそう書いてあった」
「いじめられてなんかいないよ。ただのケンカさ」
「分かったよ、ジェフリー」おばあちゃんの目が厳しくなった。「じゃあ、おまえがいじめてるのかい?」
「ちがう!」
「こんなのは好きじゃないよ、ジェフリー。おまえは本当のことを言ってないだろ。おまえが人をいじめるような子じゃないことは、私が一番よく知っている。だから、本当のことが全部知りたいんだよ。だって」おばあちゃんの表情がみるみる変わった。母さんが怒ったときにそっくりだ。「私はおまえを、親切で賢い子に育てたはずだからね。おまえなら、学校の模範になれると信じている」
「はいはい、分かったよ」
「今日はこれ以上言わないけど、何が起こっているのか、これからちゃんと見とくからね。今度何かあったら、学校に出向くわよ」
「そんなことしないでよ。いやだよ。なんにもなかったんだから。信じてよ、おばあちゃん」
 だけど僕は息が荒くなっていた。おばあちゃんが唇を固く結び、厳しい表情をしていたからだ。あのときと同じだった。近所の犬がうちの庭で糞をしたとき、おばあちゃんはそれをとても丁寧に包み、飼い主のところに持っていった。そして飼い主にその包みを渡しながら言ったのだ。「あなたの犬のものです。うちの玄関前の石段にありました。もう二度と、私にこんなことさせないでください」
 おばあちゃんは話を終えると、手際よくさっさとズボンを縫い付けていった。僕は黙ってそれを見ていた。そこへ、アイビーがやってきた。
「ちょうど通りかかったのよ」アイビーはにこにこして言った。「今日は音楽がかかってないのね。どうしたの」
「我らがジェフリーの服のお直しをしていたの。この成長のはやさといったら、まるで草木だよ!」
「キースもあっというまに大きくなった。あの食欲! あの食欲は二度と思い出したくないわね」
「ええ、そう。ジェフリーもたいした食欲だわ。さあ、できた。ちょっと履いてみて、ジェフリー。私はお茶を入れるから」
 僕は二階に上がってズボンを履いてみた。下に降りていくと、二人とも僕を見てにっこり笑った。
 アイビーは、あごに手を当てて「いい男ねえ」とおばあちゃんに言う。
 おばあちゃんは、わざとらしく咳払いをする。嬉しそうに見えるのに、言うことはそっけない。「ハンサムでも、行動が伴なわないと。見てくれよりも中身が大事だからね」
「あら、あと二、三年もすれば、女性がほおっておかなくなるわよ。眼鏡も素敵よ。知的な感じて」
 おばあちゃんは僕に、その場でくるりと回るように言った。アイビーが言った。「白いシャツはやめたほうがいいわ。ダークブルーね。いっそ、赤でもいいわ」
「私もそう思っていたところよ」おばあちゃんが言った。「蝶ネクタイじゃだめね。オープンネックがいいよ」
 二人は、僕が二階に上がってすり切れたジーンズに履き替えているあいだも、ああだこうだといろいろ意見を言い合っていた。僕はシベリウスの「フィンランディア」をとてつもない大音量でかけると、窓枠に頬(ほお)杖(づえ)をついた。暗い空に月が出ている。大きくて明るい。月の表面に大きな光と影をつくるティコやクラディウスのようなクレーターまで見えるんじゃないかと思うほどだ。目の端に、オキーフさんの家の門に『売り家』の看板がかかっているのが映った。気がつくと僕は、前に住んでいた家の前の通りに立っていた。何人かの男の人が『売り家』の看板を前庭の地面に打ちつけていた。その音を聞いていると僕はもう、二度とここへは帰ってこられないんだという気がした。夏休みの最後の週だった。夏も終わりに近づき、その日は雨が降っていた。雨の雫(しずく)が道端の大きな木からしたたり落ち、側溝に集まって勢いよく流れていった。まだバラが匂っていた。
 前に通っていた学校は小規模で、みんなは、僕は僕のままでいいんだと言ってくれているようだった。バックストリートボーイズやヒップホップじゃない音楽を聴いていてもそれを話題にしても、変わり者扱いされることもなかった。学ぶこともちゃんと歓迎してくれた。僕はラテン語を学び、代数を学び、夜空に焼きつけられた星のことを詠うこんな詩を学んだ。その詩は、僕の脳裏にしっかりとしみ込んでいった。まるで木が、添え木からエッセンスを吸収するように。
 
 燦然(さんぜん)たる光の帯
 天空に煌(きら)めく
 慇懃(いんぎん)無礼な
 永遠の
 光輝(こうき)ある刻印
 
 ロングホーン……ブレージング・スターとのことは、夢ではなかった、はずだ。「ワン・ウィール・オン・マイ・ワゴン」が天井を吹き飛ばした。僕はカーテンを閉め、一階に降りていった。おばあちゃんとアイビーがダンスしていた。手に手を取って、サイドステップを踏み、手を打ち鳴らし、笑いながら、「ハイ!」と声を張りあげていた。
「ジェフリー!」おばあちゃんが振り返って言った。「おまえも一緒にやるかい? それとも、何かしてるの?」
「今日は忙しいんだ」僕は嘘をついた。アイビーのがっかりした顔を見ないようにして。
 ただ、ダンスをする気分じゃなかったんだ。ブレージング・スターと一緒にいることが、僕の存在意義みたいだった。もう何かどうなのか分からなかった。つまり、僕は本当はこの世に存在しないんじゃないかという気がしていたのだ。僕は、自分のことをジェフリーという少年だと思い込んでいる、ただの魂かもしれないと思った。
 それとも(これは、僕の一番恐れていることなのだが)、ブレージング・スターにときどき呼びだされるためだけに、僕は存在しているんじゃないんだろうか。
 
 だけど学校でのことは、まぎれもなく現実だった。ミス・ターナーが言った。「さあ、今日で広告を仕上げちゃいましょうね。ジェフリー、あなたから発表していただきます」
 僕は広告をクラスの連中に見えるように持ち上げた。がさがさしていたやつらが今度は野次を飛ばす。「おお、ジェフリー。たくましい広告だったよな?」「パン粉じゃなくて婆(ばば)ン粉の広告だよ!」
「広告には何が書いてありましたか? 韻を踏んでいるところ、しゃれになっているところはありましたか?」
 ミス・ターナーは首をかしげ、ものさしで腰の辺りをとんとんと軽くたたきながら、野次を無視して僕の答えを待っている。
僕は韻を踏んでいる箇所を言い、そのあと「『味な』というところが、パンの味がいいということと生活の質がいいということをかけてあるしゃれになっています」と言った。
「よくできました、ジェフリー。この広告のターゲットはどんな人たちだと思いますか?」
 ミス・ターナーの声が大きくなった。野次の声も大きくなったからだ。
「『韻を踏む』なんて難しい言葉、君が知ってるとは知らなかったよ、ジェフリー」
 一番大きな声の主はピーター・ブライアントだった。椅子の端に腰掛けて生意気な口を利いている。『僕はもうこっち側の人間さ。おまえとは違うんだよ』彼はそう言いたいのだった。
 僕は肩をすくめて広告の紙を下ろして言った。「健康志向の人たちです。その人たちに、質のいいパンを食べてくださいと言っているのだと思います」
「よくできました。それでは、ターゲットを変えて広告を書き直してきましたか?」
「はい」こんな愉快なことしないわけないだろ。
「はい、それでは発表してください」
 サンドイッチの中に埋まっている男は、われながらダレンそっくりに描けていた。無精ひげをとれば、まさにダレンだ。
「読んでください、ジェフリー」
 僕は咳払いをして読んだ。「いいパンを食べましょう。ただし、いい体は作れても、いい脳みそは作れません!」そして広告の紙を急いで下ろした。
 ニヤニヤしている生徒もいたが、ミス・ターナーはよく分からなかったという感じで言った。「変わっていますね、ジェフリー。いったいこの広告のターゲットは誰ですか?」
 僕はまた肩をすくめた。ミス・ターナーが寄ってきて僕の広告をクラスに見えるように持ち上げた。
 今度はクラス中の生徒が大声で笑い出した。みんな笑いながら小突き合っている。「ダレンだよ、先生! 真ん中に馬鹿でかく描いてある! たくましい体、貧弱な脳みそ! あいつだ! おい、ダレン、見てみろ。おまえのことが書いてあるぞ!」
 最初はこのままいけると思った。ダレンには広告の意味が分からない。やつはほかの生徒が自分のことを笑っているとは思っていなくて、一緒になって笑っていた。そして突然、恐ろしく大きな音を立てて机を叩いた。やっと意味が分かったのだ。やつは広告をほかの生徒からむしりとると、それを見て、びりびりに破り始めた。
 僕はミス・ターナーの反応を見ていた。彼女の顔が赤くなった。それから目の端に映っていたダレンの頭が、ゆっくりと僕のほうを向くのに気づいた。
 ミス・ターナーが言った。「やめなさい、ダレン。紙切れを拾って。ジェフリー、発表ご苦労さま」
 放課後、自転車置き場に何人かの生徒がたむろしていた。ミシェルもいた。タバコを吸っている。ピーターは、ポケットに手を突っ込んだまま、顔は笑っているが居心地が悪そうだ。僕が通りかかるとミシェルが声を上げた。「あっちを見てみな、ジェフリー」振り返ると、ダレンが自転車小屋と壁に挟まれた暗い空間からぬっと現れた。こぶしを握り、頭を低く下げてこっちに向かってくる。絶好の機会とばかりにさっきの仕返しをするつもりらしい。
 僕はダレンを見ていたが、おまえなど目に映っていないという顔をしていた。ダレンがどんどん近づいてくる。「よけろ!」という声が頭の中に響いた。僕はすっと脇によけた。ダレンは一度通り過ぎると、振り返ってまたこっちに向かってきた。今度は「足をかけてやれ!」という声が響いた。
 やつが近づいたとき、僕は足を前に出した。ダレンはつんのめって転んだ。やつが起き上がる前にパンチを繰り出そうと思えばできた。
 だけど僕はそうしなかった。ゆっくりとこぶしを戻した。後ろでミシェルが叫んだ。「なんで一発かまさないんだよ!」
 ダレンが起き上がって殴ってきた。「だれが貧弱な脳みそだよ! このクズ野郎!」僕は倒れた。星が頭の中を舞った。流星みたいだ。音もなく、ゆっくりと、星が降ってきた。まるで、僕のためだけに用意されたプラネタリウムみたいに。流星が降り終わると、暗くて静かになった。すると暗闇の中に、今度は光が見えた。まぶしい赤い目が光っている。しばらくの間、その目は僕を見つめていた。瞬きもせず、じっと僕を見ていた。そして急に消えた。後には真っ暗闇が広がっていた。僕は倒れていた。ダレンに殴られ、突き飛ばされ、冷たくて固い地面に横たわっていた。
 

「ブレージング・スター」7   狼~ブラックホール

 狼
 
 
 シャツにはまた血がついていた。家に帰ると、おばあちゃんに見つかる前に二階に上がった。シャツを水で洗うと、電気ストーブの近くに干した。それから、ジーンズに履き替えて一階に降りていった。おばあちゃんはキッチンのテーブルでビスケット
を食べていた。消化吸収のよいビスケットをマグカップの紅茶に浸し、ぶよぶよになってくずれそうになるのを、溶け落ちる前に口に運んでいた。
「今日は入れ歯の具合が悪くてね。おまえはいいねえ、自分の歯があって」
 おばあちゃんのマグカップの横に大きなレジ袋がある。おばあちゃんはビスケットを食べながらにこにこしている。
「今日はビンゴで勝ったんだよ。アイビーと山分けさ。アイビーも自分が勝ったときにはおばあちゃんに分けてくれるからね。それでもおまえのシャツを買っておつりがきた。さあ、開けてごらんジェフリー。ガーラ・ナイト用だよ」
 僕は気がすすまないまま袋をあけた。胸の部分に二重フリルがついた、ダークレッドのシャツが出てきた。
「こんなの着れないよ!」
「きっと素敵だよ、ジェフリー。ほら、あの、なんとかっていう映画に出てた、ダンスが上手くて女の子にもててた、あの俳優みたいになると思うよ。ちょっと着てみておくれ」
 忘れていた。おばあちゃんは、自分の服はともかく他人の服を見立てることにかけては、いいセンスをしているのだ。
僕はシャツを着て、ガーラ・ナイト用のズボンを履いた。そして、シミが点々と付いた鏡に自分の姿を映し、あっと声を上げて後ずさりした。シャツについたフリルのせいで、僕は僕じゃないみたいに見える。背が高く、体もがっちりとして、本当の大人の男みたいだ。
僕は体の向きを変えてみた。くるりと回ってみた。小さくダンスのステップを踏んでみた。そしてアイビーの言葉を思い出した。「眼鏡も素敵よ。知的な感じで」眼鏡も、おばあちゃんがガーラ・ナイト用に特別に買ったダーク・ブラウンのフレームのがあった。僕はそれをかけてみた。鼻の上にしっくりとおさまった。それから、歯を見せて笑ってみた。
一階に降りていくと、おばあちゃんは椅子に座って、かたっぽの足をもう片方にのせて両手でさすっていた。
「また新しいウオノメができちゃったよ。おまえも、自分の足はきちんと管理しとくんだよ、ジェフリー」
 言い終わるとおばあちゃんは僕を見た。そして片方の足を床に戻して、しばらく何も言わなかった。おばあちゃんは僕を見つめて、ナッツかルバーブを食べていて胸につかえたときみたいに、両手を胸のあたりに持っていった。
「成長したねえ、ジェフリー」沈黙のあと最後にぽつりと言った。「本当に、立派になった。とても似合うよ。だけど、おまえはどう思う?」
「まあ、悪くないよ」僕は少し困ったような顔をして肩をすくめた。
「そう、じゃ慣れるしかないね」とおばあちゃんは言った。「まあ悪くないってどういう意味だい。おまえのその姿を一目見たら、みんな素敵だって言うさ。そんな嫌そうな顔しないでおくれ。あと、赤のウエストベルトがあれば完ぺきだよ」
 僕はもう一度肩をすくめて、めんどくさそうにリビングをあとにした。二階に上がって、もう一度鏡に自分の姿を映してみた。鏡にシャツの赤が反射した。一瞬、違うものが映ったような気がした。まぶしい光の奥に、気高い姿があった。点々とシミのある鏡の中に、インディアンがいたのだ。頬に赤い縞(しま)模様が描かれている。投げやりを太陽に向かって高々とかざしている。僕は一瞬、インディアンの目を見た。それからまばたきし、少し目をそらした。そしてもう一度鏡のなかをのぞき込んだときには、そこには、僕しか映ってなかった。
 夕食のあと、僕はおばあちゃんに言われて、ブーツ薬局に新しいウオノメ用のばんそうこうを買いにいった。店を出ると、通りはがらんとしていた。空の、ちょうど僕の頭の上あたりに、薄くて赤い円盤状の光があった。ベテルギウスほど鮮やかではないが、僕に見つかるのを待っていたんだと思わせるには十分な明るさだった。そのころには灰色の雨が降ってきて、光は少しずつ消えていった。
 僕は顔にかかった雨のしずくをぬぐった。不意に雨が、銃弾のように降り注ぐ雪に変わった。雪の勢いはどんどん強くなる。僕の頭の上にも肩にも、ずんずん降り積もる。降りしきる雪の向こうに、雪の重さでたわむ木々が見えた。木々の後ろには、黒い灰色の空が張り付いている。そんな景色を見ていると、声がした。
「マジックアイズ! マジックアイズ! おまえか?」
「どこだい?」僕は叫んで辺りを見回した。そして、恐怖で雪の上に倒れこみそうになった。
 目の前に狼がいた。牙をむき出し、耳をそばだて、大きな尻尾をかざした狼だ。狼の顔は僕の目の前で大きくのけぞり、ぐらっとゆがんで後ろに崩れ落ち、ブレージング・スターのやせた顔が現れた。
「来たのか!」彼は笑った。だが痛々しい笑顔に胸がつぶれそうになった。顔色は黄褐色で活気がない。火ぶくれとあかぎれのできた皮膚。頬骨もめだつ。
「一緒に来てくれ、マジックアイズ。いいか? 今日はバッファローをしとめるんだ。みんなを飢え死にさせられない」
 吹雪が顔の周りに、まるで氷の火柱のようにまとわりつく。僕はゆっくりとブレージング・スターに歩み寄り、冷たい右手を伸ばして彼に触れた。それから、荒くれ狼を殺して作った毛皮の下にもぐり込み、二人で森を進んだ。やせ馬が草を求めて雪をヒヅメでかいていた。鳥が冷たいかぎつめを空に向けて死んでいた。川は凍りつき、枯れた木々もまるでツララのように凍っていた。谷に着いたとき、雪はひざを埋めていた。骨まで染みとおる冷たさのなか、僕はぼんやりと考えていた。このまま飢えて凍え死ぬんだ。春になって僕たちの服に張り付いた雪が解けたら、凍った僕たちの体が地表に出るんだ。
「これ」僕はチョコレートをブレージング・スターに渡した。
 また胸がつぶれそうになった。彼はチョコレートを注意深く二つに割ると、凛(りん)とした表情で大きい方を僕に渡した。僕は食べないわけにはいかなかった。
 狼の毛皮の下で、僕たちはかがんだまま時を待った。顔が痛くてしゃべれない。雪の中でうずくまっていると、やがて視界がはっきりしてきた。そして僕たちの目の前に、バッファローの姿がくっきりと浮かび上がった。吹雪の前にここに移動してきたんだろう。雪の中でそのがっしりとした体を寄り添わせたバッファローの群れは、まるで雪にうずもれた幽霊船団のようだ。
 仲間から少し距離をおいた一頭がいた。両肩が下がっている。年老いているようだ。それともそう見えるのは、体中を覆っている白い雪のせいだろうか。ブレージング・スターがゆっくりと弓を構えた。照準圏内だ。弓がしなると、不意にバッファローが顔を上げた。巨大な頭がこちらを向く。心臓がじわじわと高鳴る。いま群れが動いて散らばれば、もうこの狩りは失敗だ。
 だがバッファローは再び頭を下げた。草を求めて一生懸命雪をかく。同時にブレージング・スターが弓を引いた。
 音もなく矢が飛んだ。雪の上を横切るその影さえ一瞬だった。そして音もなく、バッファローの大きな体が崩れ落ち、血が雪の上に赤い斑点を作った。ほかのバッファローたちがいっせいに動き出した。地表の雪が散乱し、舞い上がる。雪をまとった彼らの巨体が大地を踏み鳴らし、雪を蹴散らし、足を滑らせながら、走る。
 やがてバッファローの群れがいなくなり地響きがおさまった。ブレージング・スターは黙って前方を見つめていた。それから彼は僕の手を取り、空に高々と上げた。弱った体で力いっぱい声を張り上げる。「お聞き下さい。空と大地の力よ。お聞き下さい。天上と地底の民よ。今日の獲物をありがとうございます。私たちが春まで生き延びられることを祈ります」
 ずいぶん経ってからキャンプに戻った。その頃には大分暗くなっていて、雪の寒さなど問題にならないくらい空気は凍りついていた。生の空気はまるで、金属をそのまま吸い込んでいるように肺に痛かった。切り分けて手提げ袋に入れたバッファローの肉は、百人もの死人の肉を運んでいるように重かった。
 誰も出迎えに来なかった。遊んでいる子どももいないし、太鼓をたたく者もない。かすかな煙がテントから上っているだけだ。生きているものは誰もいないような、まるで、生きているのはブレージング・スターと僕だけのような静けさだ。やがて人影が夜の闇から現れ、ブレージング・スターの手を取った。僕の手が取られているような感触があった。
「息子よ」影は言った。「間に合ったな」
 ブレージング・スターのお父さんだった。がい骨のようにやせ細っている。二つの目は、まるでドクロに開いた黒い穴みたいだ。だがその目の奥には、凛(りん)とした強さと優しさがあった。彼は、ブレージング・スターを通してまっすぐに僕を見ていた。
 僕の手を握る手に力がこもった。北の空には、ペガサスが雄々しく前足を上げた姿が四角い星座を形作っていた。ペガサスの、下ろした後ろ足付近には、まるで分厚い大きな黒いマントを幾重にも重ねたような夜の闇が迫っていた。
 その黒いマントが僕を包み、目の前がぐるぐる回り始めた。僕は何か言おうとしたけど言えなかった。頭に浮かんだのはこんな言葉だったのだ。「父さん?」
 
 
 その夜、僕はまた父さんの夢を見た。父さんは旅立つ準備をしていた。それは、本とかポットとか鍋とか、そんなものを荷作りしているという意味ではない。僕の目の前で、父さんの体が少しずつ砕け散って消えていくのだ。最初は目、それからウェーブのかかった前髪、それから、大きな灰色の岩石を抱えた手。
 最初は、そんな光景をただぼーっと見ていた。「すぐ帰ってくるよね? 父さん」僕は言った。そうしたら父さんの笑顔が消えて、凍えるような寒さがやってきた。僕は叫んだ。「父さん! 父さん! 帰ってくるよね!」だけど、父さんの体の断片はどんどん消えていく。あとには僕だけが残された。僕は、泣き続けていた。
「どうしたの? ジェフリー。またあの夢を見たのかい?」
 おばあちゃんが部屋に来て、僕の髪をなでてくれながら言った。入れ歯をしていないおばあちゃんの顔は、よぼよぼで皺(しわ)だらけの年取った赤ん坊みたいだった。
「分からない」僕は枕に顔を埋めながら言った。
「またあの鳥だったのかい? そうだったのかい?」
 おばあちゃんはベッドに座って手を腰に当てていた。僕は黙っていた。口に出せば、夢に見たことが現実に近くなりそうだった。
「お父さんとお母さんだったの? ジェフリー。大丈夫だから話してみて」
「なんでもない」僕は言った。「なんでもないよ」
 おばあちゃんはヘアネットをたくし上げて、出てきていた髪の毛を中に入れた。「そう? だったらいいけど」おばあちゃんは言った。「とにかくここにいるよ。おまえのそばにね。また恐い夢を見るといけないから」
 おばあちゃんはベッドの端にゆったりと体を落ち着けた。救いだったのは、おばあちゃんは迷惑そうじゃなかったことだ。そうすることが嬉しそうだった。困ったことに、僕も嬉しかった。
 あの鳥がまた夜中にやってきた。大きな真っ黒いタカだ。空を滑空し、どんどん大きくなり、どんどん黒くなり、どんどん低く飛んでくる。やがてタカは地面に激突して消滅する。僕も一緒に消滅したかと思う。そして叫びながら目を覚ますのだ。僕はベッドの上にいた。
 眠るときはおばあちゃんと一緒だったのに、起きたときは一人だった。おばあちゃんは階下で忙しく動いていた。「朝ごはんよ、ジェフリー」とだけ言うと、きりっとした目で僕を見た。「今日はダンスだからね。ちゃんとダンス用のエネルギーを取っとくんだよ」
 学校では、バカな奴らがほざいていた。「かかってこいよ! パンくず野郎!」休み時間にはいやでも外に出なければならない。たとえ今日みたいに雨が降りそうで、息が白くなるような寒い日でも。僕はポケットに両手を入れて壁に寄りかかっていた。ミシェルがふらふらと近づいてきた。立ってしばらく僕を見ていた。鼻にピアスをして、指輪をした指の爪に黒いマニキュアを塗っている。明るい色の赤毛はつんつんに立っている。そんなミシェルのなりを見てない振りをしていると、彼女はポケットに手を突っ込んで何やら取り出した。
「タバコ吸う?」
 ミシェルは包みを僕のほうに突き出した。僕はびっくりして口をあんぐり開けた。
「え?」
「タバコだよ。吸うだろ」
「いいよ」僕は、おばあちゃんにビンゴのことを注意しているときと同じようにまゆをひそめて言った。「タバコは体に良くないよ」
 黒い革の袖から垂れ下がっている変な形の飾りを風になびかせながら、ミシェルは口をぽかんと開けた。
 それから彼女は、にっと笑った。僕は腕組みをしながら顔をこわばらせてミシェルを見た。こいつ、僕を厄介なことに巻き込もうとしているんじゃないだろうな。そんなのはごめんだよ。
 やがて彼女の笑顔は消え、「は!」という、かん高い笑い声に変わった。その声を聞いて何人かが僕たちのほうを見た。ミシェルが言った。「あんたって変わってるね、ジェフリー。自分がちゃんとあるっていうか。人にどう思われようが、知ったこっちゃないって感じ」
 彼女はタバコをポケットに仕舞った。「じゃあ、ジェフリー。またね。チャオ」
 それからは、もう誰も僕に変なことを言わなくなった。放課後、自転車置き場の小屋沿いに歩いていると、ミシェルがいた。フェンスに寄りかかっている。タバコをふかして煙の輪っかを吐いていた。僕のことは目に入っていないようだ。僕はすぐさま向きを変えて違う道から帰った。遠回りしたせいで家に着くのが遅くなった。
 おばあちゃんは出掛けていた。僕は二階に上がって、履き古したジーンズに着替えた。窓の外を見た。ジュピターも月も見えなくて、雲が渦巻いていた。見ている間に雲は大きく黒くなっていった。それは、空にのしかかるように飛ぶ大きなタカみたいだった。静かに羽ばたき、僕のほうに迫ってくる。
 やがて僕の頭の中に、不気味な音が響き始めた。ドーン! 激しい衝撃音! 僕は窓ガラスに頭を打ちつけながら叫んでいた。「やめろ! 放っておいてくれ!」
「ジェフリー! ジェフリー! 大丈夫なの?」
 おばあちゃんが一階から叫んだ。ちょうどタカが静かに地面に突っ込み、夢の世界に消えていったところだった。
「大丈夫だよ」僕はそう言ったが、しばらく動けなかった。
「教会の婦人会に行ってたんだよ。司祭は顔を出さなかったけど。ケーキを持って帰ってきたよ。食べるだろうと思ってね」
 おばあちゃんは廊下で帽子をぬいでフックにかけていた。僕が降りていくと、僕の腕に手を回して言った。「ケーキが手に入ったのはラッキーだったよ。さあ、食べなさい。まったくみんな、年寄りのくせに食い意地だけは張ってるんだから。まるでカツオドリの群れだよ」
 夕食が終わると、おばあちゃんはレコードをかけ、僕たちはウォーミングアップにソーンターを踊った。おばあちゃんはポンポンの付いたスリッパをはいて踊っていたから、いつもより背が低く感じられた。動きもいつもよりぎこちない。そんなことを考えていると、おばあちゃんが死んじゃったりしないかなと、また胸の奥がもやもやしてきた。
「おばあちゃん、体の調子はどう? 大丈夫?」
 おばあちゃんの鼻息が荒くなった。「なんでそんなこと聞くんだよ。大丈夫に決まってるじゃないか。なによ。今日はリップを塗ってないだけだよ」
 ウォーミングアップのソーンターを終えると、おばあちゃんは二階に上がってダンスシューズを履いてきた。「さあ、ジェフリー。これでしっかり練習できるよ。私たちきっと、スポットタイムで賞を獲れるわ」
 おばあちゃんは「アンフォゲッタブル」をかけた。二拍待ってスタートする。おばあちゃんが一つ一つの動きに指示を出す。
「すばらしいわ、ジェフリー」練習の半ばでおばあちゃんが言った。「フェザリングがずいぶんさまになってきた。でも、ウィーブのとき、自分の形をちゃんと見とかないと」
 僕たちはずいぶん遅くまで踊ってから練習を終えた。おばあちゃんは座って息を整える。「もう少しで本番ね」おばあちゃんが言った。「魚のクリームパイが出るわよ、ジェフリー。それから手長エビのカクテルサラダもね。高級サーモンかサーロインステーキも出るわ。デザートはプディングと、スポンジケーキのカスタードクリーム添えあたりかしら。スポットタイムの賞品は、だいたいいつもチョコレートの大箱よ。それから富クジ。ワインとか、タイツなんかが当たるの」
「そう」そう言いながらも、僕はあまり気が乗らなかった。だいたい、楽しみにしているほど、実際のものは良くなかったりする。おばあちゃんのがっかりした顔は見たくない。
 ココアを飲んでから二階に上がった。そしてもう一度、シミのある鏡をのぞき込んだ。たぶん気のせいだろう。それとも、いつもより背筋を伸ばして立っているのかもしれない。鏡の中の僕は、確かに背が高くてたくましく見えた。それでも、ベッドに入って眠るときは死ぬほど恐かった。またあの恐ろしいタカの夢を見るような気がして。
 夢の正体はブレージング・スターとつながっている。そんな気がした。
 
 
 
 ブラックホール
 
 次の日、僕のところに寄ってきてからかう奴はいなかった。ダレンさえもう僕には近づいてこない。歴史の授業のとき、ミス・テイラーはまたモーツァルトをかけた。今日のは協奏交響曲の中盤部分だ。だけど僕は口に出さなかった。黙ってほかの奴らのとまどい具合を見ていた。みんな顔をゆがませながら、何か様子が変だぞと思いながらも、ミス・テーラーの思惑にはまっているようだった。
 昼食時になると、ミシェルがゆっくりとやってきた。チューインガムを噛んでいる。「ガムいる? それとも、ガムは体に良くない? ジェフリー」
 僕は肩をすくめて一つもらった。ミシェルは壁に寄りかかった。ほかの生徒たちは、どうなっちゃてるんだとばかりに、僕たちを見ている。二人とも何もしゃべらないで一、二分、そうしていた。ミシェルがガムを口からヒモのように伸ばして、また戻した。
「夜って、何してる?」
 僕はまた肩をすくめて黙っていた。ミシェルは大きな灰色のガム風船をふくらませて、舌の上で割った。
「おばあちゃんの手伝いとか?」ミシェルが聞いた。
「まあね」ちょっとしかめっ面をして、そう返した。
「何するんだ?」もう一度ミシェルが聞いた。
「ダンスだよ」そう言って目をそらした。ミシェルがどんな反応するか見たくなかったからだ。
「冗談! ダンスって、クラブとかで踊るあのダンス? だって、おばあちゃんいくつよ!」
「関係ないだろ」僕はうんざりして言った。
 ミシェルはガムを噛むのをやめた。驚いたふうだった。「そりゃそうだけど。へえ、おばあちゃんとダンスなんてカッコイイじゃん。アタシそんなのやったことないよ。どんなダンス?」
 話せばどんな反応をされるか分かっていた。頭の中で警鐘(けいしょう)が鳴っていた。それでも話した。そうじゃなきゃ、おばあちゃんのことを恥ずかしいと思っていることになってしまうような気がした。
 話してしまうと、ミシェルは口をあんぐり開けて僕をみつめた。口の中のガムが丸見えだ。それから彼女は、頭を後ろにのけぞらせて笑った。昨日と同じような笑い声だ。いや、昨日よりもっと大きく、長く、下品だった。
 笑い終わると、ミシェルは僕の肩をばしっとたたいた。まだ顔はくしゃくしゃで真っ赤だった。「あんた、どうかしてるんじゃないの、ジェフリー。ほんと、変なやつ。だけど、面白いね。あんた、すっごく変わってるよ。めったにいないタイプ。そうそう、そのフォックストロットての、アタシにも教えてくれよ。面白そうじゃん。おばあちゃんなら、教えられるかな」
 僕は、ミシェルが黒いマニキュアと鼻ピアスをつけたまま、真っ赤な髪の毛をつんつんに立てて、ダンスを踊る猫の置物と花模様のレースカバーをかけたソファがある、うちのリビングにいる図を想像してみた。
 僕は何も言葉を返さなかった。ただ何て言ったらいいのか分からなかったからだ。すぐにミシェルはふらふらと僕から離れていった。早速みんなを呼んで僕をバカにするだろうと見ていたが、何もしなかった。ただ教室の隅から、意味深で変な笑いを僕に投げかけていた。
 放課後、家に帰ろうと歩き出した。もうすぐ家に帰りつくというとき、何かを感じた。最初は、確かな視線というほどではないぼんやりしたものだった。それから突然、やっぱり誰かに見られているような気持ちになった。僕は空を見上げた。あの赤い星は出ていない。そこには、張り詰めたような白い月が、いつもより大きく光っていた。放たれる光は僕の頭の中に波のように迫ってくる。僕はゆるゆると降り注ぐ光のシャワーから逃れることができなかった。一、二秒の間、僕は通りで身じろぎもせずグリーン・ミルのネオンを目の前に見ていた。するとすぐにそんな風景がまぶしい光の中に消え、突然、ブレージング・スターが目の前に現われた。
 
 僕は、ブレージング・スターと一緒に林の中にいた。何人か若い男たちも周りにいる。彼らは小さな声で歌っていた。ブレージング・スターも、僕を見ながら歌を続けている。歌いながら彼は、パイプと、茶色い小動物の傷んだ革を手でいじっていた。首には、また違う動物の頭蓋骨でできた飾りをかけている。顔には、三日月と星が描かれていた。
 回りは暗く、月はとても大きかった。頬骨の浮き出た若者たちのその緊張した小声や表情から、何か大変なことが起こりそうな予感がした。ブレージング・スターが無言で僕のほうに歩み寄り、静かな声で言った。「今日は馬を二頭手に入れる。マジック・アイズ、おまえが来てくれたから、三頭手に入るかもしれない」それから彼は静かに立ち上がった。長身の彼の頬は、月の光を受けてほのかに光っていた。頭に付けた白い羽根飾りが、まっすぐ上に伸びていた。
 どこからか合図があると、歌が突然すぱっと止まった。ブレージング・スターが、ついて来いという仕草をする。僕たちは、湿り気のある冷たい夜の闇を、音を立てずに進んでいった。立ち止まると、月はさっきより薄くなり、空は銀色に蒼ざめていた。長い草の上に夜露が乗っている。僕たちの目の前に、キャンプがあった。とんがったテントがいくつかあり、テントの前には、やせた茶色の犬がいた。若者が何人か、ゆっくりと注意深くキャンプに近づいていった。犬が一匹ほえ始めた。若者が何か投げると、犬の鳴き声は止んだ。残りの若者と僕たちは、静かに先陣の若者たちに合流する。
 僕たちは、馬を盗もうとしているのだ。僕はブレージング・スターのほうを振り返った。今日はやめにしよう。そう言ってくれないかなと思った。僕たちはたった八人。テントは少なくとも三十はある。空が、夜明けのピンクに変わる。僕はブレージング・スターとテントに近寄る。テントの外には馬が一頭、杭につながれていた。
馬は実に堂々としている。大きくて白い。にごりのない黒い目で僕たちを見ている。ブレージング・スターが素早くロープを切った。馬は素直に僕たちについてくる。とてもおとなしい。別のテントに近づき、ブレージング・スターは同じように馬のロープを切った。
 僕は恐くて、足ががくがくしていた。空が少し白んでくる。もうそろそろキャンプの人たちが起きる頃だ。早く安全な場所に逃げなくては。だけどブレージング・スターは僕を見て、白い歯を見せて笑った。
 彼は小声で言った。「今度はおまえの馬だ。いいな? マジック・アイズ」そして僕の手にナイフを握らせる。ほかの若者もそれぞれ馬を引いていた。テントの中で誰かが咳をした。それから、低いつぶやき声がした。
「やばい!」僕もつぶやいた。「どうか生きのびさせてください」
 僕たちは、別のテントの馬を狙うことにした。「急げ。マジック・アイズ。月があるうちに」
 僕は震える手でナイフをロープにあてがった。馬は小さくヒヅメを鳴らした。音が聞こえたか。テントの中から声がした。さっきより高い声だ。気づかれたか。この馬は素晴しかった。漆黒の引き締まった体に、競走馬のような細くて長い足。鼻の上に流星模様がある。手に入れたかった。でもロープが切れない。あせればあせるほど上手くいかない。気がつけば、キャンプに残っているのは僕たちだけだった。できるものなら、今すぐナイフを放り出して、あの丘まで走って逃げたかった。
 だけどそんなことはできない。ブレージング・スターが、彼より勇敢であれと僕を見守っている。僕は必死でロープに挑み続けた。突然、馬は解き放たれ、僕たちは、前の二頭とともに馬をキャンプの端まで誘導していった。
 テントの布がめくれ上がり、黒い目が覗いた。そして突然、血も凍るような恐ろしい雄たけびが上がった。
 ブレージング・スターは馬に飛び乗った。僕は自分の馬の黒いわき腹を引っかくばかりで足を上げることができない。男たちがテントからあふれ出てきて、長い鋭いナイフを手に追ってくる。
「急げ!」ブレージング・スターが叫んだ。「よじ登るんじゃない。ジャンプしろ! 友よ!」
ホントにダメなやつ! 自分で自分をののしったとき、馬のスピードが少し落ちた。体の向きを変えて逃げるつもりか。そして馬は後ろ足二本で立ち上がった。気高く光る黒いペガサスみたいだ。馬の背中が地面に近づく。時間が止まったようだった。馬は永遠に足を上げているような気さえした。完ぺきな沈黙のなか、馬のつややかな毛皮が、空を背景にオレンジ色にも金色にも輝く。
僕は馬の背中にしがみつき、すがるようにそのたてがみに食らいつく。喉から突き上げてくる気持ち悪さと戦いながら、必死でブレージング・スターの後を疾走した。
太陽を背にしてずいぶん走った。どのくらい走っただろう。気がつけば、回りは見わたす限り、やぶと草むらと曲がった茶色の木々の景色だった。体はがちがちにこわばって痛かったが、気持ちはほぐれてきた。
僕は馬から降りた。膝が笑っていた。僕は馬のわき腹をなでた。馬の体のあちこちからは白い汗しぶきが飛び散り、荒い息が馬の鼻を通りぬけていた。だが馬は、僕になでられるがままになっていた。
「おまえの馬だ。友よ。永遠にな。おまえが望むとき、こいつはいつでもそこにいる」
 ブレージング・スターはまだ馬の上にいた。長い髪をなびかせ、神々しいまでに凛として。頭に付けた羽根はまるで王冠のようだった。顔に描かれた月と星の絵も、赤くつややかに光っている。
 僕もあのフリル付きの赤いシャツを着ていたら、ブレージング・スターと同じように立派に見えるだろうかと、バカな考えが頭をよぎる。だがもう一度ブレージング・スターを見たとき、そんな考えは一瞬にして消え、変わりに、恐ろしいまでの悲しさに襲われた。ブレージング・スターは、僕から少しずつ離れていく。そんな気がした。彼は会うたびに年を取っていく。もうじき、友だちと呼ぶにはずいぶん年が離れてしまうだろう。
 僕のそんな気持ちを見透かしたように、彼はふいに腕を伸ばし、僕の肩に手をかけた。「友よ」穏やかな声で言う。「もうすぐ、俺たちは会えなくなるだろう。だが、この次はすぐだ。俺には分かるんだ。じゃあな。友よ。おまえの馬のことを忘れるな」
 
 僕は次の日、また自分の馬を見た。朝だった。馬を捜していたわけじゃない。だけど馬は、白日夢のなかに現われた。夢のなかでは雪が降って、僕は父さんと一緒に雪かきをしていた。家の周りの道路を雪かきしながら、僕たちはお互いのシャベルの音を聞いていた。空は明るい灰色をしていた。雪はまた降ってくるだろう。だけどなぜか心地いい。空と雪がまるでブランケットのように僕たちを包み込み、守ってくれるみたいな気がする。
 母さんがマグカップに入れたココアとトーストを運んできてくれた。庭でピクニックだ。幸せで安全で、悪いことなど何も起こりそうになかった。
 夢のなかで笑おうとしたら、あのタカがやってきた。灰色の空を見ているうちに、タカはどんどん近づいてくる。羽ばたきの音がする。それは羽ばたきというより、エンジン音に近くなる。頭の真上まできたとき、音は一瞬消える。この後には衝撃音がくるのが分かっていた。僕は上掛けの下で縮こまって怯えている。だけど衝撃音は聞こえず、変わりに、あの馬のひずめの音がした。たぶん僕が呼んだんだろう。ともかく僕は馬に乗り、空を飛んでいた。どこに飛んでいくつもりなのか、僕にも分からなかった。そしておばあちゃんの声を聞いた。
「ジェフリー! ジェフリー! 早くしなさい。遅刻するよ!」
 僕は一階に下りていっておばあちゃんに言った。「なんで起こすんだよ。せっかくいいとこだったのに」
 おばあちゃんは、むっとしたみたいだった。コンロの熱でほてったピンク色の顔で、オートミールを注ぎながら言った。「そりゃあ、悪かったね。さあ、とっとと食べちゃって。文句はいいから」
 食べてるとおばあちゃんが言った。「明日はガーラ・ナイトだよ、ジェフリー。それでね、そのとき、アイビーともダンスしてくれないかい? ソーンターかスイング・タイムあたりで。一曲だけつきあっておくれ。アイビーきっと喜ぶよ」
「OK」僕はぼそぼそと言った。
「それでね、おばあちゃん昨日、おまえにウエストベルトを買ったんだよ。夜にでも試着してみておくれ。サイズはちょうどいいと思うけどね。おまえのウエストはすっきりしてるから。おばあちゃんと違って」
「おばあちゃんは素敵だよ、ウソじゃない。すごく素敵だよ」僕は言った。おばあちゃんの声音が、元気なく聞こえたからだ。
「さあさ、支度して」おばあちゃんの声が明るくなった。でも喜んでいるのを知られたくないようだ。おばあちゃんは後ろを向いてオートミール粥を少しぶっきらぼうにつぎながら言った。「おまえはその気になれば、本当にもてる男になるだろうよ。だけど覚えておおき、ジェフリー。口の上手いのもいいけど、下心があっちゃ台無しだってことをね」
 学校に着いたら、ダレンが一人で、壁を背にして立っていた。平気そうに装っていたが、どうやら、ほかの生徒がやつを見て笑ったり横腹を突つきあったりしているのを気にしているようだ。僕がダレンの横を通り過ぎようとしたとき、生徒の一人がダレンに言った。「自転車で転んだ? おまえ、自転車なんか持ってないだろ。ウソつくなよ。おれたちはだまされないぜ」
「だれだよ。だれにやられたんだよ。言ってみな。笑ったりしないから」
「だれにもやられてねえよ! 言ったとおりさ。自転車で転んだんだ」
「まだ言ってるぜ。ごまかせると思ってんのかよ」
そいつらは、ダレンや僕が校舎に入るまでずっとそんなふうに言い続けていた。僕はダレンの顔をちらと見た。やつの左目のあたりが、紫みたいな黒みたいな赤みたいな色になっていた。やつは僕を見て、ぶっきらぼうに、脅すような顔をして見せたつもりらしいが、まぬけ面にしか見えなかった。
だれも僕をからかおうとしなかった。一日中そうだった。国語の時間にミス・ターナーが「ジェフリー、この前のパンの広告の宿題を返します」と言った時も、誰かが小さい声でぼそぼそと「やったね、筋肉マン」と言ったきりだった。
僕はまっすぐ家に帰った。家に入ってすぐ電話が鳴った。ブライアンだった。「出て来られるかい? 今日はすごいぞ。獅子座流星群だ。今夜はきっとよく観えるよ」
「もちろん行くよ」僕は受話器を置くと二階に上がってジーンズに履き替えた。
 おばあちゃんに出かけることを言った。「ブライアンも奥さんも、本当にいい人たちだねえ。さあ、じゃあ出かける前に、これだけ試してみておくれ」
 おばあちゃんは、赤いウエストベルトを袋から取り出すと、僕のウエストに巻いてくれた。そして少し後ろに下がって、大きなため息をもらした。「まあ、いいわ。すごく似合う」僕はおばあちゃんにハグをした。僕はここにいるのに、なんだかおばあちゃんがなごりおしそうにしていたからだ。
 ブライアンがやってきた。ジャンパーにスープのシミがある。黄色の点々はたぶん卵のシミだ。
ドームに着いたら、もう望遠鏡は空に向いていた。肉眼で見ただけでは、何かぴかっと光るものが暗い夜空をさっと横切ったくらいにしか見えないが、望遠鏡を通すと、その光はまったく別のものに見える。まるで、銀色の雨がざーざー降っているみたいだ。やがて雨は風を切る銀色の閃光になる。天界の花火だ。神が笑っている。家のなかで『コロネーション・ストリート』を見ていたり、デザートを食べていたり、十時のニュース番組を待っている人たちが気の毒に思えてくる。
二回目に望遠鏡をのぞいているときだった。輝く閃光のたてがみをなびかせた獅子座の放射点にある星の一つが、赤に変わった。銀色だったのが赤に変わったのだ。回りの星たちがどんどんが流れるなか、その星だけは、流れ落ちるのをやめた。そして急に、光源が消えたように、その星はなくなった。あとには、大きな黒い穴が開いていた。考えられるどんな黒い色より黒く、この世で一番暗い夜よりも暗い。
夜空ではまだ流れ星が続いていた。ブライアンが「おお」とか「ああ」とか声を上げている。だが僕は、突然心臓の辺りが砕け散るような感じに襲われ、体を曲げて胸を押さえた。
「だいじょうぶかい? ジェフリー!」ブライアンが案じて声をかけてくれた。
「ただの指し込みだよ、心配ない」
「そうかい、だったらいいけど」ブライアンは再び星に目を移した。
 それから、痛みは少しおさまった。僕はなんとか帰る時間まで持ちこたえた。僕はブライアンに、フライドフィッシュの店で降ろしてくれるよう頼んだ。
「星を観ていると、おなかもすくよね」
 ブライアンは暗いなかで白い歯を見せて笑った。僕は車のドアを開け、彼に会釈して車から降りた。だけど僕はフライドフィッシュの店には行かずに、灰黒色の空の下を歩いた。落書きされたぼろぼろの家家を通り過ぎ、つぶれて板で囲われた店の前を通り過ぎた。歩きながら、心を落ち着けようとしていた。あの黒い穴はなんだったのだ。僕が忘れてしまった何かのような気がする。この胸の痛みは、ブレージング・スターに関係しているかのようだ。その痛みこそが、僕たちを本当に血を分けた兄弟のように結び付けているのだ。
 そのうち僕は、電灯も壊れた、うらぶれた駐車場にたどり着いた。月も雲に隠れてしまった。
 後ろで足音がした。どすどすと僕に近づいてくる。僕が足を速めると、その足音も速くなった。テレビで見たある番組を思い出した。犯罪被害に遭った人たちの特集だ。ほかの人たちは家で夕食を食べながらそんな番組を見て言うのだ。「そんな時間にそんなところにいるからだよ」
 僕は走り出した。もうすぐ道路だ。道路に出れば人もいるし車も通っている。そのときだった。手が伸びてきて僕の肩をぐいとつかんだ。僕は恐怖でその場に凍りついた。

「ブレージング・スター」8   ミシェルとダンス~血を分けた兄弟

 ミシェルとダンス
 
 
「ばっかじゃないの? なに逃げてんのさ!」
 暗闇の奥から、ミシェルの声がした。僕は頭だけ振り返ってミシェルを見た。だけど彼女はまだしっかりと僕の肩をつかんでいる。力いっぱい押さえつけておきたいのかと思うほどだ。
「何なんだよ」僕は言い返したが、か細い声は震えていた。
「何よ。アタシが襲ってくるとでも思ったの? それはそれはどうも。光栄のいったりきたり」
 彼女はそう言って手を離した。僕たちはぼやっとした街灯の下につっ立って、息を切らしながらお互いを見ていた。ミシェルはまた例の黒い革のジャケットを着ている。たぶん湿気のせいだろう、彼女の真っ赤なつんつん髪はしなだれてきていて、まるで雨に濡れそぼったニワトリみたいだ。
 僕は笑った。緊張の糸が切れたのかまだ緊張してるのか。ミシェルはうさんくさそうな目で僕を見た。「なに笑ってんのさ!」
「なんでもない。ただ君の髪が……」僕は言った。
 ミシェルは鼻をすすって袖口で拭いた。「そう、そりゃどうも。笑いものにしてもらって嬉しいよ」
 それから僕たちは一息ついた。ミシェルは街灯によりかかって一つ咳をした。それから、ポケットからタバコの包みを出した。
「やる?」彼女は丁重に聞いてきた。「ああ、ごめん。忘れてた。あんたはやらないんだったね」
 ミシェルがタバコをくわえ、火を点けてゆっくり煙を吐き出すのを見ていた。街灯の明かりで彼女の顔は緑色に見えた。目のあたりは黒くて、コンセントの穴みたいだ。
「こんなところで何してたの?」しばらくして僕は聞いた。
 ミシェルは、顔にまとわりついたタバコの煙を、銀の指輪をじゃらじゃらつけた手で振り払って言った。「アタシ、この近くに住んでんの。叔母さんと母さんとね。母さんたちはほとんど家にいないから、アタシはだいたい一人なんだ」
「そうか」
「そう言うあんたは何してたの?」
「サットンに星を観に行ってた。ここで降ろしてもらったんだ。家に帰るとこ」
「星? どんな星?」ミシェルは聞くと、口を押さえてまた咳をした。
「タバコやめたほうがいいよ」僕は言った。「獅子座(レオ)流星群(ニーズ)。今日はそれを観にいったんだ」
「レオって誰? レオはいつ家に帰るの?」
「レオは流星だよ。一年のうちで、この時期が一番きれいに見えるんだ。何百もの星が流れていく。夜空に浮かぶかがり火か、星たちのお祭りみたいだ。見て。よく目を凝らすと、ここからでも少しだけど星が流れていくのが見える。あそこ」
 ミシェルは街灯から体を離した。革のジャケットがキューッと音を立てる。黒い水溜りみたいな目に一瞬光が灯ったが、すぐにまた消えた。
「え? どこよ。からかってんじゃないわよね」
「タバコを消してこっちに来て」
 ミシェルはため息をつくとタバコを地面に投げ捨て、大きな厚底ブーツで踏みつけた。そして、街灯の明かりが届かない僕のほうにやってきた。僕は空を流れる星星を指差した。豆粒ほどの飛行機が空を縦横無尽に行き来して遊んでいるみたいに見える。
「へえ」ミシェルは言った。タバコのにおいがした。「ホントに、へえって感じ。すごいね。誰がこんなの見つけたの?」
 彼女は首を伸ばした。両手の指で輪っかを作り、双眼鏡みたいに目のあたりに持っていった。「これって、本当のこと? ていうか、何これ。本当にいま起こってんの? だから、その、何て言うか、みんながパブに行ったり映画観たりしてるときに、外でこんなことが起こってるなんて、なんかすごい」
「毎年この時期に起こってることだよ。時期さえ知ってれば観られる」
「そうか。そうだね。あ、光が弱くなってきた」
「じゃあ、そろそろ家に帰ったほうがよさそうだ」
「もう少しだけ」ミシェルは双眼鏡の両手を解き、それから、ジャケットの脇についた二つの小さなポケットに両手を突っ込んだ。ジャケットの背中がふくらむ。彼女が振り返った。薄暗がりのなかに、顔の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
「アタシ、すぐに帰らなくてもいいんだ。誰も待ってないから」彼女は肩をすくめて地面を蹴った。「ねえ、ダンスしない? ほら、あんたがおばあちゃんとやるって言ってたあのダンス」
「は? 何?」僕は口をあんぐり開けた。
「ダンスよ! あんたがおばあちゃんとやるダンス!」
「無理だよ。暗いし、もう夜遅い。それに音楽もない。音楽なしじゃ踊れないよ」
「ハミングじゃダメ?」気落ちしたような声で言う。ドクマーテンズのでかいブーツを履いてても、いつもよりやせてこけて小さく見える。僕はミシェルを見つめて唇をかんだ。遠くで車の音が小さく聞こえる。寒い。本当にダンスなんかしたくなかった。
「ワルツでいいかな」僕は言った。
「うん! いい、いい! そうこなくっちゃ!」
 彼女はポケットから両手を出して、ただつっ立って僕を見ている。
ああ、こいつの手を取って、腕をこいつの革ジャケットの脇に回さなきゃならないのか。最悪だ。こいつはクラス一番のワルのミシェルなんだぞ。
「さあ、やろう」ミシェルは言った。「アタシはどうするの? こうやってここでぼうっとつっ立ってるわけ?」
「君は右手で僕の左手を取る。僕は右手を君のウエストに回す。そうしたら君は、左足で一歩後ろに下がる。それからサイドにステップ。あとは右で同じことをする」
 ミシェルはそのやせた手を僕の手に重ねて、クスクス笑いながら鼻をすすり、荒っぽく後ろに一歩引いた。彼女のジーンズについたチェーンがじゃらじゃら音を立てる。
「左にステップ」僕は彼女のウエストに腕を回し、おばあちゃんが指示するときみたいに言い、彼女の体を左に動かそうとした。
彼女は反対方向に一歩出し、僕の足を踏んだ。僕は足を止めて言った。「ちゃんとしろ。僕が左って言ったら左だよ。右じゃない。いま僕の足踏んだぞ」
「わかった。OK。まあ、落ち着いて。もう、ジェフリー。学校より厳しいよ」
 それから僕たちはもう一度挑戦した。ミシェルは後ろに一歩だし、それから左に一歩出した。僕の足は彼女の足跡をなぞった。今度はうまくいった。
「できた」僕は言った。「さあ、もう分かったよな。じゃあ、家に帰ろう。暖まらなきゃ」
「そうだね」彼女はまたジャケットをきしませて肩をすくめると、黒いコンセントの視線を地面に投げた。車のブーンという音が聞こえる。ミシェルは顔を上げた。「今度は、音楽つきでやってみない? ハミングで。なんなら歌でもいい。そうしたら、もう少しうまくできそう」
 僕は仕方なく、「ゼイ・トライ・トゥ・テル・アス・ウイアー・トゥ・ヤング」をハミングした。ちゃんとしたリズムじゃなかったけど、そのときたまたま、ほかに思いつく曲がなかった。ミシェルはチェーンをじゃらじゃらいわせながらぶっきらぼうに僕の腕をつかんでいる。つんつん髪が僕の鼻を持ち上げる。不思議なことに、空き家と閉鎖した店から黄色い明かりが漏れていた。
 そのうちミシェルが歌い出した。やがてその声は叫びに近くなった。声をはりあげている。そうしているうちに僕もハミングをやめ、彼女について歌い出した。僕たち二人は、ワルツのステップをどたどたと踏みながら、大声で歌った。「ぼくたちがぁ、若すぎるってぇ、言いたいんだろぉ、ラララ~ラララ~ララ」歌詞なんかほとんど知らなかったから適当だった。
 雨が降り出した。月が雲に隠れることもなくいきなり降りだした。黄色い明かりもかすんだ。雨は、ミシェルの革のジャケットの上にも、僕のフードつきジャンパーの上にも、勢いよく降り注いで音を鳴らす。
「なにぃ! 最悪!」ミシェルが叫んだ。「せっかく楽しくなってきたとこだったのに! うぉー、ジェフリー! 走ろうぜ!」
 僕たちは道路の木の下まで走った。僕は言った。「さあ、もう帰ろうよ」
 車が通り過ぎていった。ワイパーがせわしなく動き、ヘッドライトがまるでぎらぎら光る二つの目みたいだった。ヘッドライトの明かりに映し出されたミシェルの目の下には、黒い線が二本したたっていた。
 ミシェルは言った。「そうだね」彼女は走っていった。途中で止まって振り返り、声を上げた。「ダレンのこと、見た? アタシがやったんだ。やっぱりあいつは大マヌケさ!」ミシェルはジャケットから片手を出すと、銀の指輪を胸のところにこすりつけた。それからまた向きを変えて走っていった。少し待ってから、僕も走って帰った。
 
 家に帰りつくと、おばあちゃんが言った。「びしょびしょじゃないか、ジェフリー。さあ、濡れた服を脱いで、ヒーターの前にお座り」
 僕は言われたとおりにした。おばあちゃんは僕に飲み物を持ってきてくれて、そのしわだらけの手で僕の濡れた髪をなでた。「やることがお母さんそっくりだね。おまえのお母さんもいつも、寒い日にも外に出てたような気がするよ。物を見るときの目もそっくり。だけど、もう……」
 おばあちゃんは、ヒーターの明かりを見つめて口を閉じた。僕は、髪を風になびかせて笑っていた母さんのことを思い出した。レイベンスカーを歩いて登ったときのことだ。太陽が輝いていて、海の音も聞こえていた。カモメがぎゃあぎゃあ鳴きながら舞っていた。父さんが言った。「あれはミツユビカモメだ。失った子供の魂の化身だと言われている」母さんは僕の腕をつかみ、僕の髪を引きよせて言った。「ジェフリー。私たちは、しっかりとこの手を握っておくわね」
 ベッドに入ってからも、母さんたちの顔は消えなかった。まるでここにいないのが嘘のように、はっきりと見えた。まるでアフリカがすっぽりと地図からぬけ落ちて、何もかも前のままのように。
 寝入ったあと、夢を見た。黒い何かが空にある。いまは遠くだが、そのうち目の前に来るだろう。あのタカかな。それともあの馬? 見つけ出す前に目が覚めた。夜明けの薄暗がりのなかで時計を見た。六時だった。土曜日の朝六時だ。僕はもう一度横になって目を閉じ、夢に戻ろうとした。でもできなかった。それから十二時間は大忙しだったからだ。身なりも整えなきゃならなかったし、とにかく、ガーラ・ナイトの準備で大変だった。
 
 
 
 血を分けた兄弟
 
 おばあちゃんのおかげで、その日はずっと忙しかった。
「今朝はベティの店で髪をやってもらうから、買い物を頼むよ、ジェフリー。それから掃除もね。あ、それから、この雑誌をアイビーのところに持ってってくれないかい」
 雑誌の表紙にはみんな、グレーの髪をした人が写っていて、見出しにはこう書いてある。「私は七十四歳で初めて本を書きました」
 僕はアイビーの家に行った。ドアをノックすると、しばらくしてチェーンの音がして、ドアのすきまからアイビーが顔を出した。
「ジェフリー!」彼女は言った。「まあ、驚いた。さあ、入って。支度をしていたのよ」
 アイビーはまだカーラーを髪に巻いていた。ラジオは2チャンネルになっていて、センチメンタルな曲がすごく大きくかかっていた。
僕は言った。「これを持ってきただけなんだ」
「まあ、そうなの」アイビーははしゃいだ。「若い男の人の訪問なんてめったにないことよ。あなたに渡したいものがあるわ、ジェフリー。ちょっと待っててね」
 アイビーは狭い箱階段を上がっていった。僕はぼこぼこしたベルベットのソファに腰を降ろして、壁にかかっている写真を見た。白いロングドレスをまとったやせた女の人が写っていた。かぶったベールは目のすぐ上まで来ている。彼女は男性の腕をとっていた。二人とも緊張したぎこちない笑顔をカメラに向けている。隣の写真では、ウェーブパーマをかけたアイビーが同じ男性とダンスを踊っていた。アイビーは、スパンコールのたくさんついたフリルのドレスを着て、男性は蝶ネクタイをつけている。
「さあ、これよ」アイビーが戻ってきた。カーラーをはずし、リップをひいて、おしろいをはたいている。「今夜にぴったりよ、ジェフリー。夫のスタンのなの。幸運をもたらしてくれる品よ。さあ、開けてみて」
 彼女はティッシュペーパーの包みを僕に渡し、一歩体を後ろにひいた。嬉しそうな、気持ちが高ぶったような、僕が包みを開けるのを待ちきれないような顔をしている。
 僕は包みを開けてため息を漏らした。アイビーが期待したような嬉しいため息ではなかった。これは、あんまりだ。
 包みに入っていたのは蝶ネクタイだった。写真のなかでスタンがしていたのと同じものだ。青地に赤の水玉模様が入っている。襟の下に隠れるゴムもついている。
「ありがとう」僕は落胆した気持ちを声に出さないように言った。
 アイビーはにっこり笑って蝶ネクタイをなでながら言った。「これでまた、あなたを見るたびスタンを思い出すわ」
 僕はそれから、おばあちゃんの買い物リストと、蝶ネクタイをティッシュに包んだのをポケットに入れてアイビーの家をあとにした。家を出るとき、アイビーが言った。「大事に持っててね。今夜、それをつけたあなたを見るのが楽しみよ。じゃあね」
 買い物リストには、オレンジと、コールタールの石けんが書いてあった。それでまず青果店に寄ってからブーツ薬局に行った。薬局を出て通りで立ち止まった。ブレージング・スターのことを考えないようにしようと思った。
 この日の朝、あのあともう一度ベッドに入って起きてからも、ブレージング・スターのことが頭から離れなかった。まるで彼は僕の一部みたいで、考えずにはいられないという感じだった。そして僕には分かっていた。ブレージング・スターに何かよくないことが起こっている。あの星が消えて、あとにできたあの黒い穴を見たときから、胸の痛みを感じたあのときから、僕にはそれが分かっていた。僕とブレージング・スターは、血を分けた兄弟だ。体の奥からそうなのだ。その兄弟によくないことが起こったとなれば、それは僕にも同じことが起こることを意味していた。
 僕はホックリー通りに行かなかった。恐かったからだ。代わりに、生協の店と図書館に行った。そして買い物が終わると、まっすぐに家に帰った。おばあちゃんは、豪華になって戻ってきていた。髪はセットされてウェーブとカールがかかっている。前のほうが良かったと思っていても、僕は「髪、素敵だよ、おばあちゃん」と言った。
 おばあちゃんは髪をなで、カールをいじりながら言った。「ベティは自分の本分を知ってるよ」
 そのあと、僕は蝶ネクタイをおばあちゃんに見せた。「最悪」僕は言った。「こんなのつけたくない。ねえ、失くしたことにできないかな。アイビーだって、僕がちゃんとつけてるかどうかなんて気がつかないよ」
「気がつくに決まってるだろ!」おばあちゃんは言った。「まあ、確かに、私たちならこういうのは選ばなかっただろうがね。でもね、ジェフリー、アイビーは親切でしてくれたことなんだよ。それを忘れないで。人はときに、気のすすまないことでもやらなければならないことがある。そうじゃなきゃ、人をがっかりさせることを覚悟するか。そんなにしてまで、我をはることでもないだろう? 今夜はそれを付けてお行き、ジェフリー。今から少しずつ、心の準備をしておけばいいじゃないか」
 その日はそれからもずっと、おばあちゃんのすることを手伝った。それが終わると、僕は二階に上がって支度をした。おばあちゃんが蝶ネクタイを持ってきた。そして僕の首元に付けてくれた。僕は鏡を見た。立派なブレージング・スターにはほど遠く、まるでサーカスの犬みたいだ。こうなると、このドレスシャツも女の子の服みたいに見えてくる。
 だけどおばあちゃんは浮き浮きした様子だった。ほほもピンク色だ。今日のおばあちゃんのドレスは初めて見る。「そうね」おばあちゃんは言った。「確かにまったく新しいドレスではないけれど、おばあちゃんは前の持ち主を知っている。このドレスはとても大切に着てもらっていたの。そういうことが大事なんだよ」
 ドレスは青いシルク風の素材で、フロント部分に小さな花がちりばめられている。おばあちゃんはそのドレスに似合う靴をはき、青いバッグも持っていた。「この古いコートを着なきゃならないのだけが残念なんだけど、中に入ったらすぐ脱いじゃえばいいのよ」
 僕たちは腕を組んで家を出た。ダンスシューズを入れたバッグを手に持って。ほかの女の人たちもそれぞれの家を出てきた。バッグを持って、一番いいコートを着て。
 ホテルの入り口に、はでな制服を着た男の人が立っていた。「チケットはお持ちでございますか、奥様? はい、ありがとうございます。あちらにお飲み物が用意してございます。どうぞご自由にお取りください。そのあと、奥の大広間にお進みください」
 僕たちは舞踏場になっている大広間に入っていった。天井にネットが張りめぐらされ、中には赤い風船がたくさん入ってたわんでいた。最初、みんなは飲み物を口にしながらしゃべっていた。「その色、似合ってるわ。もっと着ればいいのに。ところで、マジョリーの新しい赤いドレス見た?」とか「もちろん、優勝できるなんて思ってないわよ。スポットプライズは、誰かほかの人の手に渡るでしょうね」とか。バックには、白いネクタイをしたバンドのメンバーが奏でるスローな曲が流れている。ウエイトレスたちが動き回り、キッチンからは食器の音が聞こえてくる。
 ひとしきり会話がはずみ、一段落したところで声が響いた。「ご来場の皆さま、どうぞお席にお着きください。あと五分ほどでご夕食をサービスさせていただきます」
 僕たちは、アイビーやヴェラと同じテーブルについた。アイビーが言った。「ジェフリー、蝶ネクタイ似合ってるわ。本当に見栄えがする。それをつけているあなたを見てると、スタンといたあの頃に戻ったような気分になるわ」アイビーはハンカチを取り出して鼻をかんだ。ヴェラが言った。「このテーブルの近くじゃ男性はあなただけよ、ジェフリー。今夜は忙しいわよ」
 ディナーは、おばあちゃんが言っていたよりもっと良かった。まず、手長エビのカクテルが出てきた。それからスープ。そしてソースがけのポーク。デザートはスポンジケーキのカスタード添えかアップルパイ。みんながチョコレートをつまみながらコーヒーを飲んでいるところで、また声が響いた。
「皆さま、ただ今よりスウィングタイムの演奏をさせていただきます。どうぞパートナーのお手を取り、最初のダンスをお楽しみください」
 おばあちゃんは息をふっと吐くといったん姿勢を正し、僕のわき腹を勢いよくつついた。「さあ、ジェフリー。行きましょう。ウォーミングアップよ」
 
 おばあちゃんと僕は、みんなが同じタイミングで踊る大きなダンスの輪のなかにいた。バンドの近くまで来たとき、メンバーの一人が僕たちにウインクを投げた。おばあちゃんが言った。「私の新しいドレスに気づいてくれたのね」
 スウィングの次はチャチャチャだった。アイビーが僕のドレスシャツを見ながら言った。「スタンとよくこれを踊ったわ」
 おばあちゃんがひじで僕を軽くつついた。僕はアイビーに言った。「踊りませんか?」
「ええ、喜んで。ジェフリー、ありがとう」
 僕はアイビーとチャチャチャを踊った。バンドの近くまで来たとき、さっきの彼がまたウインクを投げてきた。アイビーが言った。「きっと私の新しいヘアスタイルが気に入ったのよ」
 それから三十分は座れなかった。女の人たちがおばあちゃんのところに詰めかけては、「この若い男の子を紹介してくれない?」とか「彼いいわね。絶対すてきよ」とか言ってくる。
 僕はソーンターを踊り、クイック・ステップを踊り、スロー・フォックストロットを踊り、その度に相手の女の人たちから賞賛された。そして、あなたと踊っているとフレッドを思い出すわ、とか、ジョージを思い出すわ、とか言われた。またお相手してね、今度はミリタリー・ツーステップを踊りましょう、とか、ベレタを踊りましょう、とか、モネ・ワルツを踊りましょう、とか。
 僕は顔をほてらせながら、デザートと音楽とダンスを楽しんでいた。おばあちゃんが言った。「そろそろ息を整えておいたほうがいいね。もういつカリビアン・フォックストロットが始まってもおかしくない時間だよ。そろそろ本領発揮といこうか」
 そのあと、女性からワルツの申し込みをする時間になった。女の人が三人同時にやってきた。おばあちゃんが言った。「床に線を引いといて、みんなにはその後ろに並んでもらおう。おまえは本当に引っ張りだこだ」
 音楽が終わり、一瞬静かになった。男の人がマイクに歩み寄った。「さあ、皆さま、いよいよ今夜のハイライト。ダンスコンテストを始めたいと思います。優勝カップルには、チョコレートとワインが贈られます。さらに優勝カップルには、イブニングポストに写真が載るという栄誉が与えられます。さあ皆さま、パートナーの手をお取りください。これから一斉に、カリビアン・フォックストロットを踊っていただきます。それでは、どうぞ、お始めください!」
 何人かが手を鳴らした。そして音楽が始まった。おばあちゃんは僕の手を取ってフロアに出て行った。最初の曲は「アンフォゲッタブル」だ。このときばかりは、おばあちゃんは僕にダンスの支持はしなかった。固く目を閉じて踊っている。不意に、不思議な感覚に包まれた。教わったステップを忠実に再現しようとしているんじゃない。周りで踊る人たちのことも気にならない。初めて踊る楽しさを知ったあの午後と同じ感覚が、まるで魔法のように僕を包み込んだ。
 ダンスの最中に、スポットライトがやってきた。突然舞い降りてきて舞踏場を走り回り、あるカップルを照らしていたかと思うと、また今度は違うカップルの上を照らす。照らされたカップルはライトの中でにっこりと笑い、ダンスの振りが少し大きくなる。またライトが動き、僕たちやほかのカップルの上にも降り注ぐ。おばあちゃんがまばたきをして目を開けた。「いいよ、ジェフリー。絶好調じゃないか。その調子。楽しんで。自分が楽しむのが一番なんだから」
 音楽が変わった。今度は「ゼイ・トライ・トゥ・テル・アス・ウィアー・トゥ・ヤング」だ。スポットライトの色が白から赤に変わる。会場からため息がもれた。人々の興奮が小さなさざ波のように舞踏場を駆けめぐる。誰かが言った。「さあ、いよいよだぞ」スポットライトは、僕の知らないカップルの上に注がれた。みんなの目が集まる。光が彼らから離れると、みんなの目も離れる。ライトは次のカップルの上に一、二秒間留まる。それから最初のカップルに戻り、彼らの上に留まる。「あのカップルが優勝だ」という声がした。みんなが笑顔をたやさぬように踊り続ける舞踏場のなかを、もう一度さざ波が駆け抜ける。
 僕は、がっかりしたのを顔に出さないようにした。でも、おばあちゃんの気持ちを考えると歯がゆかった。すると突然、またスポットライトが動いた。光は再び舞い上がり、一瞬、迷うように人々の頭の上をゆらゆらし、そして、僕たちの上に降りてきた。僕たちはそのままダンスを続けた。ターンをし、フェザリングをし、スリーステップを踊った。それからライトは点滅をはじめ、その行方は分からなくなった。最初のカップルが、優勝は自分たちだと言わんばかりにほほ笑んでいる。
 おばあちゃんが僕の耳元でゆっくりささやいた。「勝負の行方は関係ないよ、ジェフリー。私たちはダンスをじゅうぶん楽しんだ。それが一番さ」
 すると突然、スポットライトが戻ってきて、僕たちの頭上に降り注いだ。僕たちが体を沈めたりターンしたりする間も、ずっと照らし続けている。光の色は、白から赤へ、さらに金色へと変わった。そのあと、声が鳴り響いた。
「ご来場の皆さま。本日のスポットプライズの優勝者は、花模様の青いドレスを着たご婦人と、そのパートナーの、スマートな少年です! 皆さま、どうぞ盛大な拍手をお願い致します。お二人とも、おめでとうございます! 皆さま、コンテストにご参加いただきまして、ありがとうございました」
 ダンスが終わったあと、みんなが僕たちのほうを見て拍手をしてくれた。僕たちはステージに上がって賞品を受け取った。さっきのバンドの男の人がまたウインクをくれた。それから僕たち二人は、みんなの見守るなか、ダンスをしながら会場を回った。僕たちが近づくとみんな拍手してくれた。おばあちゃんはにこにこしながら、何度も会釈していた。
 そのあと、おばあちゃんが言った。「さあ、今度はアイビーと踊ってあげて。私は息が切れてきた。少し休むよ。それにウオノメも痛みだした」
 僕はアイビーとダンスをし、そのあとヒルダと踊った。そのまま、このすばらしい時間を終えられると思っていた。十一時だった。僕はヒルダとステップを踏んでいた。突然、赤い風船が頭の上から降ってきた。天井のネットが音もなく開いていて、風船が少しずつ、ふわふわと漂いながら降りてくる。僕はダンスをやめて、みんなと同じように上を見上げていた。
 すると不意に、視界が変わった。あざやかな赤の丸い風船が降ってくるのを見ていたら、風船は突然、血のしずくに変わった。血のしずくが落ちてくる。どんどん落ちてくる。やがてほかのものは何も見えなくなる。回りの人たちの姿も消えていく。
 舞踏場に音がなくなる。僕は叫ぼうと口を大きく開ける。でも声が出ない。音のない世界の中に、ブレージング・スターの気配を感じる。彼は血のように赤いライトになって、ピンクのビロードの椅子や、リボンで飾られた、ワインがいっぱい乗ったテーブルを照らしている。落ちてくる血の音が、ドラムの音のように響いてくる。彼は僕を呼びにきたんだ。僕が彼のもとに行かないかぎり、何度でも現われ続けるだろう。
 不意にブレージング・スターが消えた。僕の頭の中のライトも消え、血の落ちてくるドラムの音も消えた。赤い風船が上から降っていた。みんながそれを捕まえたりしている。僕はその場に立ち尽くしていた。目にいっぱい涙をためながら。
 僕はポケットからハンカチを取り出すと、鼻をかむふりをした。
おばあちゃんが言った。「大丈夫かい、ジェフリー? 少し顔色が青いよ」
「大丈夫。ちょっと暑かっただけさ」
 バンドが「アイ・グロウ・トゥ・オールド・トゥ・ドリーム」を演奏しはじめた。おばあちゃんが言った。「おいで、ジェフリー。コートを取りにいこう」
 おばあちゃんは僕の腕を取り、僕たちはゆっくり家路を歩いていった。もうすぐ帰りつくというとき、おばあちゃんが言った。「ずっとついてきてるあの星はなんていうんだい? いままで見たこともないような星だけど」
 見なくても分かっていた。星の光がまるで小さな道のように、僕たちの歩いていく方向を照らしていた。
「分からない」僕はそう言った。
「そう」おばあちゃんは少し間を空けてから言った。「そのうち分かるといいね」
 家に入ってベッドに寝そべっても、星はまだ消えなかった。カーテン越しに光が見える。ブレージング・スターが待っている。僕の旅を終わらせるために。彼と会わなければならなくなる。近いうちに。
 

「ブレージング・スター」9(最終章) 真実

 真実
 
 朝食のとき、おばあちゃんが言った。「チョコレートはアイビーにプレゼントしよう。親切にしてもらったからね。あとで持っていっておくれ」
「え?」僕は言った。おばあちゃんは、ちょっとじれったそうな顔をした。
「どうしたんだい、ジェフリー。上の空じゃないか。夜更かししすぎだよ。あとでアイビーのところにチョコを持ってっておくれって言ったのさ。さあ、もう食べ終わったのかい? それとも、もう少し食べる?」
 僕は答えなかった。おばあちゃんは、少しむっとしたように食器をがちゃがちゃと重ねはじめた。朝食のあと、僕は二階の自分の部屋に行った。昨日と同じドラムの音が聞こえてきた。何か不思議な、リズムをくずしたようなたたき方だ。映画のなかで聞くネイティヴ・アメリカンのドラムの音じゃなくて、むしろ、アフリカの太鼓のリズムに近い。音はどんどん大きくなる。そして最後には、突然スティックがたたきつけられたようなすさまじい音がした。
 音がやんだあと、僕は引き出しから父さんと母さんの写真を取り出した。暑い日に撮った写真だった。二人とも日よけの白い帽子をかぶっていて、ひさしの影が顔にかかっている。この日はピクニックだった。僕たちは鳥を見ていた。タゲリが堂々とした風情で歩いている。その王冠のようなとさかに僕たちは見とれ、裏返るような鳴き声に、僕たちは聞き入っていた。不意に父さんが言った。「タカが空にいる。この場所にタカなんて珍しいな。ほら、あの木の上を飛んでる。年を取った個体だな。羽毛の色が濃い」
 僕はそっちを見上げた。タカは空を旋回し、こっちに近づいてくる。そしてまたたくまに、僕たちの頭上にやってきた。色が茶色から黒に変わる。それから、ゆっくりと降下しはじめた。
「だめだ!」僕は叫んだ。「上がれ! 飛んでけ! どっかへ行っちまえ!」
 僕は振り払おうと部屋を出た。チョコレートと蝶ネクタイを持ってアイビーの家に行った。アイビーは部屋着で出てきた。
「まあ、ジェフリー」彼女はにっこりとほほ笑んだ。「入ってもらえなくてごめんなさいね。でもありがとう。おばあちゃんにもお礼を言っておいてね。昨日は素敵だったわ、ジェフリー。優勝おめでとう。スタンのネクタイが幸運をもたらしたのね。おばあちゃんは本当にあなたが自慢よ」
 アイビーの家を離れると、僕はホックリーへ向かった。通りを踏みしめ、工場へと向かう。誰もいなかった。いつもと変わらない様子だ。僕は家に戻った。部屋をうろうろし、顔をゆがめる。そしてうんざりする。
 その日は一日、そんなだった。おばあちゃんも、そんな僕を見て心もとない様子だ。「今日はどうしたの、ジェフリー。まるで、熱いレンガの上でふらふらしているネコみたいだよ。切手帳の整理でもしたらどうだい?」
 おばあちゃんの助言は何の役にも立たなかった。僕はいらいらしながら部屋に上がっていった。
 次の日は、暗くてじめじめした日だった。グリーン・ミルの上あたりに、雲が渦を巻いている。木々の葉っぱは吹き飛ばされ、トレント・ブリッジの上でゴロゴロと雷の音が響いている。
 学校では、みんなあんまりしゃべらなかった。ダレンでさえ、より目をしながら手で下品な形を作っているだけだ。ピーター・ブライアントが、四時に待ち合わせしようと言ってきた。「街に出かけてしっぽりいこうぜ。女の子ながめて、タバコ吸ってさ」
「やめとくよ」僕は言った。「そういうの、好きじゃないんだ」ピーターはムッとした顔をして何か文句を言いたそうだったが、気を変えて行ってしまった。
 四時。僕はホックリー通りを歩いていた。だがスター・ニットウェアには着いてなかった。ブレージング・スターのことを考えていたら、急に頭の中で何かが光って、彼が現われた。目もくらむような稲妻と一緒に現われて、閃光が消えた後もそこにいた。
 
 彼は馬に乗っていた。あのときの馬じゃない。夜明けが彼の後ろに迫ってきていた。ブレージング・スターは僕を見ると、月や星で彩られたその馬を降りた。胸には大きな星が描かれている。あざやかな赤い中心を持った銀色の星だ。赤い目はまっすぐにこっちを見ているみたいだ。どこに行こうと、その視線はずっとついてくるように感じられる。
 地面に降り立ったブレージング・スターは、また成長したような気がした。顔の皮膚はやつれ、鼻から口元にかけてはくっきりと線が刻まれて、若いのに年を取っているように見える。顔に、赤い血の色の縞(しま)が入り、その血の色は髪にも筋を作っている。胴の部分に布を巻き、体には、目のような円がいくつも描かれていた。
 だが彼の本当の目は、寡黙でもの悲しげで、笑っていなかった。馬がわずかにいらだったように歯を鳴らしたりしたが、彼は何も言わない。ただ静かにそこに立っている。風が舞い上がり、彼の頭の羽根飾りをさらさらと揺らした。
 僕たちの間には、手で触れることができそうなくらい確かな静寂が流れていた。だが、とうとう彼の唇が動いた。
「マジック・アイズ。今日俺は、人を殺す」彼の右手には、赤く光る槍があった。太ももには、がい骨のような絵が描かれている。
「どうして?」僕は聞いた。そして地面を見つめた。どこにでも咲いているような、小さな花があった。
「父さんの敵(かたき)を討つ」
「お父さんに、何が……」僕は絶句した。馬を馴らした初めての日の、ロングホーンの手に重ねたお父さんの優しい手が、目の前に見えた。
「クリー族にやられたんだ。俺は今日、父さんの名誉を取り戻しに行く」
「僕の名前は、マジック・アイズじゃないんだ。ジェフリーっていうんだ」僕は言った。「お父さんのために祈るだけではだめなの?」
 僕が言い終わると、ブレージング・スターが近づいてきた。太陽が顔を出し、回りが明るくなってものがはっきり見えてくると、僕は、一緒にいられる時間がもうあまりないことを感じた。
「俺はおまえのために祈った。ジェ…フ」彼は、ジェフリーという名前が発音しづらい様子だ。
 ブレージング・スターの影が僕に重なったのだろう。目を上げると、回りが暗くなったように感じた。ブレージング・スターの目は、変わらず黒い。ほほ笑みもない。その目のなかにある悲しみの深さに圧倒され、僕は、彼の目を見ていられなくなった。
「そう」僕は肩を落とすと、地面を見つめた。彼の前で泣き出してしまわないように我慢した。
 ブレージング・スターが左手を僕の肩にかけた。僕は彼の手の重みと体温を感じた。彼は静かに言った。「俺は祈った。恐いからだ。ジェ…フ。俺はいままで、人を傷つけたことはない」
 僕は鼻をすすって目をこすった。「君に、恐いものなんて!」僕は声を上げた。「君には恐いものなんてないはずだ。そうだろ? 君が恐いと思うなら、僕もそうだ。僕は、ずっと君から勇気をもらってきたんだよ!」
 僕がわめき終わると、太陽が揺れて、突然その位置が高くなった。ブレージング・スターの手は、僕の肩に乗ったままだ。
「おまえは、何を恐れている? ジェ…フ」
 僕はため息を吐いた。ため息と一緒に言葉を吐いた。止まらなかった。ずっと言いたかったこと、なにもかもを吐いていた。僕の恐れているもの。それは、みんなと違っていて、みんなとなじめなかったこと。ずっと笑いものにされてきたこと。本当の友だちが一人もいなかったこと。
 僕は地面に咲く花を見つめ、それから顔を上げた。はっきりと、ゆっくりと、僕はブレージング・スターに言った。「僕の恐れているもの。それは、父さんと母さんが死んだこと。それを、ずっと信じていなかったんだと認めてしまうこと」
 ブレージング・スターは、黙って静かに立っていた。そして厳しい顔で僕を見つめていた。本当は、前からそれを知っていたように。そして僕の肩から手を離し、軽々と馬に飛び乗った。馬はそのたてがみをゆさぶり、少し歯ぎしりをすると、その優美な足を横に一歩踏み出した。僕は馬の鼻のあたりをなでた。そして、ブレージング・スターを見ずに言った。「幸運を祈る、友よ。生きて明日を迎えられるように」
 ブレージング・スターは、絵の描かれた鞍に乗ったまま体を倒した。黒髪が翼のように彼のほほにかかる。彼は僕の手を力強く握った。「恐れる気持ちを恥じることはない。ジェ…フ。恐れを知らない人間は、本当の勇気も知らない。神が行いを見るのだ。そして神が判断を下す」
 それから彼は胸をはり、まっすぐに座りなおした。太陽の光が、まぶしく揺らめく。光はブレージング・スターの髪を輝かせ、彼の顔に描かれた縞(しま)と渦(うず)を照らした。彼の目に赤い光が灯る。きらめく槍を高く上げて合図し、彼は馬を走らせた。
 僕は叫んだ。そう聞くのが恐かった。「また、会えるよね? すぐに、また!」
 ブレージング・スターは、馬の腹をかかとで蹴り、肩越しに叫び返した。「おまえの夢の中だ。マジック・アイズ! そこでまた会おう!」
 彼は稲妻の速さで走り去った。髪が、太陽の光の中で飛ぶようになびいていた。僕は、ブレージング・スターが最後に何か叫んだような気がした。「さあ、行け。力はいつでもおまえと共にある。忘れるな、ジェーフ!」同時に、馬が現われた。あのとき手に入れた僕の黒い馬だ。僕の目の前で、前足を上げて立っている。僕は鞍の上にすくい上げられ、そして風のように走った。速い。どんどん速くなる。草原にやってきた。ブレージング・スターが槍を掲げて走っている。夜明けに二人で馬を手に入れたときの光景がよみがえる。バッファローを狙っている光景が、真冬のあの日の光景が、初めて馬を馴らしたときのロングホーンの笑顔が、友だちと一緒に弓矢の競争をしている彼が、目の前に見えた。
 走馬灯が止まったとき、馬は、僕の頭のなかで、ただ馬の形をした影になっていた。僕は、それを振り払おうと瞬きをした。すると、インディアンが僕の目の前に現われた。きらめく光のなかで、槍を掲げている。目には赤い火が灯り、歯は白く光っている。肌には、月や星が描かれていた。おごそかだった。ブレージング・スターと同じくらいおごそかだった。
 だが不意に光が消えた。だんだん光が弱くなるというのではなく、突然、スイッチが切れた感じだった。僕は肩を落として帰りはじめた。雨は止んで、空は澄んでいた。ジュピターが見える。小さな白い炎のように光っている。だけど、ブレージング・スターの存在を感じさせるものはどこにもなかった。家に帰りつくと、おばあちゃんに言った。「少し疲れた。もう寝るよ」
「ココアは飲まないの?」おばあちゃんが心配そうに聞いた。
「うん。いまはただ、頭を休めたいんだ」
 僕はベッドに横になった。頭がずきずきしてきた。ブレージング・スターの手の感触が、肩によみがえる。耳には、彼の声がはっきり聞こえる。「恐れる気持ちを恥じることはない……神が行いを見るのだ。そして判断を下す……」
 
 次の日の朝目覚めたとき、心は落ち着いていた。この気持ちは、その日一日ずっと続くような気がした。たとえ、真実を認めても。父さんと母さんは、わざと僕を一人にしたんじゃなかった。二人は、飛行機事故で死んだんだ。研究のためにアフリカに行くのは、一週間の予定だった。飛行機が砂漠に落ちて、乗客は全員死んだんだ。
 僕は、思い出したのをおばあちゃんには言わなかった。最初は、新聞かテレビで見た事故のように思おうとした。「旅客機墜落。生存者なし」新聞の白と黒の見出しのように頭のなかに反復させれば、少しずつ、この事実を受け入れられるようになるかもしれないと思った。
 朝食のときも、おばあちゃんは心配そうだった。「だいじょうぶかい? ジェフリー。ゆうべは少し具合が悪そうだったけど」
「だいじょうぶだよ、おばあちゃん。本当に。それから、僕のことは、ジェフって呼んでくれないかな。そのほうがいいんだ。それに最近じゃ、ジェフリーなんて名前で呼ばれてるやついないよ」
「これは、おまえのお父さんとお母さんがつけた名前なんだよ。おばあちゃんだって、縮めて呼ぶのがいいなんて一度も思ったことない。どうしたの急に。ジェフリーのどこがいけないんだい? 何かとんでもないことが起こっているとは思っていたけど」
 おばあちゃんは、心配そうな顔から、怒ったような顔に変わった。僕は椅子を立って、おばあちゃんの腰に腕を回した。
「もう子供のままではいられないってだけさ、おばあちゃん」
 おばあちゃんは、鼻をすすって僕を押しのけると、キッチンに入ってボールに水を入れ始めた。「そう。分かった。そうね。おまえの言う通りかもしれない。慣れるようにするよ」
 学校に着いてからも、穏やかな気持ちは続いていた。国語の時間、あいかわらず何人かの生徒が騒ぎ、ミス・ターナーがか細い声で何度も注意をしているのにお構いなしだった。その時間は、言葉の変化の勉強をしていた。僕は壁に貼ってある言語形式の図表を読んでいた。
 
反抗‐反抗すること
ケンカ‐ケンカすること
 
まるで、このクラスにぴったりの例文だ。だが急に、いいかげんにしろよという気になり、後ろを振り返ってダレンやほかのやつらに言った。「うるさいぞ。少し黙ってろ。僕は勉強してるんだ」
 ミシェルがこっちを見た。銀の指輪を服の胸の部分でふいている。
何人かが叫び返した。「おまえこそ黙ってろ。クズ!」それからとても静かになった。やつらはつばを飲み込んで、小声でぶつぶつ言った。「やつにかまうな」
 休み時間になると、ミシェルが近づいてきた。革のジャケットの下は寒そうだ。手袋もしていない。寒さで顔も少し固い感じだ。
「調子はどう? ジェフリー」ミシェルは息を手に吹きかけている。「あとで会わない? ダンスの続きをやろう。アタシ、ダンス気に入ったよ。あんたのおばあちゃんちでできないかな」
「は?」僕はそっけなく返した。「あのさ、これからは、僕のことジェフって呼んでくれないか。それと、一度聞きたかったんだけど、君、ほかのやつらに、僕に手出すなって言ったか?」
「言ったかもね」ミシェルは肩をすくめた。「あんたはほかのやつらとは違うと思っただけだよ。変わってるっていうか。変なやつっていう意味じゃなくて、変わってる。わが道を行くっていうか」
「そうか」僕は言った。「じゃあ君もわが道を行け。僕のことでケンカはしないでくれ。僕は自分でなんとかする。ありがとうな」
「そう」彼女はそう言ったがその場を離れず、ブーツで床を踏み鳴らしたりしていた。生徒の一人がやってきたが、彼女は「いま忙しいんだ」と言った。「あとでな」と、その生徒を向こうにやった。そして腕を組んで、灰色の風船ガムをふくらませた。「あんたは、人からどう思われるかなんてこだわってないんだ。そうだよな」ミシェルは言った。
 僕は大きくため息をつくと、空を見上げた。分厚い雨雲が浮かんでいる。何人かの生徒が、退屈そうにぶらぶらしていた。そのとき、稲光が走った。草原に立っているブレージング・スターを思い出した。
 ……行いを見ている。神が判断を下す……。
「君のお母さんたちは、いつもいないんだったっけ?」僕は聞いた。
「だいたいね」ミシェルは肩をすくめた。「いいんだ。あの人たちは、自分たちの好きにしてるんだ」
「明日はあいてる」僕は言った。「夕食が終わったらうちに来なよ。おばあちゃんなら、最高のダンスを見せてくれる」
「OK」ミシェルは眠そうな声で言うと、猫背で歩いていった。それから不意に足を止めて振り返った。「なんでジェフ? なんで今? なんのために?」
「別に。ただ、そのほうがいいかなと思っただけさ」僕は言った。
「そう。そうか。じゃあ、また」
「またな。あ、そうだ、ミシェル。僕だって、いろいろこだわってるよ。ただ、ダレンやシェーンとは、こだわってるところが違うってだけさ」
 ミシェルは手を振って、ふわふわと歩いていった。放課後。僕は家に帰った。
 帰ると、おばあちゃんが紅茶を飲んでいた。「まだポットに残ってるよ。いま作ったばかりだから。ジェフリー――ジェフ」
 僕は紅茶を注いで椅子に座った。そして二、三口飲んだ。「ジェフリーは、父さんと母さんがつけてくれた名前だ。でも父さんたちは死んでしまった。だから、僕をジェフって呼んでも、もうふたりを悲しませることはないよ」
 おばあちゃんは、がちゃんと音を立ててカップをソーサーに戻した。パッチワークの足置きから、足がすべり落ちる。
「お父さんたちが死んだこと、おまえは信じてないんだと思ってた。記憶を切り捨ててしまったんだって。だから、ずっと気がかりだったの。だいじょうぶなのかい? ジェフ。おまえ、いま、自分から……。――お父さんとお母さんは、おまえを愛していたよ。世界中の誰よりも、おまえを愛していたんだよ。おまえを悲しませるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだよ」
「僕は、もうだいじょうぶ。ただ、時間が必要だったんだ。それに、助けてくれた人もいたから……」
「助けてくれた人?」おばあちゃんは、ちょっと鼻をふくらませた。
「友だちだよ」僕は言った。「おばあちゃんの知らない友だち。僕ももう会えない。もう、会わなくてもだいじょうぶだから」
「ガールフレンドかい?」おばあちゃんの声が、少しとんがった。
「違うよ」僕は言った。「でも、そういうのもできるかも」
 僕は笑った。おばあちゃんのお気に入りのカップやお皿が飾られているキャビネットとソファの間を窮屈(きゅうくつ)そうに歩く、ミシェルの厚底ブーツが目に浮かんだ。
「明日、友だちを連れてくる」僕は言った。「ミシェルっていうんだ。おばあちゃんに会いたいって。ダンスを教えてほしいって」
「え? そうなの?」おばあちゃんは嬉しそうだ。「よかったら、夕食も一緒にどうって誘ってみて、ジェフリー……ジェフ」
「ありがとう」僕は言った。「誘ってみるよ」
 食事のあと僕は部屋に行き、シミだらけの鏡に自分を映してみた。髪型を変えてもいいかもしれない。少し髪を立ててみようか。もみあげも伸ばして。そして、もし買えるなら、革のベルトつきの黒いジーンズと、黒い革のジャケットをオックスファムで買おう。
 そのあと、僕はベッドに横になり、父さんと母さんの写真を何枚か取り出した。といっても、アルバムに入っている写真ではない。でも本当に誰かが撮った写真みたいに、僕の心の中に鮮やかな色彩が映る。父さんと母さんが、いつものようにほほ笑んでいる。明るいアフリカの大地も見える。僕が見たいときに、父さんと母さんは、いつでもそこによみがえるのだ。
 だけど、あのインディアンは見えなくなった。代わりに、漆黒の夜空に星が一つ揺らめいている。光の帯を散らして燃える、赤い中心を持った星。ほかの誰にも見えなくても、僕には見える。それは、僕だけに見える赤い星。僕だけの目に映る輝く(ブレージング)星(・スター)なのだ。
                                                                   了
 
 
 
 
 
 

『罪の舌』  (ミステリー・イギリス)

作・Susan Moody     翻訳・崔 雅子

(原題)POISONED TONGUES  《直訳・毒に汚れた(複数の)舌》
 
 
 
 
1
 マーチン・フェンサムが、隣のコテージを買った時、すでにその名は売れていた。デビュー以来、出した二冊の本は好評で、三冊目も、その年の年間ベスト図書の一つとして注目され、三十二歳のこの新進ミステリー作家は、私にはとうてい望むべくもない地位を確立しつつあった。彼より十も年上でありながら、たった二冊を出しただけで、この先見通しもない私には。
 とはいえ、彼を羨む気持ちは特になかった。名声とは、同情心と引き換えに得られるものだという思いが、私にはあったからだ。とりわけマーチンは、他人の欠点には寛容でないように見受けられた。
 にもかかわらず小説のなかでは、登場人物の弱さを同情的に描いたりしている。しかしそれも実は、「目には目を」という彼の小説の普遍テーマをより明確に表現するための演出にすぎないのかもしれないと思う。
 彼はまた、自分が選んだこの分野――ミステリーの世界――で成功するという、鋼のように固い意志を隠そうとはせず、そのためにはどんな手段も使った。それは多くの作家に欠けているところだ。作家は普通、仲間内の冷笑と反感の的になることを恐れて、持てる思いを押し隠すものだからだ。
「どうしてミステリーなの?」そう聞いてみたことがある。
「ミステリーじゃ駄目ですか?」マーチンは、自分のチャームポイントを十分意識した笑顔をつくった。彼の本の裏表紙に載っている写真とそっくり同じ笑顔だ。
 私は肩をすくめた。「ミステリー作家が文学界で名を成すのは難しいわ。レンデルやル・カレだって、犯罪小説作家という枠を越えて、文壇で優れた作家として認められるまでにはずいぶんかかった」
「なるほど」彼は考え込むように顔をなでた。「……思うんだけどね、罪を犯すとはどういうことか、経験として知っていたほうが、面白いものが書けるかな」
「まあそうね。もし才能があれば。それをもとによりリアルな知識と感性で作品に向き合える」
「才能は関係ないさ。たとえばあなただ。あなたの作品は、僕なんかのよりずっと出来がいい。ストーリーも練り上げられているし文章も巧みだ。なのにあなたは……」
「売れてないって言いたいわけね?」
「まあ……そういうことです」暖炉の脇に座ったマーチンは、冷ややかな表情をちらつかせる。「あなただって、才能だけで作家がその地位を築けるなんて思ってないはずだ」
「ところが、そう思っているの」
 マーチンは、声を上げて笑った。「もっと自分を売り込まなきゃ。編集者や読者と接する機会をつくるんです。自分が話題に上るように仕向ける。そして、もっと自分をアピールする」
「そんなこと……。自分でも、自分のこと掴み切れていないのに……」
 
 
2
 マーチンのことも、掴み切れていなかった。
 個性の異なる私たちだったが、どこか通じるものはあったし、マーチンの人間性も、一度は把握したと思っていた。彼のキャラクターの一部でも、いつか小説の登場人物として使わせてもらおうと、分析、査定して、ファイルに収めたつもりだった――実在する人物の一部を借りるのは、小説にリアリティーを与える。
 ところが、ナタリー・ベンソンの登場によって、私がマーチンに下していた評価は、間違っていたかもしれないと感じるようになった。
 ナタリーは、村はずれのランタンハウスにすむ夫婦の娘だった。父親は銀行業界の大物で、母親はアメリカ人。イギリスでの教育課程を終えたのち、母親の母校――たしかヴァッサー大学だった――に留学していたから、二人が出会ったのは、マーチンがこの村に来て一年半後だった。
 ナタリーは、人目を引く娘だった。すらりと背が高く、色白の美しい顔は、ラファエロ前派の絵を思わせた。そして赤味がかったブロンドの髪……。BBCラジオに勤めていた彼女は、まさに、マーチンのような男を引きつける、アメリカ仕込みの洗練された魅力を備えていた。
  私は、マーチンは恋に溺れるタイプではないと思っていた。しかしその予想はみごとに裏切られた。他人の欠点には容赦なかった男が、ナタリーの欠点には、まるで盲目になった。
 こうなると分かっていたら、私はマーチンに何か忠告できていただろうか。いや、たぶん何も言えなかっただろう。人の恋の道とはそういうもので、軌道修正は難しいと分かっていたからだ。当事者にはその先の危うさなど目に入らない。
 私にどんな忠告ができたというのか。
 ナタリーは大学に入ったその年に睡眠薬を飲みすぎたことがあったが、あれは自殺未遂ではなくストレスと疲れだったと言い張ったし、昼間見通しのいい道路で父親の車を運転していて木にぶつけたときは、ただブレーキとアクセルを踏み間違えただけだと言い張った。警察の調べで、ナタリーはたしかに酔ってはいなかったと立証されたが、ボーイフレンドに振られたばかりだったということは公表されなかった。
 その話はのちに、村のうわさ好きの女たち――マギー・アンダーウッド、ジーン・ウォレス、ローラ・ぺティファー――によって、村中の知るところとなったのだが。
   しかしマーチンにそんな話をしても無意味な気がした。マーチンはきっとこう言うだろう。「ナタリーが神経症?  言ってる意味が分からないんだけど」
  私から見てナタリーは、情緒不安定で、人格の基盤がしっかりしていない印象を受けるというだけだ。理由をはっきり示して「マーチン、だから後で痛い目を見るわよ」とは言えなかった。
 
 
 二人の結婚式には、村じゅうの人が招待された。
 欠席したのは、マギー・アンダーウッドとウォレス夫妻だけだった。ケネス・ウォレスと妻のジーンは、こんな盛大な式に参加できないなんて本当に残念だと口では言っていたが、その実、招待状を受け取ったあとで、ロードス島への休暇旅行を決めたことを、私たちは皆知っていた。マギー・アンダーウッドは、父親のアンダーウッド将軍の回顧録を企画していて、その件でちょうどその日にロンドンに行かなければならないと、表面上は言っていた。
   村の人々はお互い口をつぐんでいたが、皆内情を知っていた。
 ジーンは、マーチンが村の緑地に車を止めることで一度ならず彼とやり合っていたし、マギーは、以前マーチンに保守党主催のバザーの寄付を申し込んだときに、あまりにもすげなく断られていた。
 だから私は、そこにローラ・ペティファーの姿を見つけたときは、正直驚いた。彼女は以前マーチンから面と向かって「おせっかいババア」と言われたことがある。
 ローラは、溺愛する息子・ティムを伴っていた。会計士見習いとして勉強を始めたばかりの息子だったが、ローラの目には、将来シティで名を上げている姿が見えているらしかった。
 
 
3
 地元の来賓に挨拶するときの新郎の油断ない笑顔と、空港に向かう車に乗り込むときの花嫁の、まるでもう二度と戻ってこられないかのような派手な泣きじゃくり方はともかく、宴は滞りなく終わった。日本に三週間のハネムーン。おそらく費用は経費で落とし、税金対策にするはずだ。
 次の日さっそく、ローラが通りを渡ってやってきた。
「ちょっと、あなた、気が付いてた?  マーチンったら、花嫁の付き添いの人たちに、やたらちょっかい出してたじゃない?」
「あら、そうだったかしら。気が付かなかった。あなたの勘違いじゃないの?」
「そうかしら……」
「あなた、少しシャンパンを飲みすぎてたかもしれないわね」
 私の言葉にローラは気を悪くして、肩をいからせて帰って行った。
 
 新婚夫婦がハネムーンから帰ってきた。でも私は、呼ばれない限りは訪ねることはしなかった。ナタリーと私はそんなに気の合うほうでもなかったし、私は次の本の執筆にかかっていたからだ。だからマーチンとも、その後数か月は顔を合わせることもなかった。仕事の合間にふと、マーチンの辛口でとびきりシニカルな物言いを懐かしく思うことはあったが、彼の仕事の邪魔はしたくなかったから、こちらから訪ねていくことは控えていた。ナタリーは、仕事を変わってロンドンに出勤するようになっていたし、時々は泊りになることもあると聞いていたが。
  そうこうしているうちに、マーチンから夕食に招待された。
「紹介したい男がいる。テレビ関係の人なんだ。会ってて損はないよ」
 
 ガイ・ヘンダーソンは若いころ、多くの者たちにとって「会ってて損はない」人物だったようだ。特に女性に対しては、見返りを期待していろいろしてあげたように見受けられる。そう思ってしまうのは単純に、私がこういうルックスの男をあまり好きではないからか。大きながたい、あごひげ、ブロンドのはね毛の下には血の気の多そうな赤ら顔、そこに貪欲そうな青い目が居座っている。
 ところがナタリーには、この男はかなり魅力的に映っていたようだ。ガイとナタリーは同じ業界ということもあり、共通する点も多いのは承知していたが、それにしても、この二人の意気投合の仕方は派手だった。
 ガイは、BBCお得意の文学番組を担当していた。ブックエンドとか呼ばれている時間枠だ。時代をリードする若手作家の日常を、一か月間に渡り追って紹介する番組で、今回は、マーチン・フェンサムを取材するというのでここに来ていた。
 ガイ・ヘンダーソンは、マーチンが作家仲間として私を紹介したとき、まったく興味を示さなかった。取材の席で、これから数か月間ちょくちょくお会いすることになりますからとのたまっていたが、視線は私にではなく、ナタリーに注がれたままだった。私としては、まったくお目にかからなくともちっとも構いませんよと言いたかったが、もちろん言えるはずもなかった。
 
 
 それからいくらも経たないうちに、うわさが持ち上がった。
 私が最初に耳にしたのは、ジーン・ウォレスからだ。教区の月例会の席だった。
「あの二人が一緒にいるのを見たのよ。ロンドンの《レスカルゴ》っていうレストランだった」
 インスタントコーヒーをすすりながらジーンは言った。「親しげに寄り添って座ってたのよ!」彼女お得意の、悪戯っぽい無邪気な笑顔だ。
 私たちは誰一人、そういう彼女はいったいそんな高級レストランで何をしていたのかと、勘ぐることさえ忘れていた。
 続いたのが、ローラ・ペティファーだ。「私も、ガイ・ヘンダーソンの車を見たのよ、両親の家にティムを迎えに行った帰りだったわ。避難所に停めてあった」
「二人が中にいるのを見たの?」私は聞いてみた。
「実際に見たわけじゃないんだけど」ローラは言った。「でもティムが言ってた。助手席の背もたれに、ナタリーのスカーフがかかってたみたいだって。だって、ガイの車がそこにあったのよ。ほかにどんな理由があるの?」
 ほかにどんな理由? この人はいったい何が言いたいのだろう。日ごろは人格者で通っている人たちが、他人の色事には目の色変えて、あれこれ言い募るのには辟易する。
 私は、ガイ・ヘンダーソンは撮影のためにここに来ているのだと指摘した。撮影に適したロケ地を探していたに違いないと。作家が、自然からインスピレーションを得ようと野辺を歩き、それをBBCのカメラが追う趣向なのだと。
  しかしいくら力説しても、彼女たちの耳には届いていない様子だった。
 
 
4
 そして今度はマギー・アンダーウッドだ。彼女は二十五年ほど前、独身の意思を固めてこの村に来た。以来、ずっと独身を通している。結婚する機会を逸したのか、はたまた、この村でリーダー格として確固たるステイタスを築いていた彼女は、へたな結婚はその立場を損ないかねないと思ったのか。
 父親のアンダーウッド将軍は、なんでもその昔、インドで大きな力を持っていたらしく、彼女が時間を割くのは、その回顧録の編集作業と、彼女のボーンチャイナのティーカップを使うのにふさわしい〈上品な〉隣人たちとのお茶会だった。
「二人は手を取り合っていたわ」線の細い〈上品な〉声でマギーは言った。「私、見たのよ」念入りに化粧を施した顔に皺をよせて、嫌悪感をにじませた。
「どこで?」ローラが身を乗り出した。
 マギーは、司教が例会用に用意した使い捨てのプラスチックカップを置いて言った。「それがあなた、列車の中よ!」
「軽はずみだわね」ジーンが言った。「ロンドンから誰が乗ってくるか分からないのに」
「それだけじゃないの」マギーは続けた。「その前に二人はステーションホテルから出てきたのよ」
「列車に乗る前に、ちょっと飲んでただけじゃないの?」私は言った。
「手に手を取って?」
「ショービジネスの仕事をしてるんだもの。ああいう業界の人たちは、表現が大げさなのよ」
 私が何を言おうと無駄だった。皆、ナタリーとガイは間違いなく出来ていると思い込んだようだった。
 
 だから数か月後、ナタリーが夏に子供が生まれると皆に報告したときは、村じゅうが意味ありげな視線を交し合った。
「そうなの?」村の売店で、ローラ・ペティファーは冷笑を浮かべた。「父親は誰かしらね」
「可哀そうなマーチン」ジーン・ウォレスが嘆くように首を振りながら口にした。
 父親の回顧録のおかげですっかり文学者気取りになったマギー・アンダーウッドは、不貞の妻を持った夫を評して何やらぶつぶつ言っていたが、幸いなことに、私にはよく聞こえなかった。
 
 誰がナタリーに伝えたのか。考えるまでもないということか。
  ナタリーのお腹が目立ち始めるころには、父親はマーチンではなくてガイだというのが、村じゅうの人間の思うところとなっていた。ナタリーの耳に入らないはずがない。
  やはりどうしても、マーチンに忠告しておくべきだった。
 しかし彼にとって、ナタリーは自慢の妻だったし、子供の誕生も何よりも楽しみにしていた。   そのどちらの喜びも奪うようなことなど、私にはできなかった。
 
 
 夜ふと目が覚めると、寝室いっぱいに青いライトが点滅していた。外を見ると、マーチンのコテージの前に救急車が停まっていて、ストレッチャーが運び込まれるところだった。
 私はガウンをまとって隣に向かった。マーチンが取り乱していた。
「ナタリーが……」
「まさか、流産!?」
「違う」ストレッチャーがコテージの急な階段を降りていくのを見ながらマーチンが言った。「首を吊ろうとした」
「えっ!?」
「寝室で首を……さいわいロープが切れて……。でも床に落ちて、ひどく打ちつけられて……そ、そこらじゅう……血だらけで……」
 唇が痛々しく震えていた。シニカルで、機知に溢れ、他人の不幸を分析していた男が、自身の不幸に見舞われてしまった。
 このことが、彼の今後の作品にどんな影響を及ぼすのか。私は彼を慰めながら、ぼんやりそんなことを考えていた。
 
 
5
 それから、ナタリーの姿を見ることはなかった。
 マーチンは、痛ましいまでに蒼白な顔で戻ってくると、そのまま家の中に引きこもってしまい、そして突然、夜中の二時、三時ごろ車で出かけて行った。夜明けまで野辺を彷徨い続けていたのかもしれない。
 何週間もして、うちを訪ねてきた。ウイスキーのグラスを重ねながら、口を開いた。ナタリーは自分たちの子供を失っただけでなく、二度と妊娠できない体になったと宣告されたと。悲嘆と絶望に打ちひしがれて、マーチンの元を去ってしまったとも。
「彼女を愛しているんだ」マーチンは言う。「どうしてこんなことになったんだ。なぜ自殺なんかしようとしたんだ。僕が何かしたか?」
「何も聞いてなかったの?」
「僕を裏切るようなことはしてないってずっと言ってた。そんなこと、考えもしないのに」
 誰かがマーチンに伝えなければと思った。そして今、それができるのは私だけだ。
「マーチン……」彼の肩に手をかけた。「村の人たちは、子供の父親はあなたじゃないって噂してたわ」
 マーチンが私を凝視した。その表情は、彼がナタリーに会ったときから見せなくなっていたものだ。目的のためには手段を選ばぬ冷徹な表情……。
「……父親は、ガイだと!?」
 私はうなずいた。
「ばかな。二人は昔からの知り合いだよ」うんざりした様子でマーチンは続けた。「ナタリーがガイを説得したから、BBCは僕の番組を作ることになったんだ。この村のうわさ好きの女どもは、男と女の間にセックス抜きの友情なんてあり得ないと思ってる」
「たぶんね」
「あのくそババアどもは、自分たちが他人の人生をめちゃくゃにしたなんて、夢にも思ってないんだ」マーチンは怒りをあらわにした。「ペティファーのばあさんもそのなかにいただろ」
「ええ……まあ」
「それからあのペテン師のマギー・アンダーウッドも」
「ペテン師?」
「そのとおり。一目瞭然さ。あの女もいただろ」
 私は小さくうなずいた。うなずく角度を小さくしても、起こったとんでもない出来事は、うやむやになるわけもないのに。
「やっぱりな。それからジーン・ウォレスだ。ナタリーが前に、ガイと一緒にいたときレストランで鉢合わせしたって言ってた」
 
 分からないのは、何故ナタリーはそんなに、村の噂を気にしたかということだ。引っ越すという選択肢もあった。経済的な余裕はあるのだから、ガイと二人、どこにでも好きなところに行けたはずだ。それとも、彼女がもともと持っていたノイローゼ気質が、あんな芝居じみた大げさな行動を取らせたのだろうか。それとも――あの自殺騒ぎ以来、時々私の頭に去来したことだが――本当に、ガイとの間に何かあったか。
 
 
 この村を出て行くだろうと思われていたマーチンは、何故か村に留まった。それどころか、以前はすげなくかわしていた村の役目まで引き受けるようになった。最近は、ティム・ペティファーがマーチン宅をよく訪ねている様子だ。私はといえば、次回作の執筆に加え、出版社がやっと力を入れてくれるようになり、宣伝プロモーションに時間を取られていた。時々ふと、マーチンはどうしているかと考えるときなど、やはりマーチンには友人が必要だと思われたから、たとえずっと年下であっても、ティムの訪問は私にとっても嬉しいことだった。それにティムにとっても、支配欲の強い母親よりも、マーチン・フェンサムのシニシズムのほうに、何か得るものがあるかもしれない。
 
 やがて、平穏でゆったりとした村の日常が戻ってきた。クリスマスが近づき、キャロルサービス、教会の飾り付け、パーティー、プレゼントの買い出しの時期がきた。
 
 
6
 小さな歯車が狂い始めていることに、しばらくは気付かなかった。ところが十二月の初めの週になって、ウォレス家のパーティーの招待状がまだ届いていないことに、ふと思い至った。 このパーティーは村の年中行事で、教区のピクニックや保守党後援会主催のバザーと同じように恒例になっているものだ。普通なら単純に、今年はパーティーをしないのだと考えたかもしれない。しかし私はほんの数ヶ月前、ジーンから直接、今年はケータリングを頼むことにしたと聞かされていたばかりだった。
 私はもともと自分に自信がないほうだ。招待がないのはパーティーがないのではなくて、ただ私が村八分にされただけなのかもしれないと思った。こんなことで傷つくのは意に反するので、以前よりもウォレス家を気に掛けるようになった。
   そういえば最近、ケンの車が家にない。夜も、まるで誰もいないかのように家に明かりが点いていないこともしばしばだ。ジーンの姿も見かけなくなった。
 
 事情を教えてくれたのはマーチンだった。「え?  あなたが聞いてないなんて意外だな」
「聞いてないって、何を?」
「ケンが離婚したがってるってこと」
 このときの驚きを、どう表現すればいいだろう。ウォレス家は、村にとってかけがえのない存在だ。村の象徴といってもいい。二人が別れることになれば、村は求心力を失い、まとまりがつかなくなる。
「あの人たちが別れるわけないわ」私は言った。
「なぜ?」マーチンは、彼独特の乾いた笑い声を上げた。「彼らだって、人の子さ」
 こんなことを言ってみても始まらないが、あの二人は本当にゆるぎなく、品があり、満ち足りていて、人々の間で失われつつあるからこそ大事にされなければならない、イギリス人の美徳の象徴だった。
「……信じられない」私は言った。
「そんなこと言ったって。実際、家も売りに出てる」
「二人ともここを出ていくってこと?」
「そうするしかないみたいだよ。金銭的にね。二人とも、一緒に住んでたころよりずいぶんランクを下げないと暮らしていけないらしい。ジーンは今、ラートンで部屋を探してるそうだ」
「ラートン?  いくらなんでもあんなところに」
「それで精一杯なんじゃないかな」
「だけど、ケンはどうして離婚なんて。ほかに女性がいるの?」
「いや、ほかに相手がいたのはジーンのほうらしい」
 私は唖然としてマーチンを見た。「ジーンに?」
「そう聞いてる。ロンドンで男と一緒のところを見られているそうだ」
「誰に?」
 マーチンは肩をすくめた。「さあ。彼女がナタリーとガイを見たとき、自分も男と一緒だったんだろう」
 
 
 ジーンはもちろん否定した。――私はラートンに彼女を訪ねた。工場が並ぶ、小さくて汚い町だ。部屋は居心地が悪く冷え冷えとしている。彼女が持ってきた家具や持ち物が、かえって今をみじめなものにしていた。そのみすぼらしく狭い部屋に不釣り合いな大きなソファの隅に、たっぷりとした体のジーンが身を小さくして座り、嘆き悲しんでいる。
「まるで私が不貞を働いたみたいに」彼女はすすり泣いた。「ケネスを愛しているわ。どうして私が浮気なんか。それに……」
 彼女は私から目をそらし、窓の外を見つめた。工場の煙突が汚い裏庭を見下ろすようにそびえたっている。
「それに、あれも好きじゃなかったんですもの……」消え入りそうな声で言う。
「なにが?」
「その……セックスが」
 ――私は言葉に窮した。ケンとジーンがベッドに一緒に寝ている図を思い描くのだけでも気が進まないのに、ましてや二人のセックスシーンなど、一瞬たりとも想像したくはなかった。
「ケンは、それを知ってるの?」
「どうかしら……」ジーンは気まずそうだった。
「ケンは本気で、あなたが浮気していたと思ってるの?」私はつとめてさりげなく尋ねた。
「そうみたい。それに、たとえ浮気の事実がないにしても、もう十分ダメージは受けてるって言うの。立場上、自分の妻が噂されること自体が許せないのよ。笑いものになるより、離婚したほうがましだと言われたわ」
 
 
7
  そう言い放つケンの姿が目に見えるようだった。ユーモアのセンスもあまり持ち合わせていない彼だ。自分の妻へのあてこすりを笑い飛ばすだけの器量など当然ないだろう。
 それにしても、噂の出所はどこなのか。
「私を見た人がいるのよ」
 尋ねるとジーンはそう返した。「レスカルゴで私を見たって。私は一人だったのに。でも、ケンは信じようとしないの」
「何をしてたの?」
「食事をしてたのよ。本当に、ただ、食事をしてただけ」
 私の当惑を見てとると、ジーンはあわてて言葉を継いだ。「ずっと人のために料理してきたわ。子供たちには魚のスティックフライやホットドッグ。ケンにはローストに二種類の野菜を添えたもの。それが今じゃ彼は健康のためだって、いつも小麦胚芽や生のニンジンばかり。たまには何か、いつもと違うもの、自分では作ったこともないような、豪華で美味しいものが食べたかったの。据え膳を味わってみたかったのよ。ただそれだけ」
 いとまを乞うたとき、ジーンは私の腕をつかんで言った。「何もかもが突然だったの」
 むくんで前より大きくなり、化粧っ気のない彼女の顔は醜かった。そして何かに怯えていた。それがより気の毒だった。
「幸せだと思っていたわ。なのに今じゃ……」
 彼女は、みすぼらしい廊下から、みすぼらしくて狭い居間を振り返った。「もう、あのころには戻れないのね」
「戻れるわ。そんなふうに言うものじゃないでしょ」
「いいえ」ジーンは首を振った。
「大丈夫だから」
「いいえ、もうだめ」ジーンはあきらめたように言うと、フルーティングガラスとベニヤ板でできた粗末な玄関戸を開けてくれた。「来てくれてありがとう。ローラやマギーにも、あれから会ってないのよ……」
 マギー・アンダーウッドがあの汚らしい小さなフラットで革の長手袋を膝にのせてお茶を飲む姿は、あまりにもちぐはぐで現実味がなかった。ローラなら、少しは期待できそうな気がしていたのだが。
 
 ところが今度は、そのローラがトラブルに見舞われた。
   ウォレス夫婦の離婚は、まるで破滅の序曲に過ぎなかったかのように、私たちの平穏な生活に、さらに大きな亀裂が入り始めた。
 ティム・ペティファーが突然会計士の仕事を辞めて、インドだかイスラエルだかに行くことを決めたのだという。
 ティムはうちにやってくると、落ち着かない様子で暖炉の前に腰をおろした。「すべて無意味だと言いたいんです。ナンセンスだと。今まで三年間、がむしゃらにやってきた。これからまた三年か四年、見習いの仕事に明け暮れる。そしてその先に待っているのは、退屈な会計士か、エコノミストか、銀行員か……そんなものです。そんなもので、一生が終わるんだ」
「それが、あなたの望みじゃなかったの?」
「ええ、まあ……」ティムは立ち上がって、暖炉から突き出ている薪を蹴り入れた。「そう思っていたこともありました。だけど……もう前の僕じゃない。大人になったつもりです。経験も積まないうちに、目の前にある可能性の扉を閉ざしたくはない。そう思ったんです」
 前にマーチンが同じようなことを言っていた。「マーチンとそんな話をしたことがある?」
「ええ、まあ」彼は若者がよくやるように、ぎこちない所作で肩をすくめてみせた。「マーチンが言ってた。つきつめて考えれば、そもそも人生とはどういうものなのか。机にかじりついて、給料をもらうだけでいいのか」
 最後の言葉を言うときの冷笑は、自信に満ちていた。
「ほかにやりたいことがあるの?」
「ええ。まずは少し、世界を見てみたい。そしてとりあえず、母とはちょっと距離をおいて生きてみたい」
「お母さんが可哀そうだわ、ティム」
「マーチンが言ってた。母は今まで僕の人生を支配してきたんだと」ティムは堰を切ったように話し始めた。「僕は僕のやり方で生きてみたい。母のじゃない、僕の人生を生きてみたい。帰ってきても、つまらない仕事に就く気はないよ。母の老後の贅沢のためだけに働くのはいやなんだ」
「何てこと言うの」
「だって」ティムは不機嫌そうに言った。「本当のことでしょ」
「でもお母さんは、あなたにちゃんとした教育を受けさせたくて、あなたにあらゆるチャンスを与えたくて、節約して貯金してきたのよ」
「僕が望んだことじゃない」ティムは私の目を見ずに言った。
「とにかく、僕は自分でチャンスをつかみたいんだ。のるかそるか、やってみなければ分からないじゃないか」
 
 
8
 気の毒なローラ。ティムが彼女の元を去ってから、生気というものか無くなってしまった。一夜にして髪が真っ白に……とまではいかなかったが、六か月後には確実に灰色になり、前かがみで歩くその姿は見る影もなかった。村の緑地を歩いている彼女を遠くから見かけたとき、私はすぐにローラとは気付かず、自分の知らない老人だと思ったほどだ。
 けれどもそのころ、村人たちの関心は、マギー・アンダーウッドに関する意外な新事実に集中していた。
 将軍の回顧録など、存在しなかったのだ。
 彼女はよくロンドンに、出版社との打ち合わせと称して出掛けていたが、それらがすべて、彼女の想像上の産物だったということが明らかになった。
 そればかりではない。父親と言われていたアンダーウッド将軍も実は存在せず、マギーの人生という薄っぺらな本の架空のキャラクターに過ぎなかったことまで判明した。彼女自身の出自も、高位の陸軍将校の娘などには程遠く、ボールトンのどこかの裏通りで、助産婦の私生児としてこの世に生を受けたらしかった。この母親はのちに、近くにある陸軍兵站部で倉庫係をしていた男と結婚したという。
 そのことを知って間もないある晩、私とマーチンはウイスキーグラスを傾けながら語り合った。マーチンの言うとおり、マギーがわざわざ嘘を吹聴したという事実に比べれば、その中身は大したものではなかった。
「どうして気にするかな」彼は言った。「私生児のどこが悪い? 母親が助産婦だっていいじゃないか」
 そう言って笑った声には悪意があった。「まあ、ボールトン出身だってのは、僕も隠しておきたいかもしれないけど」
「可哀そうに、マギー。もう立ち直れないわ」
「当然の報い、とでも言うしかないだろうな。気取ったお茶会を開き、将軍についての際限ない嘘に、人を付き合わせていたんだから。笑いものになって当然だ」
「少し脚色したのが、そんなに罪なことかしら」
「それはそうさ」マーチンは断固とした口調だ。「それが他人を傷つけるものであれば」
「マギーの小さな作り話で傷ついた人なんかいないわ」
「将軍に関する作り話ではね」
 意地の悪い言い方だった。
 
 それから三日かそこらのある日、マギー・アンダーウッドは、村の店で買ったプラスチックボトル入りの漂白剤を飲み干した。
 その話を聞いてからというもの私は、とくに眠れない夜には、いくら振り払おうとしても彼女のことが頭から離れなかった。キッチンの床に横たわり、薬剤が自分の内臓を溶かしていく痛みを感じながら死を迎えるとは、どれほど辛いものだったか……。
 
 
 ほどなくして、「売り家」の看板が隣のコテージに立った。買ったのは、もうすぐ出産を迎える若い夫婦だった。見たところ、感じのいい人たちだ。イギリスを代表する作家が所有していた家に住めるとあって、とても嬉しそうだった。  
 イギリスを代表する作家――そう、マーチンの今のステイタスは、ガイ・ヘンダーソンのテレビ番組によるところもあるだろう。
 
 
 業者がマーチンの家具を運び出し終わったころ――彼の近著を原作にした映画が制作されることになり、彼はその著作料でケンジントンに広いフラットを買っていた――私は庭に出てマーチン宅に向かった。
 マーチンは窓辺の椅子に座って、鍵を渡すために新しいオーナーの到着を待っていた。
「さよならを言いに行こうと思ってたんだ」
「ええ」
「いろいろあったけど……いざ出て行くとなると寂しいよ」
「そうね」
 作家の目は洞察力があって鋭い。私は自分のなかで、埋め合わせのきかない何かが崩れる感覚を悟られないように努めた。「この村は、あなたが来たころとはずいぶん変わってしまったわ」
 私を見るマーチンの表情は鋭かった。「そうだね」 
 マーチンは、失ったものの大きさをどう見ているのか。ただ容赦のない裁きが下っただけだと思っているのか。
「これで、あなたがより面白いミステリーを書けるかどうかが楽しみになったわ」
「どういう意味?」
「罪を犯すとはどういうことなのか、今度は自分の経験を生かして書けるようになったじゃない」
 マーチンの答えを待たずに私は背を向け、庭をつっきり門を抜けて自分の家に歩いた。
 そしてそのまま中に入って、後ろ手にドアを閉めた。


                        CRIME  WAVES         SUSAN  MOODY        POISONED  TONGUES

「疑惑」(SUSPICION)


BBCラジオショートストーリーより   (原題) SUSPICION

編集・DUNCAN  MINSHULL  翻訳・崔 雅子 

 
 
 
 1
  普通の男に見えたのよ。だからあっさりだまされた。そう、フットボールなんかやってて、仕事はセールスか何かで、スコッチを「ダブルで」なんて注文する。彼はまさに、そんな感じの男に見えた。私はまずそこに惹かれた。
   根なし草のような男としかつき合ったことがなかったから、彼は、これぞ男と思えた。車もちゃんと運転できそうな男に。
 名前は、ケネス・マクターク。店に入ってきて、グァバジュースを注文した。上の階で鍼治療を受けてきたという。
    私が働いているカフェが入っているこのビルには、リフレクソロジーとかアロマテラピーとか、代替医療の店がいっぱい入っていた。もっともチャールズ皇太子が肩入れするようになってからは、代替医療ともいえなくなっていたけれど。
 ケネスはカウンター席に座った。背中をさすっている。
「まいったな。針山になった気分だ」彼は言った。「またでかい針なんだ、見たことある?」
 アイルランドなまりがあった。たくましい外見を裏切る女性のように優しい声。血色のいい肌に突き出た耳。そのせいか、少年っぽく見える。
    彼はスーツを着ていた。
    この店にスーツで来る客はいない。落ち着きなく車のキーをジャラジャラといわせるタイプだ。彼は背中の痛みにずっと悩まされてきたと言った。医者は、ストレスが原因だ、鍼治療を試してみてはと薦めたそうだ。それで、イエローページで調べてここへ来たという。
「あんなものはまじないだな、言わせてもらえば」と彼は言った。「ところで、ここのキャロットケーキはおいしい?」
  ふすまを混ぜてあるわよと私は言った。
「体に優しい店だ。じゃあ、ここで葉巻なんてだめだよね」
 本当はそうだった。けれどもほかに客はいない。
    彼は葉巻に火をつけ、私たちは自己紹介した。
「ヴェルダか。変わった名前だね」
「賢い女っていう意味なの」私は笑った。男に対してもその名の通りならどんなによかったか。
 次の日、店の売り上げを計算していたら、ケネスがやって来て飲みに行かないかと誘ってくれた。思ってもみなかった。ラッキー。私はすっかり舞い上がってしまった。車に向かう途中で、彼はナットウェスト銀行の窓枠に飾ってあった植木箱からフクシアを摘んで、髪に差してくれた。車に着くと彼は、フロンドガラスに貼っていた〈急患往診中〉のステッカーを楽しそうに剥いだ。
「医者じゃないわよね」私は言った。「何やってる人?」
「まあ、あれやこれや」彼は鼻の横を指でたたいた。「貿易関係ってとこかな」
 こんなに危なそうな男は、テレビドラマの中でしか見たことがなかった。
    私は猫たちと一緒に住み、長い間心ときめく恋愛などには無縁の生活を送ってきた。それが今、葉巻の煙をくゆらせながら信号など無視して走る、会ったばかりの中年男の派手な車に乗っている。
   彼は、あの鍼師はインチキだったと言った。
「じゃあ、あなたはインチキじゃない自信はある?」
 彼は笑った。そして、前に職場の同僚にしかけた悪戯のことを話しはじめた。その同僚の机の引き出しに水を満タンに入れて、金魚をいっぱい泳がせたという。
   その話を信じたかどうかは忘れたわ。ただあまりにとっぴょうしもなくおかしくて、私はたちまち、彼に恋してしまった。
 彼は、キルバーンのパブにつれていってくれた。広くて騒々しい店だった。マクドゥーガル兄弟という二人の男がヴァイオリンを弾いていた。私はギネスを一パイント飲んだ。いつも十時にはベッドに入り、ハーブティーを飲んでいるこのヴェルダが。
    店で富くじをやっていた。ぬいぐるみの象が当たるという。そんなぞっとするものには興味はなかったのに、ケネスが「資金集めさ」と薦めた。
「何の資金?」
 けれども彼は鼻の横に指を添えるだけだ。何のことを言ってるんだろう。何だかわけが分からないうちに、ふさふさしたものが腕の中にあった。ケネスではなく、あの象だった。くじに当たっていた。それから、彼の車の中にいた。それから、レストランでシャンパンを飲んだ。それから、私のキルトの中でケネスを腕に抱いていた。キッチンに閉じ込めた猫たちがドアをガリガリやる音を聞きながら。

2
   それから二、三週間して、ケネスは越してきた。といっても荷物はスーツケース一つ。
   大男は家具にぶつかり、バスルームで口笛を吹いた。髭をそっているときでさえジージーという音に合わせて『マイ・ウェイ』を吹く。私は彼のためにタイフー社の紅茶を買い、愛の証として朝食にベーコンを焼いた。私はベジタリアンで、本当はにおいを嗅ぐだけで気分が悪くなるのに。
   六フィート二インチ(約188㎝)のケネスと一緒だと、私の部屋はより小さくなる。ろうけつ染めの壁掛けやポプリを入れたいくつもの容器も、いかにも女が長い間一人で住んでいた雰囲気だ。それでも彼は、落ち着くよと言ってくれた。別世界にいるみたいだ、君と僕、二人だけでベドウィンのテントの中にいるんだよ、と。
「外は戦場だよ、ヴェルダ」ベッドに寝そべって、ぬいぐるみの象を抱きながら彼は言う。お香の煙と葉巻の煙が、ベッドの両脇でらせん状にゆらめく。「君には分からないだろうね」
 ケネスは私をとりこにした。上の階の八十三歳のミセス・プリチャードもとりこにした。買い物を運んであげながら、ケネスはよく、このおばあちゃんと楽しそうに喋っていた。ケネスといると、私は自分がこの世で一番魅力的な女ではないかと錯覚してしまう。肌は上気し、満たされる。きれいだ、セクシーだ、僕の女神だと彼は言う。湯気で曇ったバスルームの鏡に思わせぶりなことを書く。そしてよく花をプレゼントしてくれる。そう、花を! 遅くなったとき、ウェストボーングローヴ通りにある深夜営業の店で、彼は花を買ってきてくれる。かわいらしい包みの中で、花たちはうなずき合うように揺れていた。
 ケネスはよく、夜遅く帰ってきて朝早く出て行った。午後は家にいて夕食の後出かけることもあった。彼に電話はなかったし、彼の友達にも会うことがなかったけど、私にはそんなことどうでもよかった。二人一緒の世界に浸れるだけで、他には何もいらなかった。カフェの仕事もパートだったから、ケネスにも彼の仕事にも合わせられた。
   といっても彼の仕事は、そう、なぞだった。ただ聞いていたのは、あちこち飛び回るということだけ。事実、何日も留守にすることもしょっちゅうだった。けれども怪しいと思ったことはなかった。私ときたら手錠を見つけたときでさえ、何の疑いも持たなかった。というか、思い違いをしていたのだ。
 あれは、ケネスと暮らし始めて二週間が過ぎた頃、ちょうど映画から帰ってきたときだった。私は車にショールを忘れたことを思い出して、キーを取ろうと玄関に掛けてあるケネスの上着のポケットをさぐった。するとポケットの中に、重い紙包みがあるのに触れた。私はそれを取り出した。ちょうどケネスがキッチンから出てきたところだった。私は紙包みから手錠を出し、声をあげて笑った。
「こういうプレイが好きなのね!」
 ケネスは顔を赤くした。それから笑って「そうさ、僕を縛って!」と布巾を私の手に押し付けてきた。「さあ、このいやらしいクロスでぶってくれ! お願い! さあ!」
 その夜、もう一つ変なことがあった。彼はちょっと葉巻を買ってくると言って出て行った。私は窓から彼を見ていた。なぜそんなことをしたのかしら。自分でもよく分からない。ケネスは通りを渡ってウェストボーングローヴの方へ歩いていった。ところが、角の電話ボックスのところで立ち止まり、回りをきょろきょろ見回して中に入っていった。私は、ブースの明かりの中にぽつんと浮かび上がった小さな人影を見ていた。なぜ誰も見ていないと思っているときの親しい人の姿って、いつもしょぼくれているんだろう。どうして私に内緒で電話するの? 
ベイズウォーターのこの辺の電話ボックスにはピンクチラシがべたべた貼ってあった。〈ロレーヌで~す。あたしをぶって! おしおきして!〉ケネスはそういうのが好きなのだ。だからよく出て行くんだ。ロレーヌか誰か、その手の女に電話しているのだろう。
 ケネスには何も言わなかった。女房気取りで非難して、二人が一緒にいられる短い時間を台無しにしたくなかった。けれども次の日の朝、彼はイライラして、心ここにあらずというかんじだった。朝食のあと寝室に入ると、ケネスが泥だらけのスニーカーをスーパーのビニール袋に押し込んでいるところだった。私を見ると動きを止めて、袋をベッドの向こう側に投げ、私の肩に手を回してきた。
「二、三日留守にしなきゃならない」ケネスは言った。「ああ、ヴェルダ。愛してる。こんなこと何もかも放り出して、君と二人っきりでずっといられたら」
「放り出すって、何を?」
 
3
「外は危険なんだ。たとえば、ある男がいたとする。男は弱虫だった。若くて愚かだった。彼は生涯に一度、過ちを犯して捕まった。くもの巣にからめとられたハエのようにね。それからは囚われの身さ。逃げられたとしても隠れられない。隠れても逃げられない」
 彼は私の鼻の頭にキスをして出て行った。シューズも、何もかも持って。
 その日の夜、国防義勇軍の兵舎が爆破された。リージェンツ・パーク近くのオールバニーストリートだ。四人が負傷した。それで済んだのは奇跡的だが、建物の半分は焼けてしまった。IRAが関与を認め、英国本土におけるテロ活動を強化させるという声明を発表した。
 私は新聞は読まない。政治にもうといほうだ。この事件も、客が置いていったガーディアンのトップ記事だったからたまたま知った。このときでさえ、何も思わなかった。何も思い当たることはなかった。木曜日までは。
 
 二、三日して、ケネスが帰ってきた。気のせいだろうか、太った感じがする。実際体重も増えていた。私が作ったレンズマメのラザニアのせいかしら。それから彼は、ビルマ猫のフラップジャックをしかりとばした。ちょっと靴ひもにじゃれついただけなのに。
 夕方、私は買い物をしようと急いで家を出た。途中で財布を忘れたことに気がつき、引き返して部屋に戻った。ケネスは寝室にいて、電話で喋っていた。私は玄関で立ち止まった。
「ファーガスを出してくれ」彼は低い声で喋っている。少し間があった。「ファーガス、あの銃には触るな。分かったな。あれはしまっておけ。じゃないとミスター・コナリーに報告するぞ。それはいやだろう?」
 私は部屋を出て、そっと階段を降りていった。ふらふらと道を歩き、つきあたりまで来るとそのままガードレールに寄りかかった。心臓が激しく波打っている。ああ、なんてバカだったんだろう。こんなことって。私は事実を一つ一つ思い出し、つなげていこうとしたが、半分頭が麻痺してしまってうまくいかない。
 手錠。キルバーンのアイリッシュパブ。爆破テロ……。何の説明もない長い不在……。電話ボックス。それから今の、脅迫めいた電話……。
 不思議に、危険が自分に及ぶとは考えられなかった。不届きな胸の高鳴りを覚えていた。私の愛した男が、突然遠い存在になった。それでもまだ、どうしても思えない。ケネスが危険な男かもしれないなんて、もしかしたら、殺し屋かもしれないなんて。何もかもがつながりのない、非現実的なことのように思える。まるでふだんは見ない、人ごとだと思っていたテレビドラマの世界に足を踏み入れてしまったみたいだ。
 深夜営業のスーパーで、私は豚の切り身の前に立っていた。豚の腎臓のパックが、冷凍肉のパックの中にまざっている。ああ、そうだ、夕食の材料を買いに来たんだと思い出した。けれどその夕食を食べるケネスは、もう前のケネスではない。
ベジタリアンの私にとって、食肉売り場は死臭がする場所だ。ラップの下に封印され、そこによどむ死の臭い。こんなことを考えてはだめ。考えようとしてもだめ。そうじゃなきゃ家に帰ったとき、ケネスにどんな顔をすればいいのか分からなくなる。だけど何を買えばいいの? 頭の中は真っ白だ。横で、ドレッド・ヘアの黒人男がウォークマンのビートに合わせて体を上下させている。女が肩で私を押しのけて、パックのソーセージを手に取っている。ワゴンががたがた行き来する音も、館内放送のガーガーいう音も、ずっと遠くから聞こえる。今夜は何とか切り抜けなきゃ、感情を殺して通り過ぎなきゃ。明日になってケネスが仕事に出かけたら、ゆっくりと頭の中を整理しよう。
 私はアパートの部屋に戻った。
「僕の太陽!」ケネスが後ろから抱きついてきて、壁に私を押しつけた。「君が出て行って五分で、時が止まってしまうんだ!」彼の熱い息が顔にかかる。
ケネスに疑いを持ったときから、私の時も止まっていた。もう今までの人生じゃない。違う人生に足を踏み入れてしまった。後戻りはできない。もう決して。

4
   夜は雨だった。けれども翌朝には雨もあがり、空は澄んでまぶしかった。雨に洗われて通りもきれいだ。私はケネスにいってらっしゃいのキスをした。水たまりがきらきらする。向かいのアパートの窓が開き、誰かが私にちかちかと光を放ってメッセージを送ってきた。それともケネスにだろうか。ケネスはどこに行く?
「どこに行くの?」私は聞いた。
「リバプールだよ」ケネスはさらっと言う。「積み荷が届くんだ」
 アイルランドから? そんなこととても聞けない。問いつめれば、裏切っているのはケネスではなく私のほうだという気がしてくる。バカな私。
 シャワーを浴びて黒くつやつやした髪は、きれいに後ろになでつけられている。指のシグネットリングが、ケネスが鼻の横をかくたびに日の光をとらえて光った。私はケネスの体に腕を回し、きつく抱きしめた。心の中でつぶやく。さよなら、出会ったころのあなた。タバコとオー・ソバージュの香りがなつかしい。
「さあ」私の腕をほどきながら、ケネスは小さな声で言う。「明日には会えるんだから」通りを流し見て、車のトランクにスーツケースを積み込んだ。私は手伝おうとしたが、彼はそれをさえぎりトランクを閉めた。少し息があがっていた。
 彼を見送ってしまうと、私はのろのろとアパートに入った。一気にふけた気分だ。ミセス・プリチャードが階段をかけ降りてきた。彼女のほうが少女のように軽やかな動きだ。
「坊やはもう行っちゃった?」デイリー・エクスプレスをひらひらさせている。「今日の運勢を教えてあげようと思ったのに」
 私もそれだけは読んでいたわよ。星占い。ほかのページを読まなかったわけが今はわかる。
「フライトの前には知りたいって言ってたのに」ミセス・プリチャードは言った。「パイロットってのは縁起をかつぐからね」
 ああ、ケネスはこのおばあちゃんにも嘘をついてた。
 私は玄関のドアを閉めた。猫たちが足にすり寄ってくる。この子たちはケネスの足にも同じようにする。違いが分からないのだ。私は瞑想をしようとポーズをとった。けれども全然集中できない。カーペットにあぐらをかいたまま、鏡に映った自分の姿を眺めた。くすんだ黒い髪、四角い顔。ヴェルダ・マシューズ、三十一歳。
私のグループセラピー歴はかなり長く、何かを見出せることを期待して、自分の内なる小宇宙――精神世界を模索してきた。仏教、ええ、かじってみた。サイコセラピー、そうね、何年やったかしら。ビーズクッションの上で、赤の他人の肩にすがり、むせび泣いて繰り返した。あなたを愛していると。けれど得られるものは何もなく、虚しいだけだった。ところがケネスと出会って、不意に人生が色づいた。皮肉なものね。彼は人間をこっぱみじんに吹き飛ばす男なのに。
 ラジオを点けた。いつもラジオ3に合わせてある。私はニュースを聞こうとチューナーをいじった。
〈……ロンドン中心部では、厳戒態勢が敷かれ……ベルファスト北部で兵士一人が撃たれて死亡……〉
 スイッチを切った。寝室に行ってワードローブを開ける。ケネスの服がかかっている。さわりたくない、もう何も見つけたくない。ぼうっとしたまま職場に向かい、グアカモーレとスグリのフールをまちがえて客に出したりした。どうしたのとオーナーのマージが声をかけてきたけれど、何も言わなかった。口に出してしまったら、それが現実になりそうで。興味本位であれこれ聞かれるのも嫌だったし、何より私自身決断を迫られる。ケネスを追い出す? 警察に通報する? 彼を裏切る? 彼が私を裏切ったように? でももしかしたら彼は嘘をついて私を守ってきたのかも知れない。どうすればいいのだろう。
    セミナーでは、否認や怒りの感情とどう向き合うか、自尊心の喪失をどう克服するかを教わってきた。けれども、愛した男がテロリストだったときのことなど教えてくれなかった。こんな問題は取り上げたこともない。せいぜいが、親による虐待の問題だった。

5
 ケネスは翌日の夕方帰って来た。ずいぶん疲れている様子だ。ベッドに入るとすぐ眠りに落ちた。死んだように眠っている彼の足は重かった。
〈外は危険なんだ〉表をパトカーが、サイレンを鳴らして通りすぎる。
〈男は生涯に一度、過ちを犯した。そして捕まった〉たぶん若くて何も知らなかったとき、彼は組織に加わった。そして逃げられなくなった。それからは破滅の人生、犯行の渦の中。
 ケネスは寝返りをうち、小さくうなった。
「何かトラブルがあるなら……」私はつぶやいた。
 ケネスは首を起こした。「トラブルって、何のこと?」
 通りで女が叫ぶような笑い声をあげる。車のドアが大きな音をたてて閉まる。疑惑を持ち始めたのはいつだった? ほんの一週間前だったかしら。SMプレイのコールガールに電話していると思っていたころはまだ平和だった。まるでノディーの世界だった。時間を巻き戻せたらいい。あの日に帰って、もう一度やり直すことができたらどんなにいいか。
 ケネスは再び眠りについた。私の横で、大きな苦悩の種が寝息をたてている。こんなセンセーショナルなことは、ポーリーンから実はレズビアンだったと告白されたとき以来だ。こん棒でガツンとなぐられて……それからじわじわと、肌を針で刺されるような痛みとともに実感した。もう一度、最初からポーリーンとつき合い直さなければならないのか……。
 そうだ。私は起き上がった。きのうの朝、ケネスは何を隠したんだろう。トランクの中に何が入っていたんだろう。
 私はベッドをしのび出て、キモノをひっかけ、そっと玄関に向かった。彼の上着のポケットをさぐる。とがった冷たいキーの手触り。そして硬くごつごつした聖クリストフォロスのキーホルダー。実際に行動を起こしてみると、ぼんやりと疑いを抱いていたときよりずっと胸さわぎが強くなる。私は表に出た。凍るように寒かった。
   トランクのカギを開けて中を見た。毛布で半分隠すようにくるまれていたのは、長くてかさ高なバッグみたいだ。ゴルフバッグくらいの長さ、けれども中にゴルフクラブが入っていないことだけは分かった。
「どうしました?」
  私はあわてて振り向いた。パトカーが私の横に止まっていた。車内の無線機が雑音をあげている。
「ええ、ちょっと……車に忘れ物をして」私はぎこちなくそう言うと、トランクを閉めた。
 
  次の日の朝、七時半に電話が鳴った。私は受話器を取った。
「もしもし?」
  返事はない。息づかいだけが聞こえる。電話のずっと遠くのほうで、かすかに、マシンガンのような音がしていた。不明瞭だけど、ダダダダ、ダダダダと。そして電話は切れた。
   ケネスはベッドの上に起き上がっていた。「誰?」とげとげしい声だった。
「まちがい電話」
  三十分後、彼のベーコンを焼きながら、私はつとめて明るく振舞った。
「考えてみたら、私あなたのこと何も知らないかも」
「僕の何が知りたいのかな、お嬢さん」ケネスの声も明るかった。二人で腹の探り合いをしている。そんな気がした。
「あなたのこと全部」私はベーコンエッグを彼の皿に盛った。「趣味だって知らないもの」
「そうだな、小さな女の子たちの羽根をもぐことかな」
  私は無理やり笑おうとした。「じゃあ、スポーツは? テニスとか、ゴルフとか」
ケネスは少し考えて言った。「ゴルフかな。ただ、やってる連中がちょっとね」
   どういう意味だろう。大英帝国時代の生き残りみたいな人たちとか? アンチIRAとか? 「じゃあ、クラブは?」
「いや、僕は素手で打つんだ」
「そうじゃなくて、どこのクラブに入ってるのかなって」
  ケネスはボトルをかたむけた。赤いケチャップが皿の上にどろっと出てきた。「マウント・ビューだよ。どうしてそんなこと聞くの?」
 
  ケネスが出かけると、私はイエローページでマウント・ビュー・クラブを探した。エンフィールドにある。さっそくダイヤルした。
「あの、そちらのメンバーの方に伝言をお願いしたいんですが。ミスター・ケネス・マクタークに」
   受話器の向こう側で、パラパラとページをめくる音がする。係りがリストを調べている。調べ終わると係りは言った。「メンバーにそういうお名前の方はいらっしゃいませんが」

6
 その日の朝、チャンセリーレーンに停めてあったフォードのトランシットワゴンから爆発物が見つかった。この記事はスタンダード紙で読んだ。私もこのごろは、毎日新聞を読んでいる。
〈十分警戒して下さい〉軍のテロ対策本部が告知した。〈市民の皆さんにお願い致します。目撃情報をおよせ下さい〉
   ロンドンデリーでは、誘拐事件も多発していた。ついこの間も、スーパーマーケットの経営者とその妻が誘拐された。けれども正直に言って、私は一連の事件の被害者を思いやることも、そんな手段に訴えるテロリストの主張が政治的に正しいかどうかなんて考えることもしなかった。この恋の行方のことで精一杯だったのだ。ケネスはほんとうに私のことを大事に思ってくれているんだろうか。アパートを潜伏場所として使うためだけに私を利用したんじゃないんだろうか。そんなことばかり考えていた。
 夕方私がアパートに戻ると、ケネスの車が暗い通りの路肩に止まっていた。もう帰って来ている。私は、他人の家に忍びこむ泥棒のようにこっそりと部屋に入った。なんだか私まで犯罪者になったみたいだ。寝室のドアの外で立ち止まる。ケネスは電話で喋っていた。
「何言ってるんだ、今は無理だよ!」感情むき出しで言葉もはっきりしない。「声を落とせ! 落ちつけよ! あいつらに聞こえるだろ!」
 私はキッチンに入り、シンクに山積みになっている洗い物をみつめた。情けなくて笑いが出ちゃう。テロリストは洗い物も手伝ってくれないの? 涙があふれてきた。
「ヴェルダ、ごめん」
  私はとび上がった。ケネスが戸口に立っていた。ひどいさまだ。目は血走り、ネクタイはゆるんでいる。
「行かなくちゃ」
「どうして行くの?」私の声はうわずっていた。「どうして何も言ってくれないの? 私を信じてないの? 私が分からないと思っているの?」
「ああ、君には分かりっこないよ、ヴェルダ。まともな頭じゃ理解できないことなんだ」
   ケネスは私にキスをして出ていった。ドアの閉まる音だけがひびいた。
   私は後を追った。表に出ると、ケネスの車が道路の縁石を離れるところだった。ヘッドライトが雨の中を照らしている。
 その瞬間、心が決まった。
   とっさの判断だった。タクシーが通りかかったとき、私は道路に走り出ていた。
「あの車を追って!」
   芝居がかったセリフを吐いたとたん、すべてが現実味を失った。ぞくぞくする感覚に吸い込まれていく。私はハンドバッグを胸にぎゅっと抱えこんだ。タクシーがカーブを曲がるたびに体も一緒によろめく。交差点で車が止まるたび、その振動に合わせて体もがくがくゆれる。一度だけケネスの車を見失いそうになったけど、彼の車はテールランプが一つ壊れていて、それが目印になって、前を走っているのを見つけた。落ち着け、落ち着け。私はオーム、オームと唱えてみた。けれどもふいに、ばかなことをしている気になる。玄関のドア、ちゃんと閉めたかしら。猫たちは外に出たりしないわよね。どこまで行くのだろう。タクシー代足りるかしら。運転手は黙って運転している。私はそのがっしりしたうなじを見つめた。その向こうでワイパーが左右にスウィングしている。赤い水滴もゆれている。赤い光はリズミカルに、フロントガラスの上で行ったり来たりしていた。
 三十分くらい走ったろうか。もしかしたら、もっとかも知れない。タクシーが止まった。どこかの住宅街のようだ。チューダー調の大きな家々が両側にそびえたっている。ここがIRAのアジト? 私はタクシー代を払おうとバッグの中をまさぐった。手がぎくしゃくしている。運転手はそんなこと気にもとめていない様子だ。前方にケネスの車が止まっている。テールランプが消えた。ケネスが車から出てきてトランクを開け、例の大きくて重そうなバッグを取り出した。しばし雨の中で佇み、一軒の家を見上げ、それからゆっくりと玄関のほうに歩いていった。
 私はタクシーを降りた。タクシーはそのまま雨の中に消えた。女の人が一人、うつむいたまま足早に歩いてきて、私の前を通りすぎた。「すみません」私は小さな声で呼びとめた。「あそこの家、だれが住んでるんですか?」
「あそこ?」彼女は家のほうに目をやった。「不動産屋さんよ」
「不動産屋?」
「ええ、ご家族で住んでるわ」そう言うと彼女は早足で去って行った。私はびしょぬれのまま、その場に立ちつくした。
こういうとき人間って、とんでもないことをしてしまうことがある。だって普通こんなこと、そうそう起こるものじゃない。意識が体から抜け出して、空中を浮遊しているようだ。アドレナリンがあふれ出す。まるで、緊急用のエンジンがうなりをあげてたった今作動し始めたみたい。やっと状況がのみこめた。ケネスは不動産屋を殺すつもりなのだ。そうでなければ人質に取るつもりだ。

7
   ケネスは家に入っていった。私は後を追い、裏庭に回って濡れた植え込みをかき分けた。ダダダダ、ダダダダ。家の中からマシンガンの音がする。キッチンのドアに回った。ドアに鍵はかかっていない。私は中に入った。
 二階から、ケネスの叫ぶ声がする。それから、女の人の声。
「このろくでなし!」女の人は泣きながら、何度も繰り返した。「ばか! ろくでなし!」
 マシンガンの音が止んだ。私は階段を一段飛ばしで駆け上がった。おどり場の照明がまぶしい。声はドアの向こうからだ。私は勢いよくドアを開けた。
 寝室でケネスが女の人と向かい合って立っていた。二人は同時にこっちを振り向いた。
「ヴェルダ!」ケネスはそう言って息をのんだ。
「この女が?」女の人が言った。「何でここにいるの」
 ひざががくがくする。私は椅子にへたり込んだ。男の子が二人、部屋に入ってきた。一人は銃のおもちゃを持っている。
「ファーガス! ドミニク!」ケネスが大声をあげた。「下に降りてなさい!」
 男の子たちは私を見た。そして、目をまん丸にして出て行った。カタカタカタ……階段の手すりに銃をあてながら、下に降りていく。
 女の人はベッドの上に座った。脱色したブロンドの髪。とてもきれいな人だ。「そう、この人がそうなの」彼女は言った。「大きな人ね」
 沈黙があった。下でテレビが点いた。ケネスは顔を赤くして、葉巻をさぐった。
「ここで吸わないで!」女の人が言った。「私がきらいなの、知ってるでしょ!」
  ケネスは葉巻のパックをポケットに戻し、がっくりとうなだれた。校長先生の前に立たされた小さな子供みたいだ。
   女の人は冷めた目つきで私を観察している。「今どき、カフタンなんか着てる人がいるのね」
「サリー――」
  ケネスが何か言おうとしたが、彼女は無視した。そして私のほうに向き直った。「ヴァレリーだったかしら。こんな男、あなたにあげる」
「ヴェルダよ」
「私、毎日息を切らしてたのよ」彼女はベッドに体を投げ出した。「連れてって、そんな男!」シャンデリアを見つめている。「もう毎日掃除機をかけてこのだだっ広い家をきれいにしなくて済むわ。夫は、片づいてて当たり前だと思っているのよ。気がつくのはたまにちょっとちらかってるときだけ。手伝いなんて何もしないくせに、口出しだけは一人前なんだから……」最後はまるでうわごとのようだった。「夫のじゃまにならないように子供たちのけんかを止めるのも、おもちゃを片づけるのももうおしまい。夫は子供たちにやらせろって言うけど、そんなことしてたら、いつまでたっても片づきゃしないもの。結局自分がイライラするくせに。ああ、でもこれで、子供たちがろくでもないビデオを見てるってむしゃくしゃすることもなくなるわ!」
「そこまで言わなくても」ケネスは言った。
「それにこの人ったらぶくぶく太っちゃって!」彼女は続けた。「太るはずよね。夜二回も食べてたんだから。最初はうちで。二回目はあなたの家でね。あなたがどこに住んでるか知らないけど」彼女は頭を起こして私を見た。「あなたも自分の料理大好きでしょ。見れば分かる」
「そんな言い方ないだろ!」ケネスが声を荒げた。
 サリーはケネスを見た。「急にゴルフを始めるなんて、おかしいと思ってたのよ、めんどくさがりだったくせに。あたしったら、何で気がつかなかったのかしら。セント・アンドリュースでトーナメント、週末はまたどこかでチャンピオンシップ、そして泥だらけで疲れて帰ってくる。そりゃあ、疲れるはずでしょうよ」サリーは声をあげて笑った。
 私はケネスを見た。「あれがおもちゃだなんて思わなかったの。あの手錠」こんなときに私、何を言ってるのかしら。
「連れてって!」サリーは大きな声をあげた。泣き笑いの顔に涙がつたって落ちる。「連れてって! あなたもちゃんと決めることね!」
 
 そう言われてケネスを見た。そして私は、心を決めた。
 


                                                 THE   BEST   OF   BBC  RADIO'S   RECENT   SHORT   FICTION
                                                                      EDITED   BY   DUNCAN   MINSHULL 


「幸福の王子」(冒頭)

オスカー・ワイルド・作    崔 雅子・訳
 
 
 町を空から見下ろすような、高い円柱の上に、「幸福の王子」の像が立っていました。像は全身を金箔でおおわれ、目には真っ青なサファイアが、剣の柄(つか)には真っ赤なルビーが光っていました。
 王子は町の憧れでした。「まさしく風見鶏の美しさだ」とは、ある市会議員の弁でした。この市会議員は、芸術が分かる男との評判が欲しい一方で、実用性のないものに関心を向ける輩とも思われたくなくて「しかし役には立たんがな」と付け加えることを忘れませんでした。
「どうして、幸福の王子さまみたいになれないの?」
しつけをきちんとしたいと思っている母親は、月を取ってくれとだだをこねて泣いている男の子に向かって言いました。「幸福の王子さまは、何かが欲しいと言って泣くことなんて、絶対になさらないわ」
「なんにしろ、この世に本当に幸福な人がいるっていうのは、喜ぶべきことだね」失意の底にいる男は、この美しい像を見上げてつぶやきました。
「幸福の王子さまは、まるで天使みたいだ」大聖堂から出てきた子どもたちが言いました。深紅のコートに真っ白なエプロンドレスの、慈善学校の子どもたちです。
「どうして幸福の王子が天使みたいだって分かるんだね?」数学の先生が言いました。「おまえたちは、天使を見たことなどないじゃないか」
「夢のなかで見たんです」子どもたちは答えました。
 数学の先生は、眉(まゆ)をひそめてきびしい顔をしました。この先生は、子どもたちが夢を見ることを認めない人だったのです。
 
 ある晩のこと、一羽の小さなツバメが、町に飛んできました。仲間はみんな、6週間も前にエジプトに向けて旅立ったというのに、このツバメは、美しいアシの娘に恋をして、遅れてしまったのです。
春もまだ早いころ、大きな黄色いガを追って水面を滑空していたとき、ツバメはアシを見つけました。その細いウエストに魅(ひ)かれたツバメは、アシに話しかけました。
「きみに恋をしてもいい?」
 ツバメはまっすぐに気持ちを表現するのが好きだったのです。アシの娘は、深々とツバメにおじぎをしました。ツバメはぐるぐるとアシの回りを飛びました。そしてその翼で水面に、銀色の波紋(はもん)を描きました。それがツバメの求愛の印でした。ツバメは夏じゅう、そんなことをしていました。
「ばかなことをしてるよね」ほかのツバメたちがさえずりました。「アシにはお金なんてありゃしないし、第一、親せきが多すぎる」たしかに、川辺はアシでいっぱいでした。
そしてやがて秋が来ると、ほかのツバメたちはみんな、飛んでいってしまいました。
みんなが飛んでいったあと、ツバメは孤独になりました。そして、アシの娘との恋にも疲れてきました。淋しさで、一人こっそりつぶやきます。
「あの子は無口すぎるよ。それにもしかしたら、浮気者かも。だって、いつも風とたわむているもの」
実際(じっさい)風が吹くたびに、アシはこの上ないほど優雅なおじぎをするのでした。
「家庭的なのは認めるけど、僕は旅が好きだから、妻になる人は、やっぱり旅好きでなきゃ」
そしてツバメはとうとう、アシに言いました。「僕と一緒に旅に出ようよ」
けれどもアシは、首を横に振るばかりです。生まれ育ったこの川辺を、離れたくはなかったのでしょう。
「ずっと僕をからかっていたのかい? 君は僕との時間を大切にしてくれなかった」
ツバメは泣きながら、アシに言いました。「僕は、ピラミッドのところに行くよ……。さようなら……」
そしてツバメは、アシのもとから飛び去ったのです。
 
一日じゅう飛び続け、ツバメは夜に、この町に着きました。「どこに泊まろうか……」ツバメはつぶやきました。「いい寝床があればいいんだけど」
そしてツバメは、高い円柱に立っている王子の像を見つけました。
「あそこにしよう。きれいな空気がいっぱい吸えそうだ」ツバメは、王子の足の間に舞い降り、回りを見渡してそっとつぶやきました。「金色のベッドルームだ」。
首を羽毛の間にうずめて、眠りにつこうとしたときです。ふいに上から、大粒のしずくがひとつ、落ちてきました。
 

「ブレージング・スター」 (シノプシス)


リン・マークハム作 “BLAZING STAR”2002年EGMONT BOOKS LTD 156ページ

崔 雅子(全訳 原稿用紙288枚 国内未出版 要版権取得)

 

 天体観測とクラシック音楽を愛する孤独な少年ジェフリー。

 研究のためにアフリカに渡った両親は、彼に手紙もよこさない。

 両親への不信感と寂しさを癒してくれたのは、時空を越えた、ネイティヴ・アメリカンの少年ロングホーンとの交流だった。だがジェフリーは、ロングホーンとのこの交流を通して、自分の心の闇と対峙しなければならなくなる。

 

《シノプシス》

 主人公ジェフリー・パーカーは、ノッティンガムにあるダイム・ワトソン総合中等学校に転校してきた。考古学の研究のために両親がアフリカに渡ってからは、祖母と二人暮しになり、学校も替わったのだ。

ジェフリーは、天体観測とクラシック音楽鑑賞をこよなく愛していたが、その趣味のせいもあり、学校では変わり者扱いされ、いじめられていた。友だちと呼べるのは一人もいなかった。教師たちも尊敬できず、生徒のレベルも低く、この学校では何も学べないと嘆いていた。

 

ジェフリーの祖母は、明るくてチャーミングな老人だった。ジェフリーの気持ちも大切にしてくれる。彼女の趣味は社交ダンス。ジェフリーも家で時々祖母のダンスの練習の相手をさせられていたが、いやではなかった。しかし祖母が、ガーラ・ナイトというダンスパーティーに参加しようとジェフリーを誘うと、難色を示した。祖母とダンスを踊るのは、家の中だけにしておきたかったのだ。それでも、祖母の説得についには根負けして、参加することを約束してしまう。

 

ジェフリーは、アフリカの両親に時々こっそり手紙を書いては、それを投函することなく引き出しの中にしまっていた。連絡をよこさない両親への不信感と恋しさが、心の中で複雑に絡み合っていたのだ。祖母が死ぬことも異常に恐れていた。時々、得たいのしれない悪夢を見ることも。

 

ある日、観測所で木星(ジュピター)を観ていると、木星は急に大きく光りだし、赤い中心を持った違う星に見えてきた。この星はその後も時々ジェフリーの前に現われる。

 

別の日に、通りでネイティヴ・アメリカンの幻らしきものを見るが、ジェフリーの胸は高鳴っていた。弱虫の自分とは全然違う雄々しいインディアンの姿は、自分が待っていた理想だった。ジェフリーは何かに導かれるがごとく、うらぶれた工場に赴き、そこの壁に描かれた例の赤い星を目にする。その星を見つめていると、周囲の色が変わり、景色がゆがみ、そのうち、広々とした草原に立っている自分に気づく。時空を越えて、違う世界に来たのだ。

 

そこでジェフリーは、彼のことをマジック・アイズと呼んで親しげに話しかけてくる、ロングホーンというネイティヴ・アメリカンの少年に出会う。ジェフリーは、ロングホーンの世界ではほかの人には見えないようだ。まるでロングホーンの一部なのか、体を共有している同志なのか分からない。誰かがロングホーンに触れると、自分に触れられたような感触を持つ。ロングホーンの父親が彼を見つめると、自分の目を見られているような気がする。

 

ジェフリーは、ロングホーンと一緒に様々な経験をする。あるときは、弓矢の大会に出、あるときは、野生の馬を馴らし、あるときはソリで遊び、あるときはバッファローをしとめ、あるときは別の部落に忍び込んで馬を盗む。ジェフリーは、ロングホーンの世界に行きたいときには工場に行く。壁の星を見つめているとすっと行ける時もあれば、全然行けない時もあった。いずれにしろその間隔は、こちらの世界では数日おきなのだが、不思議なことにロングホーンの世界では数年の隔たりがあるようだ。ロングホーンは会う度にどんどん成長していく。ついには青年になり、ジェフリーとの年の差もずいぶん開いてしまった。

しかしジェフリーは、ロングホーンと会っているうち少しずつ変わっていく。弱虫の様相はなりをひそめ、自分の意志をはっきりと相手に伝えられるようになる。いじめられっ子を助けるようにもなっていく。その様子を見て、クラス一番の不良少女だったミシェルは、ジェフリーに興味を持ち始める。以前から、祖母を手伝うジェフリーには、何かを感じていたようだが。

 

ジェフリーは時々、両親のことを思い出す。思い出のなかの両親は、いつも優しかった。弟か妹が生まれると言っていたことも思い出した。しかし赤ん坊の顔も見ないままだ。

父の言葉、母の言葉、三人で過ごした穏やかな日々を思い出しながら、ジェフリーはまた寂しさと、自分の心の奥底に渦巻く得たいのしれない恐怖感とにさいなまれる。

 

ある日ジェフリーは、ロングホーンの世界で妙な体験をする。永遠の強さと勇気を手に入れようと大地を踏みしめ、神々に一心に祈っている自分がいる。いや、祈っているのはロングホーンなのか。不思議だった。お腹がすいて足も痛くて、何度も崩れ落ちそうになりながらも、必死で祈りを捧げているのだ。いま、ジェフリーはロングホーンと一体になっているのか。老勇士が目の前に現われる。彼が自分の名前を受け継げと伝える。そしてそれと同時に強さと勇気も手に入れるのだとジェフリー(ロングホーン)は自覚する。

ロングホーンは、ブレージング・スターという名を受け継いだ。

 

しかしその後、ブレージング・スターの部落は厳しい状況に陥る。食糧確保が困難になり、彼も父親もやせ衰え、村は衰退していった。

 

ジェフリーの世界でも、物事は少しずつ変化していった。いじめっ子のダレンと対峙しても、彼とケンカをして自分は傷ついても、相手にとどめはささないジェフリー。そんなジェフリーを、ミシェルが遠くから見つめる。ミシェルの両親は離婚して、彼女はいま母親と叔母と三人暮らし。大人は夜も家に居ず、彼女は淋しい思いをしていた。

一方ジェフリーは、優しい祖母と、気のいい祖母の知り合いに囲まれて暮らしている。年寄りとの交流は時に面倒くさいこともあるが、彼の祖母は、面倒くさいと思うことでもしなければならないこともあるのだと、彼に道徳を教えていく。近所の一人暮らしの老紳士の食事の世話の手伝いなどもジェフリーにさせる。その老紳士が亡くなったあとも、敬意を表することをジェフリーに説く。

 

ミシェルはジェフリーに接近していった。いじめっ子たちにも、ジェフリーに手を出さないようにクギをさしている様子だ。ジェフリーが祖母と社交ダンスを踊っていることを知ると、面白がって自分にも教えろと言い出す。ジェフリーに教えてもらった獅子座流星群の美しい眺めに、素直に感動したりもする。

 

ジェフリーは相変わらず、時々襲ってくる悪夢に苦しめられていた。この悪夢の正体をあばくためには、ブレージング・スターに会わなければならないと、心の奥で声が聞こえる。しかしジェフリーは、その悪夢の正体をあばくことに、この上ない恐怖を感じていた。

 

 ガーラ・ナイトの日。美味しいディナーと生バンドの素晴しい演奏とダンスに、つかの間の幸せを感じるジェフリーがいた。パーティーの企画の一つであるダンスコンテストでは優勝し、楽しいときを過ごす。しかし、パーティー会場にブレージング・スターの気配を感じ、自分はブレージング・スターと共にあの悪夢に対峙しなければならないと決意する。

 

 久しぶりに会ったブレージング・スターは、やせ細っていた。しかしその純粋な目の輝きは美しいままだ。別の部族との争いで父親を失くし、今日はその仇をとりに行くという。ブレージング・スターもジェフリーも、それぞれ自分の恐怖心と対決するときを迎える。

 ブレージング・スターは、ジェフリーに誘導尋問のような言葉を投げかける。「恐れる気持ちは恥ずべきことではない。恐れを知らない人間は、本当の勇気も知らないのだ。すべては神が判断する。ジェフリー、おまえの恐れているものは何だ」

 その言葉を受けてジェフリーは、己の心のひだを探るように言葉を吐き出していく。「僕の恐れているもの、それは、学校で孤立していること。いじめの対象になっていること。それから……父さんと母さんが死んで、もうこの世にいないのを認めてしまうこと」

 ジェフリーは、いま初めて、あの悪夢の正体を自分から白日の下にさらした。両親は一週間の予定でアフリカに向かったが、飛行機が墜落して帰らぬ人になっていた。ジェフリーはその事実を認めたくなくて、ずっと記憶を封印してきたのだ。

 ブレージング・スターとの交流を通して、ジェフリーはやっと自分の心の闇に立ち向かうことができた。お互いの未来を案じさせつつ、二人は永遠の別れの途につく。

「また会えるよね、ブレージング・スター」

「おまえの夢の中だ。そこでまた会おう」

 二人の最後の会話だった。

 

 自分の世界に返ったジェフリーは、祖母に、両親の死の事実を受け入れたことを告げる。そして、「ジェフリー」という名で呼ぶのはもうやめてくれ、これからは「ジェフ」と呼んでくれと。祖母は、孫の成長に嬉しさと淋しさを感じながらも、それを受け入れていこうとする。

 

 学校では、ミシェルがジェフに話しかける。またダンスを教えてくれという。そんなミシェルを、ジェフは家に誘う。

 

 もうブレージング・スターの姿を見ることはなくなったジェフ。しかし彼には、いつでもあの赤い星が見える。誰の目にも見えなくても、ジェフにだけは、ジェフの心の目にだけは、あの赤い星はいつでも輝いているのだ。

 

 Lynne Markham  (2002年・Egmont Books)

 


『マカロニ・ボーイ』 (作品紹介)

 

キャサリン・エアーズ作 崔雅子他共訳 

バベル・プレス A5判ハードカバー223ページ

 

この作品の初版は、2003年2月、ニューヨークのDELACORTE PRESSから発行されました。amazon.comのカスタマーズ・レビューでは、五つ星を獲得しています。また、小中学校の教師を対象としたインターネットのサイトにも、生徒たちにディスカッションの機会を与える授業の資料として紹介されています。それはこの作品が、エンタテインメントだけにとどまらず、子供たちに問題提起をし、時代や社会や家族について考える時間をも提供できる、優れたものであることを示唆しています。

 一九三〇年代、大恐慌真っ只中のアメリカ、ピッツバーグの下町が舞台。いきなり、子供たちのプライドをかけた攻防戦から幕が開きます。この物語の主人公、小学六年生のマイクと、彼に執拗な嫌がらせを繰り返す、同じクラスのシムズとの対決。時代は、まさに世界恐慌、第二次大戦へのカウントダウンの時。町には失業者、浮浪者があふれ、たった一つの石炭を奪い合う大人たちの姿を、子供が目の当たりにしなければならない時代。それでも子供たちは、明るく、タフで、エネルギーにあふれています。家族の一員として家業を手伝い、親の仕事を誇りに思い、元気で、はしゃいで……。

そんな中、事件は起こります。町のネズミが大量死、浮浪者も二人、原因不明の死を遂げます。大好きなおじいちゃんの体と心の不調を心配していたマイクは、おじいちゃんの病気の原因と事件の関連性に気づき、親友のジョゼフとともに解明に乗り出します。そして、ライバル・シムズの協力なしには捜査が進展しないと悟ったマイクが、初めて、大嫌いだったはずのシムズの立場になってものを見ようとした瞬間、それは、少年が心の成長を遂げた瞬間でした。

下町の日常を描きながら、禁酒法や、ルーズベルトのニューディール政策、さらには環境や介護の問題を、子供に分かりやすい形でさりげなく物語のなかに織り込む作者の手法は見事。楽しく読み進めるうちに勉強にもなる、まさに、夏休みの読書感想文の課題図書にも最適の一冊。

 

 

『この作品の共訳出版に参加した理由』                 崔 雅子

 

本当にラッキーでした。こんなステキな作品の共訳出版に参加できたなんて。バベルのヤングアダルト翻訳コンテストで思わぬ受賞を果たし、副賞として、この作品の共訳出版権をいただいたのです。子育てが一段落してから、なんと中高生用の英文法の教科書を開いて翻訳学習を始めたような英語オンチの私ゆえ、他の皆さんの足手まといになるんじゃないかと、始まる前はすごく心配でした。でも、第一回目の打ち合わせ会で監訳の西田先生や皆さんと顔を合わせ、作品や読者層について話し合っているうちに、不安はいつのまにか、みんなで一つの作品を仕上げるんだという喜びに変わっていました。バベル東京のアットホームな雰囲気も手伝って、打ち合わせ会はいつも楽しく、毎回大きな発見があってとても有意義でした。物語中の子供たちの台詞では、今まさにヤングアダルト世代の二人の息子にずいぶん助けられました。また機会があれば、こういう企画に参加したいです。

(2006年)


CAVEAT  EMPTOR (買手危険負担) ➀

原作・JOAN HESS       翻訳・崔 雅子
 
 
 通りを渡ってやってくる姿を初めて目にしたときから、私には、彼女が不平を吐露するタイプに見えた。世のなかの不幸を一身に背負ったように肩を落とし、いかにも人生の不公平を嘆いている表情だ。彼女に提供できる情報がある。人生なんて、思いどおりにならないものよ。もしなるのなら、私だってこんなところでアイロンをかけながらメロドラマなんか観ていない。プールサイドで優雅にトランプなどたしなんでいるわ。
 彼女はポーチに上がってきた。「電話を貸していただけますか?」
「長距離?」やや警戒して聞いてみる。
「ミスター・ワフォードに連絡を取りたいんです。今日までに電気も水道も使えるようにしておくっていう約束だったのに、なんにもできてなくて」
 私は間近で彼女を見た。せいぜい二十代後半。茶色のショートヘアー。なかなかお目にかかれないほどの四角いあごをしている。目は不満と怒りが入り交じったような様子だったが、笑顔は親しみやすそうだ。私も笑顔を返しながら聞いた。「あそこの家を買ったの?」
「サラ・ベンストンです。先週契約したんです。私たちがここに来る時までに、光熱設備を整えておいてくれるはずだったのに。もう九時を過ぎてる。息子と二人でここまで、十四時間の長旅だったんです。水も電気もないんじゃどうすることもできないでしょう? なんとかしてもらわないと」
「息子さんを連れてらっしゃい。ジュースがあるわ」私は言った。「電話したいならしてもいいけど、とりあえず今日はここに泊ったら? 息子さんはいくつ?」
「十歳です。コーディーっていいます。そうね、電話するには遅すぎるかも知れませんね。夜のこんな時間じゃ何もできないでしょうし」
 サラが疲れ切った息子を家に連れてきて、部屋の隅に寝袋を広げてやり、おやすみのキスをしている。この女性がどういう人物か、私はまだ測りかねていた。
「そう、あなたがスティックルマンの家を買ったのね?」ダイニングテーブルに着きながら聞いた。
 サラはコーヒーをすすりながらうなずいた。「いい話だと思ったんです。別れた夫の養育費だって、いつ滞るとも限らないし。学位を取得しないままなんで、ここでもう一度大学に戻ろうと思って。最初はアパートを借りるつもりだったんですが、ミスター・ワフォードが、家を買って資産を築いたらと提案してくれたんです。三、四年後に卒業してから家を売れば、少し利益が出るらしいんです。コーディーも庭のある家に慣れてるし」
「離婚してからどのくらい?」
「一年です」サラはコーヒーカップを置いた。「ご迷惑をかけて本当にすみません。ミセス……」
「ジェームズよ。でも、ディアナって呼んでちょうだい。察するわ。うちの娘も、四年前に離婚してるの。疲れ切ってこの家に戻ってくるまで、それは大変だった。いまは、仕事も安定してる。町の保険会社に勤めているの。高校時代の知り合いの、とっても礼儀正しい男性とも付き合ってる。孫のエイミーは、八歳。もう寝てるわ。女三世代が同じ家にいるなんてあんまりいいものじゃないかも知れないけど、なんとかやってるの。サラ、あなた仕事は?」
「教師の補佐です」サラは肩をすくめた。「薄給なんです。でも家の支払いは家賃といくらも変わらないし。ミスター・ワフォードが個人で融資してくれたんです。私の場合、たぶん正規のローンは組めなかったでしょうから。もし組めたとしても、三千ドル以上の手数料がかかることになってたんです。でもこの方法で、物件の五パーセントの頭金だけですみました。それでなんとか、引っ越しトラックと光熱設備の保証金を払えるお金が残ったんです」
「なるほど」そう言いながらも、納得がいかない気がした。
 娘は仕事を見つけるまで、フードスタンプや生活保護や、貰えるものはなんでも貰わなければやっていけなかった。娘を助けたい気持ちは山々だったが、私には、毎月の障がい者手当しかなかったのだ。
 サラには、ソファをベッドにしてもらった。私は、寝室のベッドに座って窓越しにスティックルマン宅を見つめた。ジェレマイア・ワフォードが、「ジェムと呼んでくれ」などと言いながら、この感じのいい若い女性に、どこまで説明したのかといぶかりながら。
 大事なことは何も話していない。私は、ワフォードの策略に気付いていた。
 
 
2.
 次の日、ポーチからサラの姿を見ていた。スーツケースや家具を運んでいる。手伝いたい気持ちはあったが、この腰ではどうにもならない。サラの息子が一生懸命頑張っている。小さくても一家の男手であろうとしているのだ。近所のペニルスキが見るに見かねてやってきて、箱やマットレス、ベッド枠、不揃いの椅子などを家の中に運び込むのを手伝っている。それでも、サラがほとんどの仕事をこなした。意志を持った女性だという印象を受けた。
 
 コーディーは本当に行儀のいい子だ。平日の午後は、たいていエイミーとテレビ映画を観て過ごすようになった。サラが、お世話になっているからと謝礼を渡そうとしたが、私が断った。コーディーが手を煩わせることはないからと。事実、そのとおりだった。
 越してきてから一か月ほど経ったころ、サラが玄関ドアをノックした。かなり動転しているのはすぐに分かったが、私は気付かない振りをして声をかけた。「コーヒーでもどう?」
「この辺の水道設備はどうなってるの?」腹立たしさからか、少しせきこむような口ぶりだ。「トイレの水が逆流して、バスルームが水浸しなの。配管工は、この辺の家は五十年代の規格外のパイプを使っているから、下水本管から家までちゃんとしたパイプを引かない限りはどうにもならないって言うの。千ドルもかかるのよ。そんなお金どこにあると思う?」
 私は、サラをポーチのブランコに座らせた。
「ワフォードがあなたに黙っていたことがいくつもあるの、サラ。あの男はあの家を買った後、ペンキを塗り替え、床のリノリウムも張り替えた。でもしょせんは古い家。雨漏りしてもびっくりしちゃだめよ。ミセス・スティックルマンは家じゅうの部屋という部屋に、鍋類を置いていたわ」
 サラは目を見開いて私を見た。「どうすればいいの。ミスター・ワフォードに連絡を取っても、だから調査を依頼するようにと勧めたはずだって。でも、三百ドルもかかるものだったのよ。私が聞いたことはといえば、花壇や家庭菜園を持てるってことと、コーディーが遊べる小川があるってことだけ」
「小川で遊ぶなんてとんでもない。クローバー・クリークといえば聞こえはいいかもしれないけれど、あそこは、上流に養鶏所があるの。去年の春、魚が死んだ原因を調査しに役所の人が来たのよ」
「知っておいたほうがいいことは、それだけ?」サラの顔はこわばっていた。
 矛先が私に向かないことを祈った。「この先の角の家に住んでいる人たちはちょっと面倒なの。二、三か月前、警察の手入れがあって、麻薬を売っていたとかで逮捕された。一人はまだ州の刑務所に服役してるけど、二人は釈放されて戻ってきてる。だから私、午後はスクールバスが子供たちを降ろす場所まで迎えに行ってるの。コーディーにも気を付けるように言ってあるわ」
「ありがとう、ディアナ。郵便受けを見ておくわ。どうやら今年は、百万ドルの宝くじにも当たりそうだから」
 
 それからしばらくは、サラと話をする機会がなかった。サラの仕事が忙しかったのと、夕方のクラスがあったからだ。コーディーは絶えず窓の外に目を配っていて、サラの車がドライブウェイに停まるとすぐさま「さよなら」を言って通りを駆けていき、夕食の材料を運ぶのを手伝う。サラと私の娘は、会えば会ったで話はするものの、特別に親しいという間柄にはならなかった。それにひきかえエイミーは、ずいぶんコーディーに入れ揚げていた。コーディーのほうは、年上だから面倒を見てやっているというふうだった。
 その後もサラの家はトラブル続きだった。
                        to be continued………
 

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